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日本細見紀行 

日本各地の旅日記
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さよなら辺野古、石川経由でコザにもどった/[付録]普天間基地を徒歩で一周してみた 2012年1月30日

5日目(2)  2015年11月30日  コザ 辺野古(名護) 石川(うるま)

 おじいさんは語った。

 フェンスの向こうに缶が放り投げられているだろう。俺たちはあんなことをしない。前にオズプレイ研究会(←こういう研究会があることを知らなかった)のサイトで、彼らがフェンス内に汚物を投げ入れてやったと書いてあるのを俺は読んだことがある。つまり抗議活動をしている俺たちがやったというふうに見せるためにあいつらは缶を投げ入れたりするんだ。

 確かに抗議活動をしている人たちはフェンス内に缶を放り投げたりしなさそうである。もっともサイト内の投稿の、汚物がらみの記事は真偽自体が不明である。

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 それより、辺野古で抗議活動をしている人たちがネトウヨ(ネット右翼)のサイトをチェックしていることがわかった。

 このあと、おじいさんはフェンスの向こうをゆっくり走るジープの米兵に英語でなじった。米兵も何かを喋り応戦してきた。

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 辺野古での抗議活動は十分に古典的だった。そこにSEALDsの影が感じられなかったのは幸いである。辺野古の抗議活動に、世界のデモ史上群を抜いてリアリティのない集団が加わったら、辺野古の全体像がカオスでパンクなものになってしまう。

 辺野古の抗議活動は地域に限定した問題であり、断じて憲法問題ではない。そもそも普天間基地の危険性をどうするかという問題だけである。仮にSEALDs的な集団からのアプローチがあったとしても辺野古はその手をつかんではいけない。彼らは、空想的な憲法を雑に解釈する集団であり、その集団をいつでも解散できる。国会議事堂前にいた個人が渋谷を歩けば、どこの誰かわからない。しかし辺野古のキャンプシュワブは空想的ではない。鉄条網はリアルである。

 辺野古の集落には乾いた風がよく似合った。たぶん当分は来ないだろう。
 
 第二辺野古バス停にやってきた77番バスでコザに向かった。

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 バスは国道329号線を南に向けて走っている。金武(きん)で降りるかどうか迷った。金武はキャンプハンセンの前にある町である。下の6枚は2011年1月30日の金武。

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 下の5枚は2008年1月30日の金武。

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 NHKドラマ「デザイナーベイビー」で本格復帰を果たした黒木メイサがプロフィールに沖縄県名護市と書くのではなく、「沖縄県名護市辺野古」と書けるようになってほしい。辺野古という文字を入れても、イメージダウンにならないようになってほしいという意味である。プロゴルファー宮里藍が堂々と出身地の金武について語ったように。

 金武は飲み屋の町である。客に米兵は多い。キャンプハンセンとの距離を考えると、歩いて飲みに来ると思われる。辺野古に向かうバスのなかから注意して見ていたが、あまり賑わっている感じではなかった。もちろんバスのなかからではわからないけれど。

 帰りのバスで金武で降りるのを止めた。石川まで行くことにした。

 琉映前バス停で降りた。石川は特徴のある町ではないが、4つのアーチがある。アーチは簡易なものである。重みがないことこの上ないが、「石川社交街」と書いてある以上、無視するわけにはいかないのだ。石川社交街リバーストーン通り、石川社交街ハイビスカス通り、石川社交街サンダカン通り、石川社交街うずりん通り。ご丁寧に4ヶ所に書かれている。こういうことをされると歩かざるを得ない。だからもちろん歩いた、別の場所で降りたほうがよかったと思いながら。

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 下の6枚は2011年1月30日の石川の写真である。

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 初めて石川に来たのは2008年1月30日である。粟国島から那覇にもどり、バスで金武に向かった。途中、車窓に石川社交外街リバーストーン通りのアーチを見た。社交街という名称を見つけて寄らないわけにはいかない。金武からの帰りに降りてみた。

 それが石川との出会いである。このとき私が見たのはリバーストーン通りとハイビスカス通りだけである。サンダカン通り、うずりん通りを見ていない。だから2008年1月30日にはもしかしたら2つの通りにだけしかアーチがなかったのかもしれない。

 他の2つの通りは近くにあるのだから、アーチがあれば見落とすはずがないじゃないかということである。しかし今となって思うのは、やはり見落としたのだと思う。そのときの私はたまたま見つけた「石川社交街」という文字に狂喜しており、そのことしか頭のなかになく、周辺を歩いてみようという気にはならなかったのだ。

 2005年にうるま市というバカバカしい名称の自治体が誕生し、石川市、具志川市、勝連町、与那城町という素晴らしい名称が自治体名から消えた(石川の名称はどうでもよい)。しかし石川行き、具志川行きなどのバスはまだ走っている。石川はともかく具志川という名前はぜったいに残すべきである。こういう名称を残すことによって、今後、沖縄中部にやってくる新参者に、バス旅のむずかしさを教育してやるべきである。

 下の5枚は2008年1月30日の石川である。

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 4つのアーチとその周辺を見たあともう少し歩いた。5つ目のアーチを発見した。やったと思い、近寄っていくと、社交街のアーチではなかった。うるま市役所の駐車場に入るところにある門だった。うるま市役所に入ってみた。

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 うるま市役所だと思った建物は、うるま市役所石川庁舎だった。合併後、市役所の本庁舎は具志川に設置されたようだ。それでも石川庁舎には一通りの機能はあるようだ。

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 石川庁舎の1階には、1959年6月30日に起った米軍の航空事故の掲示があった。宮森小学校米軍機墜落事故と呼ばれているらしい。知らなかった。米空軍のジェット戦闘機が操縦不能になり、パイロットは脱出した。機体は民家35棟をなぎ倒し、宮森小学校のトタン屋根校舎に追突し、隣のコンクリート校舎を直撃した。死者17人(小学生11人、住民6人)、重軽傷者210人、校舎3棟、民家27棟、公民館1棟が全焼、校舎2棟と民家8棟が半焼になった。大惨事である。

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 石川で降りたということは、平良川交差点や赤道交差点で降りることをあきらめたということである。平良川交差点はホテルハーバーに泊まったときに歩いた。飲み屋が少しあるだけだが、もう少し奥のほうまで歩いてみたいと思っていた。赤道交差点は以前からその名称が気になっていたが、2つはまた次回ということになる。

 石川市場前から75番バスに乗った。琉球バスの石川北谷線でコザにもどってきた。

 胡屋バス停で降り一番街に入り、中央パークアベニューの周辺を歩いてみた。

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 ヒルストリートは閉まっていた。まさかと思い、近くの人に尋ねた。だいじょうぶ、閉鎖ではなかった。シャッターを下ろす時間を過ぎていたということだった。以前この近くにあったコザクラという小さなバーがあった。コザの情報発信基地のようなところであったが、開業後数年で閉じてしまった。コザは新しい店がすぐにできるが、知らないうちに無くなってしまうので注意が必要なのだ。

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 照屋三線店はあいかわらずあった。

 久しぶりにデイゴホテルを見た。コザには10回以上来ているはずだが、何回来たのかを覚えていない。日帰りが多いが、泊まった回数はわかる。泊まったホテルを覚えているからだ。デイゴホテル、クラウンホテル、赤坂ホテル、吉田ホテル、それに昨日チェックインした隠れ家ホテルのいちご屋である。コザに2泊するのか今回が初めてである。

 下の1枚は2004年10月30日のデイゴホテル。ここには1泊ずつで、3回泊まっている。デイゴホテルはコザの名門ホテルである。横浜DeNAベイスターズ、女子ソフトボール日本代表が泊まっている。映画「涙そうそう」の主演は長澤まさみと妻夫木聡である。妻夫木聡が宿泊していたのはデイゴホテルだが、長澤まさみがどこに宿泊したのかはわからない。

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 下の1枚は200*年のグレイスホテル。おじいとおばあがやっている。

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 下の1枚は2013年2月9日の吉田ホテル。電話での予約が入っていなかった。布団部屋のようなところに泊まることになった。

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 下の2枚は2013年12月13日の赤坂ホテル。玄関付近はアジアのゲストハウスのようだった。

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 大衆食堂ミッキーに入った。映画「涙そうそう」の撮影の際、ロケ弁はこの店から運ばれた。2014年3月の沖縄国際映画祭でガレッジセールのゴリが手掛けた映画「ロクな人生」のロケ地でもある。オムライスはうまかった。

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 中央パークアベニューを北のほうに歩いた。インド屋は健在だった。

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 Aサインのあったニューヨークレストランは閉店したまま、健在だった。ロサンゼルスレストランとしてコザの地域コンテンツムービーに登場したことは、[やってみるさ~。企業家たちのコザ]2013年12月13日のブログで取り上げた。肯定的にではないけれど。

 関連ページ「やってみるさ~。企業家たちのコザ]

 チャリータコスに客がいるのをほとんど見たことはないが、健在である。無事之名馬。

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 コリンザは相変わらず伽藍堂のようだった。1階のスペースにあったのはトランスコスモスだけだった。それはこの2年間、店舗の動きはなかったということである。那覇に2店あるドン・キホーテに来てほしいとは思わないが、スペースを埋める必要はある。3年入居すれば1年目の賃料を返却するというアイデアはどうだろうか。そうでないとこのまま永遠に伽藍堂ということになってしまう。コザ・ミュージックタウンが埋まったのだから、次はここを何とかしないといけないぞ、沖縄市長。   

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 いちご屋にもどった。コザ2泊目の夜は見事なくらい平凡に終わっていった。

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[付録]普天間基地を徒歩で一周してみた/2012年1月30日

 辺野古について書いたのだから、普天間を書かないわけにはいかない。沖縄での行動パターンを変えようといろいろ考えていたとき、ふいに思いついた。普天間基地を一周してみよう。沖縄への進入角度を変えようとしていた私にとって、それはとてもよい思い付きに思えた。

 基地をなぞるように一周するわけではない。そんなことはできない。おもしろそうなところを歩くのである。地図で目測すると16kmくらいである。京王井の頭線、東急池上線、東急(旧)目蒲線などを1日で全線歩いたことがあった。このうち京王井の頭線は12.7km、東急(旧)目蒲線は12.9kmである。常に線路に沿って歩けるわけではないし駅周辺を探索するので、これくらいの長さの路線の場合、実際は18~20kmほど歩くことになる。同じ距離でも、途中の駅数が増えれば、歩く距離は長くなる。お遍路の場合、男子30km女子25kmと言われている。普天間基地一周はおそらくできるだろう。

 2012年1月30日は私が普天間基地を一周した日である。下の写真はすべてこの日の写真である。

 那覇からやって来た私は普天間で降りた。見覚えのある歩道橋のところである。まずは普天間宮に寄った。

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 普天間の周辺にはひなびた飲み屋街がある。飲み屋街のなかにあるすずらん通りを歩く。

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 普天間基地は世界一危険な基地と呼ばれている。周辺の人口密度がその理由になっているのだが、厚木基地に隣接する大和市のほうが人口密度は高い。私は1994年から2005年まで神奈川県大和市に住んでいた。10年間、私の家の上空をジェット機が飛んでいた。遠くから地響きのような轟音がしたと思うと、テレビの音はかき消された。対抗策は、常に近いところにテレビのリモコンを置いておくことである。ジェット機が来たなと思ったら、リモコンの音量を上げ、去っていくのに従って音量を下げるのである。下げるのが遅れると、部屋にはテレビの大音量だけが残る。同じ大和市内で電話をしているときにジェット機が飛ぶと、近いほうの電話に先に音がはいる。通話の相手が厚木基地に近い場合は、受話器のなかで聞こえていたジェット機音が段々実際に聞こえるジェット機音に変化をしていくのがわかる。米空母が横須賀港に入ると、艦載機が厚木基地に降りる。24:00近くでもうるさいときが何度もあった。1964年には大和市に米軍機が墜落している。大和米軍機墜落事故と呼ばれている。寝ているときに飛んでくると、自宅に落ちてくるのではないかと思ったことは何度もある。

 小さいジェット機ほど音が高くうるさい。普天間基地と比べると発着回数はずっと少ない環境だったのだが、基地周辺の住みにくさを少しはわかる。

 飲み屋街を抜け、住宅街を歩いた。雨が強くなったときがあり、雨宿りをしながら歩いた。いすのき通りがこの辺りの一番大きな通りである。その少し南に、普天間基地の北側のファンスがある。フェンスの外から基地のなかは見えない。

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 普天間第二小学校の前に出た。近くに普天間中学校もあるが、小学校は基地に隣接している。テレビニュースに登場するのは必ず小学校である。

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 途中からいすのき通りが普天間基地の北側を沿うようになってきたが、通りはやがて北に向かって曲がるので、基地から離れることになった。

 いすのき通りが終わるところに県道81号が東西に走っている。北側にはキャンプ・フォスターである。県道81号は坂になっており、東から西に向かったほうに下っていく。キャンプ・フォスターの眺めはよく、途中に反対運動の旗やノボリがあったりするが、日本名でキャンプ瑞慶覧(ずけらん)という名称はまったく有名ではない。

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 キャンプ・フォスターのなかには司令部や兵舎があるだけではない。住宅、小中学校、銀行、郵便局、娯楽施設、教会などがあるという。つまり米兵士のための街が形成されている。この旅の3年後の2015年、西普天間住宅地区51ヘクタールが返還されたことは記録しておかなければならない。

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 県道81号線を西に歩く。国道58号線との伊佐交差点に出た。

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 伊佐交差点から国道58号を北に向けて1kmほど歩いた。普天間基地の反対のほうに歩いたことになる。北前バス停を過ぎたところに数軒のバーがあるはずである。パンクな感じであるが、営業をしているのかどうかわからない。バスでここを通るとき、一度北前バス停で降りてみようと思いながら、その機会はなかった。今日のようなことでもしない限り、ここに来ることはなかったかもしれない。

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 1kmほど南に歩き、伊佐交差点にもどった。

 さらに南に歩いた。どんどん歩いた。沖縄アクターズスクールがこんなところにあった。住所は沖縄県宜野湾市大山6丁目3―3となっていた。安室奈美恵、山田優、SPEED、黒木メイサ、知念里奈、DA PUMP、misonoらを輩出している。

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 国道58号線から内側(東側)の道に移動した。パイプラインという名前がついた道だった。森川の塔があり宜野湾市立博物館があった。

 内側を歩いたことで少しショートカットできたが、ほんの少しである。

 県道43号線に入った。南西方向に長い坂を歩く。行程の半分を過ぎたが、伊佐交差点から北前バス停辺りまで往復2kmの寄り道をしたので、既に10kmくらいは歩いているだろう。

 ところどころに飲食店やコンビニがある。県道43号線を歩き始めてから1kmほど歩き、真栄原(まえはら)に入った。県道34号線の北側が真栄原3丁目、南側が2丁目である。おかしい、あるべきところにアーチがない。真栄原を象徴するアーチである。

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 以前入ったことのある食堂も目印になるはずなのだが、どうやらそこは新しい店舗になっていた(なんと3店目である。来るたびに店が変わっている)。そういうこともあり真栄原の入り口を確定できない。真栄原2丁目を歩き回った。まちがいないと思われるエリアを歩いているのだが、見つからない。場所が場所だけに誰かに尋ねるわけにはいかない。そしてあきらめてここを去ろうとしたき、ようやく見覚えのある場所に入った。最初に当たりを付けたところを10mぐらい奥に行けば、すぐにわかったはずだった。あると思われたアーチがなかったことが道に迷った原因である。

 真栄原は息の根を止められていた。

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 下の5枚は2008年1月30日の真栄原のアーチと周辺。

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 真栄原交差点から県道241号線を南に歩いた。500mほど南にある信号のある三叉路を右に行くと嘉数高台公園がある。ここは普天間基地が見える場所である。

 防衛大臣が初めて沖縄を訪問する場合、必ずここにやってくる。そして普天間基地を眺める。修学旅行生たちもここにやってくる。私が行ったとき、残念なことに修学旅行生はいなかったが、幸いなことに防衛大臣もいなかった。軍用機が南のほうから飛んできて、次々と普天間基地に着陸していった。30分ほど軍用機と普天間基地を見たあと、高台をあとにした。軍用機の離発着は頻繁だった。

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 県道241号線から県道34号線を東〈南〉に歩く。真栄原交差点から1kmと少し歩き、国道330号線に入った。第4コーナーを回ったといいたいところだが、ここからが長い。左手に宜野湾記念病院があった。その奥に沖縄国際大学がある。2004年、普天間基地所属の大型輸送ヘリコプターが訓練中に沖縄国際大学の建物に接触し、墜落、炎上した。乗員は負傷したが、大学職員と学生に負傷者は出なかった。時間があれば行くつもりでいたが、止めた。疲れがピークに達していた。

*今日のブログ内で、宮森小学校米軍機墜落事故(石川)、沖縄国際大学米軍ヘリコプター墜落事件(宜野湾)、大和米軍機墜落事故(神奈川県大和市)について触れることになった。書き始めたときにはまったく予想していないことである。

 県道330号線をただひたすら歩いた。県道は途中で方向を変えた。左手に普天間基地が見え始めたすぐ先に宜野湾市役所があった。最後の力を振り絞って入ってみた。特別な地域の自治体の市役所や役場は入ってみる価値がある。夕張市役所や根室市役所ほどではなかったが、宜野湾市役所にしかないものがあった。普天間基地への抗議の掲示板といっていいだろう。

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 宜野湾市役所から1.5km。普天間高校前にある日本航空の看板前にもどってきた。やってみる価値はあったが、基地を一周などということをもうやらないだろう。20kmを歩いた1日となった。

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