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日本細見紀行 

日本各地の旅日記
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1日目 2016年11月2日 仙台

早朝の仙台で

 東京駅23:40発 → 仙台駅前4:57着 

 まだ夜が明けていない仙台で、今晩宿泊することになっているナインアワーズ仙台に向かった。成田空港にできたカプセルホテルは一時話題になった。そのホテルが京都と仙台に進出したようで、仙台店のオープン記念価格は1,900円だった。

 仙台駅から青葉通り、大通り、広瀬通りを歩き20分ほどでナインアワーズに着いた。早朝から荷物を預かってくれることは電話で確かめてあった。2度泊まったことのあるキュア国分町より300mほど仙台駅に近い。

 感じのいいナインアワーズの早朝スタッフに荷物を預けたあと国分町のマクドナルド仙台店に向かった。

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 全国のドトールコーヒーの閉店時間は、もっとも遅い店でも22:00である。深夜営業をしていない。一度調べたことがあるが、スターバックスコーヒーの場合、全国でもっとも遅い閉店時刻は渋谷店の28:00である。こういうときに頼りになるのは24時間営業のマクドナルドである。マクドナルド仙台駅東口店は高速バスを下りた旅人が集まるので混むことを知っていた。地下鉄で1駅ほど離れたところにあるマクドナルド国分町店は空いているだろう。ナインアワーズの近くであるし、一度入ったことがあった。

 すべてが順調に進んでいた早朝の仙台で、マクドナルド仙台店の店頭には“1:00~6:00までは店内清掃のため、ドリンクのテイクアウトしかできない”という貼り紙があった。一方で24時間オープンの文字もあった。今日に限ってはこの店でないとダメである。高速夜行バス(仙台線☆ニュースター・ホリデースター号)は3列シートで、コンセントが付いていることが予約サイトに載っていたにもかかわらず、コンセントはなかった。少なくなったスマートフォンの電池を充電しておく必要があった。

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 今日の最低気温が6℃の仙台の明け方のベンチで30分ほど待った。1人目の客としてマクドナルドに入店したが、歓待してくれたというわけではなかった。


東一市場、仙台銀座

 8:00頃、100mほど離れた東一市場に向かった。仙台三越店の東側の一画にある戦後のバラック風の建物が残る場所である、東一番丁通りという通り名が商店街の名称の由来らしい。

 市場は2階建てになっていたが、2階に店はない。くたびれた商店とくたびれつつある商店と少しくたびれ始めた商店が混ざって東一市場を形成していた。「市場」という名称に惹かれて行ってみたが、古ぼけた飲食店街の1つに過ぎない。

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 大通りを南南東に歩いた。青葉通りとの交差点のところにある「青葉通り地下道ギャラリー」がグーグルマップに引っかかってきた。地下道に入ってみた。壁画を指して地下道ギャラリーと呼ばれているのかどうかよくわからなかった。

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 交差点の南東側が仙台銀座である。ぱっとしない感じであることを予想していた。予想通りの、銀座とはかけ離れた飲食店街だった。

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Iさんと合流、仙台浅草へ

 仙台駅に向かった。駅前のペデストリアンデッキでIさんと待ち合わせた。2ヶ月ほど前に稚内で会ったばかりである。9月初旬の稚内も寒かったが、今日の仙台はそれ以上に寒い。

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 Iさんとは数日前から情報交換をしていた。仙台浅草に行くことを決めていた。仙台の地下鉄は南北線と東西線の2系統しかない。南北線に乗って北側に5つ目の北仙台駅で下車した。地上に出たところの左手にJR北仙台駅があった。

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 「ホルモン食堂食楽」を無視し宮城県道136号を南に歩いた。周辺の住所は昭和町である。西友を過ぎた右手にひっそりと隠れていた商店街が顔を出した。仙台浅草(商店街)である。

 マンションが建ち始め仙台のベッドタウン化の様相を呈している北仙台駅周辺にあって、仙台浅草は周囲とは異なる空間だった。仙台浅草だけを残してマンションを開発し道路を建設していったのだろう。

 結界を踏み越え商店街のなかに入ってみた。ほぼ一直線に続く通りの両側に飲食店を中心とした店が並んでいた。

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 ぶらぶらと歩きながら、一店ごとの店構え、店のネーミング、看板のロゴなどをIさんとチェックした。古い店に交じって改装を終えた新しい店はいくつかあった。ただ、改装のために十分な費用をかけ切れていない中途半端さが見て取れた。

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 店名「ぬんちゃっく」=ぬん+(茶)+

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 仙台浅草は治外法権のエリアである。「仙台浅草安全委員会」は存在しない。

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 私たちは突っ込みを入れるべきところで間違いなく突っ込むという律儀さと誠実さをもって通りを歩いた。短い商店街をわざと時間をかけて往復してみたが、そうしてみても商店街は短すぎた。

 仙台浅草の外側の道路で信号機の取り換え作業をしているようだった。歩道に無造作に置かれていた新品の信号機は予想以上に大きなものだった。辺りに作業員はいないからといって信号機を持って遁走をするのは止めたほうがいい。今夜のニュースになる前に、重すぎて投げ出すことになる。

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 周辺を見渡しても浅草銀座以外に見るべきものはなさそうだった。地下鉄ではなくJR仙山線で仙台駅にもどることにした。地下鉄では5駅を乗って250円だったが、JRでは2駅分で190円である。

 北仙台10:14発 → 仙台10:21着


仙台駅

 仙台駅の探索を兼ね、駅構内の商業施設を見て歩いた。駅3階の新幹線中央改札口の近くの少しわかりにくいところに「牛たん通り・すし通り」があった。昼ご飯に何を食べるかは決まっていた、というよりIさんが決めていたが、どこで食べるかを決めていなかった。駅ビルの「ずんだ茶寮」で「ずんだ餅」を食べながら検討をした。どこで食べるかの大きな枠組みはやはり決められていたというべきだろう。

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 Iさんは仙台の「牛たん」事情に通じていた。東京でも食べられる店はどこにあり、どこが有名店で、観光客は国分町のどういったところで食べるといったことに熟知していた。

 「牛たん通り」の「たんや善治郎」は予約ができないらしいので並ぶことにした。ちなみに「牛たん通り」における「たんや善治郎」は3番人気ある。牛たんの店には、なぜ「善治郎」「利休」「㐂助」といった江戸時代的な名称が多いのだろう。


「たんや善治郎」でHさん合流

 「たんや善治郎」に入ったのとほぼ同じ時刻、Hさんは仙台駅の仙山線のホームに降り立った。改札内と改札外との行き違いはあったようだが、迎えに行ったIさんがHさんを連れて来た。

 今日Iさんは秋保温泉から、Hさんは銀山温泉から仙台に来ている。秋保温泉は仙台からバスで50分くらいだが、銀山温泉からは大石田駅までをバス、そのあと奥羽本線(山形県内の愛称は山形線)と仙山線を乗り継いで4時間以上かかる。

 私たち3人の再会は2014年9月のティラナ(アルバニアの首都)以来である。だから話は積もり積もっているわけで、話題はあちこちに飛び、話は前後左右したが、「たんや善治郎」の牛たんは少し固く「つや姫」はうまいという話を最後に店を出た。次にどこに行こうと決めていなかったけれど。

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伊達政宗は独眼竜でなかった!

 青森から500台の車が南に向かって出発し、東京から500台の車が北に向かって出発し、1,000台の車が集結する仙台には見るべきところがない。せいぜい仙台城くらいだが、城址には天守閣が残っていない。天守閣がない城は観光地としてはパワー不足である。

 7番バッター、8番バッターレベルの打者を1番から9番まで並べた打線で仙台観光局は戦っている。

 H&Iは伊達政宗像を見たいらしい。

 仙台駅前のバス乗り場から市内の観光地を周遊する「るーぷる仙台」に乗った。このバスのやっかいなところは一方通行であることだ。普通この種のバスは双方向に運転するはずなのだが、仙台ではそうなっていない。だから1つのバス停を乗り過ごすと乗り過ごしたバス停で下りるためにほぼ1周しなくてはならない。うかうかできない。

 仙台城跡バス停で下車した。城の階段を上り伊達政宗像のある広場に出た。広場から仙台市街が見えたが、それほど高い場所にあるわけではないので見渡せたというわけではない。天気はよく冷たい空気が街の風景をすがすがしく感じさせてくれた。

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 銅像の伊達政宗は独眼竜ではなかった。右眼に眼帯はなかった。右眼周辺をわざとくすんだふうにしているようにも見えたが、銅像の下からではよくわからなかった。

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 トウモロコシを食べたいだけのIさんは、伊達政宗像の近くでトウモロコシを売っているおばさんからトウモロコシを買うついでに「なぜ眼帯がないのか」を尋ねたかったようだが、それは無理難題というものである。以前、王子駅(東京都)の近くの小さな公園で、碑に刻まれていた文字を読めずにいた人から、「近くにいるし読めそうだと思ったから」という理由で「なんと書いてあるのか」と質問されたことがあったが、わかるわけがない。対象物の近くにいることと対象物にたいする知識を持っているというのは別のことである。

 Hさん調べによると、仙台市をよく見渡すために銅像の両眼を開けておいたということらしい。市がこんなことをしていのかと思うのだが、上野の西郷隆盛の銅像の除幕式に参列した隆盛の妻は銅像を見て「これは夫ではない」と呟いた。銅像にはいい加減な側面がある。一方、世界のあちこちにあるレーニン像は後姿からでも「あれはレーニンだ」とわかるほどに統一されている。弘法大師像も似たようなものなのだが、越生(埼玉県)の法恩寺にある弘法大師像だけは驚くほどスリムで均整がとれたアスリートのようであった。こうあってほしいというイメージが入り込むのも銅像である。

 馬に乗った伊達政宗像のポージングをしようとあれやこれやと考えた。H&Iと私(主にH&I)は世界各地にあるモニュメントをポージングしようと試みているが、伊達政宗像については断念せざるを得なかった。


「伊達武将隊」の支倉常長と真田幸村と話した

 仙台城址で2人の人物にあった。1人目は支倉常長で、2人目は真田幸村である。2人は「奥州・仙台おもてなし集団『伊達武将隊』」のメンバーである。メンバーは交代で毎日2人ずつ仙台城址にいるようだ。城址にいないときのメンバーは別のアトラクションやイベントに登場しており、忙しいスケジュールで働いている。生きていた時代が異なる松尾芭蕉もメンバーである。芭蕉のイメージは伊達武将隊のそれとは異なるものである。芭蕉の生まれは三重県伊賀市である。

 伊達政宗は「慶長遣欧使節」を欧州に派遣した。石巻を出帆し太平洋・大西洋を越え、メキシコ、スペイン、ローマを訪れた。支倉常長はそのリーダーである。支倉はローマ法王に謁見した。

 2014年、私とH&Iはそれぞれ、時間差でティラナに入った。私は(他の日本人といっしょに)早朝のバスでウルティ二からモンテネグロ・アルバニア国境を越えたとき、タクシーをシェアするためにかわいそうなマレーシア人を竜巻のように巻き込んだH&Iは、ほとんど同じ時刻に国境を越えた。その日のティラナは要人が来るということで交通規制が敷かれていた。市民は沿道に繰り出していたが、バスもタクシーも市内中心部には入ることができなくなっていた。要人とはローマ法王である。H&Iは市内までの4kmほどの道路を、私(ともう1人の日本人)とは別に歩いていたわけだが、ローマ法王を見ることはできなかった(私と1mの距離にいた日本人も見なかった)。誰が来るのかわからない車列のなかで、カメラのレンズのなかに唐突に出現した神々しき御姿を私は独眼竜ではない両の眼でキャッチした。

 下の1枚はティラナを訪問したローマ法王。2014年9月21日。

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 私と支倉さんとのつながりはローマ法王を見たことである以外にもう1つあった。遠い夏の日の夕方、スペインのセビリアで38度くらいの熱が出た状態でホテル探しを強いられたことがあった。もうダメかもしれないと座りこんだところはヒラルダの塔の下辺りだった。支倉常長がヨーロッパ大陸に上陸した地点である。

 ところで長崎県の歴史の教科書には支倉常長が載っていないと主張する人がいたが、それは無視することにしよう。

 2人目の「伊達武将隊」の真田幸村は、赤い兜と甲冑を身に付けていた。支倉常長はユーモアのある人が演じていたが、真田幸村のほうはやや無骨な感じの人がやっていた。私の実家の近くには歴史資料館九度山・真田ミュージアムがあるのだが、真田幸村については何も知らない。


ずんだ餅

 ずんだ餅、仙台づけ丼(白身魚を“づけ”にした丼)、仙台あおば餃子(仙台産の雪菜を皮と具に盛り込んだ緑色の餃子)を仙台で気になる食べ物としてあらかじめIさんにメールしておいた。あとは勝手にコーデイネイトしてくれるだろう(実際にそうしてくれた)。

 ずんだ餅は、味としては比較的平凡であるが、平凡な甘いうまさがある。味覚は人によって異なるが、その異なり度は天と地ほどの差があることを知った。それは仙台ベガルタと浦和レッズの差では収まらない。楽天イーグルスと日本ハムファイターズの差ではない。楽天イーグルスと仙台ベガルタの差、つまりフットボールと野球の差ほどに異なるもののようだ。

 ずんだ餅は私と多くの仙台市民にはやさしかった。以前食べたことがあったIさんにはやや厳しかったようで「たんや善治郎」に行く前に入った「ずんだ茶寮」では「ずんだシェイク」を注文していた。仙台城の伊達政宗歴史館で今日初めてずんだ餅を食べたHさんは口に入れた瞬間、水を求めて仙台城址を駆け抜けた。トリカブトでも口に入れたのではないかと思うくらいに。トリカブトが盛られたかもしれないずんだ餅をあとで私が毒味してみたが、いたって美味であった。


川内追廻地区。喪失された戦後

 いつまでもそこにあるとは限らない。見るべきときに見ておかないとあとになって悔やむことがある。仙台の川内追廻地区はそういう場所になってしまった。その場所があることを知ったのは2010年頃である。

 そこにはかって満州や台湾からの引揚者が住んだ住宅群があった。仙台空襲で家を失った人たちもその地区にやって来た。そこでは粗末なバラック長屋が建ち、入居が始まった。1950年代には約600世帯、4,000人がいたようだ。商店、診療所、保育所ができていった。町が形成されていったのだ。町の運営主体であった「住宅営団」はGHQに解散させられたあと、住民たちは土地の所有者である国から土地を借り、住宅を購入した。

 やがて地区は衰退していった。2008年に75世帯144人になった。2015年5月時点で3世帯だけになったという記録があった。住人は、例えば手紙に住所を書くのが嫌だったらしい。そこが「無番地」だったからである。住民の間で親しまれていた童謡「オイマワシノアカトンボ」がある。追廻に住んだスズキヘキが作詞し、弟が作曲した。

 テンシュダイカラ アカトンボ ドンドンアソビニオリテコイ

 ここまでの川内追廻地区に関する記載については「追憶の風景 戦後70年 残された『無番地』の街」 2015年5月12日読売新聞を参考にさせていただいた。

 テンシュダイとは天守(閣)のある場所なのだろう。見上げるべきものの象徴としての天守閣は、貧しい生活をする者にとっては裕福な仙台市民を指していたのかもしれない。

 2011年に2度仙台に来ていながら、川内追廻地区に行かなかったのは、東日本大震災の被災地を回ることに時間を費やしたからである。2015年に来たときも被災地の復興の過程をみることが目的だった。いずれも国分町には泊まったが、市内は通過するだけになっていた。そういうことをしているうちにも川内追廻地区には変化の時間がゆっくり流れていった。

 今朝、8:30に開いた観光案内所(8:30に開く観光案内所を他に知らない)で確認した。川内追廻地区には一軒の家も残っていないことを。

 仙台城址から歩いた。バスが走る道路を下り途中で脇の道に入った。少し歩くとそれらしい場所が見えてきた。地図で見ると仙台城跡の近くの広瀬川右岸にその地区はあった。

 整地を担当したであろう業者のプレハブ事務所があるだけの何もない広場だった。業者が取り払ったのはこの地区の過去と歴史だった。人が住んでいた傷痕は消されていた。ざらざらとした無機質な風景があった。

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 地区は2つに分かれていた。隣の広場は草が生い茂る荒れ放題の畑のようだった。住居を撤去した状態のまま、整地をしていないので草が伸び放題になっているのだろう(推測である)。道路は草のなかに隠れていた。車を止めてわざわざ探索しないと道路が見つからなかった大夕張(北海道)を思い出した。

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 その一角に2軒の家が残っていた。読売新聞の記事にあった2015年の時点で残っていた3軒のうちの、2軒かもしれない。

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 かっての無番地には番地が与えられていた「(仙台市)青葉区川内追廻住宅xxx」。

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 仙台市はこの場所を公園にする計画である。

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新スポット「メディアテーク」

 伊達政宗と川内追廻地区を見たあと、国分町に向かうことにした。「るーぷる仙台」バスは青葉山駅、国際センター駅・宮城県美術館前、大崎八幡宮前などといったバス停に停まりながら仙台駅をめざしていた。突然、バス左手に斬新な建物が出現した。メディアテーク前バス停で慌てて下りた。

 メディアテークでは「絶望読書フェア」というのが開かれていた。並べられていたは「絶望」をテーマにした本だけではなかった。1階はグッズの販売コーナーやカフェがあった。イベントが行われていた関係で5、6階には入れなかったが、7階には立ち寄ってみた。単なる自習室だったが、何かの目的を持った人たちが集まっていたのかもしれない。透明なエレベーターの上下動の際に図書室が見えた。

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「ぶんちょう」と呼ばれている国分町に繰り出した!

 国分町はメディアテークの近くだった。適当に歩きながら夜ご飯の店を探した。驚くほど客引きの多い繁華街である。10㎡における客引きの数は新宿歌舞伎町をはるかに凌駕しているだろう。宮城県警がこの状態を放置し続ければ、国分町は客から見放されるだろう。東日本大震災の復興の拠点としてボランティアをはじめとした多くの人が仙台に集まった。当然国分町で飲み食いすることになる。その弊害が出てしまったという気がする。

 私たちは波状的に押し寄せてくる客引きをあしらいながら歩いていたが、何度も食いついてきた、ある客引きに根負けして付いていった。バー系統の店が数軒入っているビルの、やや古びたエレベーターを降りた階にあったあぶなそうな店の、テーブルに付く直前に断って出てきた。入り口付近にあった席が快適でなさそうだったからである。

 そのあとに入った店はやや雑な感じの居酒屋だった。どこかの漁港にある“やん衆”がやっていそうな店だった「三陸天海一家」。次にどこに行きたいのかというのは旅人同士で必ず出てくる話題である。ネパール、インド、アフリカ、ギリシャ、お遍路などが登場していたが、次の集結場所は特定されなかった。誰かがどこかに行ったときにそこが合流地点になるだろう。

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宿泊先はナインアワーズ仙台
 
 秋保温泉からやって来たIさんは(80%ぐらいは)最終バスで秋保温泉に帰る予定でいた。100%帰るとしなかったところにIさんの甘さがあったのかもしれない。泊まる可能性の20%は、30分ぐらいの間に100%に引き上げられた。

 銀山温泉からやってきたHさんはネットカフェに泊るつもりでいたために宿泊先を予約していなかった。宿泊先を予約することが加速度的に常識化されていった近年の国内旅行において、夜の時間が進んでいっても宿泊先が一向に気にならないHさんには負けたと思った。何に負けたのかはわからないのだけれど。

 冒頭に書いたように、ナインアワーズ仙台という今をときめくカプセルホテルを予約していた。H&Iもナインアワーズに泊ることになったが、アジアの客引きのように紹介料を私はナインアワーズに請求していない。

 私はナインアワーズにチェックインし、H&Iはナインアワーズのレセプション前でわざわざネット予約をした。そうすることで安いネット料金が適応されるからである。面倒くさいことであるが、ネット予約を管理している場所がホテルのレセプションではない場合にしばしばあることである。

 カプセルホテルが初めてだというH&Iの感想を、後日まだ聞いてはいない。


仙台づけ丼、そして3軒目

 Iさんがナインアワーズのレセプション前で、仙台づけ丼の店を探し出し予約してくれた。

 閉店まであまり時間がなかった。「富貴寿司」は、駆け込んだ私たちに席を整えて待っていてくれた。メニューも開かずに、仙台づけ丼を注文した。具材はその日によって変わるのだろう。今日の具材が書かれたものが渡された。仙台味噌を隠し味にしたというタレがあっさりしていた。

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 「富貴寿司」を出たあと、軽く飲めるバー系の店を探したが、見つけることができなかった。結局、3軒目は「二丁目酒場」になった。ここではあまり身になるような話しをしていないように思うが、そのことさえもよく覚えていない。

 ブログを書こうしたときに、夜になって入った店の名前を覚えていなかったことに気がついた。3軒ともIさんに確認したのでなんとか記事に登場させることができた。
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