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日本細見紀行 

日本各地の旅日記
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東北・太平洋沿岸部/アーカイブ4  あの日の湊町は。石巻、女川、気仙沼。

4日目 2015年9月7日  仙台 石巻 女川 前谷地 気仙沼

仙台  仙石線(多賀城・本塩釜・松島海岸・高城町)

 外は暗く寒く陰鬱だった。なぜこんなに早くチェックアウトしなければならないのかと思いながら20分歩いた。

 傘を差さなければならない程度の雨は降っていたが、アーケードと地下街を通り国分町からでもほとんど濡れないで仙台駅に着いた。

 仙台駅から仙石線に乗ったつもりだった。仙台6:26発の電車は東北本線を走っていた。まちがえたのかと思ったが、途中から仙石線に入っていった。

 東日本大震災で全線不通となった仙石線の復旧は徐々にしか進まなかった。大震災の年の3月28日にあおば通・小鶴新田間が運転されたが、余震のためすぐに不通となった。運転を再開したのは同年4月15日である。4月19日に小鶴新田・東塩釜間、5月28日に東塩釜・高城町間が運転を再開した。高城町駅は松島町にあるので、この時点で仙台・松島間が復旧したことになった。

 仙石線の復旧は仙台側から進んでいったが、これ以降は石巻側からの復旧となる。同年7月16日は矢本・石巻間が運転再開となった。仙石線は中央部が不通で、仙台側と石巻側でそれぞれ独立して動く状態がしばらく続くことになった。

 2系統の代行バスを使うことによって常磐線を縦に突破できるようになった2015年1月31日は東北・太平洋沿岸部を行く、多くない旅人たちにとって1つのエポックとなった。2011年の、4ヶ月ほどの間に横浜との往復を繰り返し被災地を周った私は、今度は復興の場に立ってみたいと思うようになっていた。もちろん復興はこれからのことで、そのことと私の旅に何かの関わりがあるわけはない。中途半端で放りっぱなしにしていたものをもう一度確認しに行きたくなっただけである。

 2011年6月29日だけはレンタカーを使った。北上川を渡る橋が通行止めで迂回させられた。宿泊施設がなかったので車内で寝ることになった。それでもレンタカーを使えば被災地のほとんどに行くことはできた。しかし7月29日以降は公共交通機関で周ることはできた。今回、被災地ではない復興進行地に公共交通機関で行こうと考えた。

 東北・太平洋沿岸部を常磐線で縦に突破するためには2015年を待たなければならなかったということだ。

 仙石線の駅は全部で33あるが、早朝乗った快速電車は12駅に停車した。そのなかには多賀城駅、本塩釜駅、松島海岸駅、高城町駅があった。

 8世紀から10世紀半ばまで存在したとされる多賀城の場所には何も残っていなかった。がっかりして帰ったことを覚えている。下の2枚は2007年7月29日に撮った多賀城周辺。

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 今日塩釜に寄るプランは「リングにかけろ2」の20巻目以降とともにサウナ&カプセル・キュア国分町で消滅した。それどころか夜明けより早く起きなければ、青春18きっぷの有効期限までに帰れないことが昨夜判明した。下の9枚は2011年10月30日の本塩釜の中心部である。港周辺はくすんだ感じがした。

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 下の2枚は2007年7月29日に撮った本塩釜周辺。

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 下の5枚は2011年10月30日に撮った松島海岸周辺。津波被害の痕跡はほとんどなかった。

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 下の1枚は1995年8月x日に撮った松島海岸。

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 東北本線でやってきた2011年10月30日、仙石線にはまだ不通区間があった。代行バスに乗れば、矢本経由で石巻に行くことはできたが、時間がなくて行かなかった。不通区間の向こう側で運転されていたのは電車ではなく気動車だった。その後の2012年3月17日、陸前小野・矢本間が運転再開をした。長い期間に渡って「運転見合わせ」(←JR東日本は不通区間をこのように表現している)となっていた高城町駅から陸前小野駅までが開通したのは3ヶ月半前である。

 下の2枚は2011年10月30日の仙台から乗った仙石線の電車の終点となっていた高城町駅である。

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 当初から今日の目的地は多賀城ではなかった。本塩釜、高城町、松島海岸を捨てた。石巻に行く。


石巻 

 7:30に石巻に着いた。雨は上がっていたが、いつ降り出してもおかしくはない暗さが町を蔽っていた。

 かってそうだったように石巻駅前と中心部はざっくばらんな感じを見せていた。建物が緊密に埋められているのではなく、歯抜け状態が加速していた。

 1995年8月x日。初めて石巻に来た。そのときの経路と利用した公共交通機関のメモ書きは残っていたのに、日にちだけを喪失していた。

 みどり莊という民宿に泊まったことがわかっている。住所は石巻市駅前北通り1ー3-7で、電話番号の記録もあった。住所の周辺をストリートビューで探っても、現在営業しているのかどうかはわからなかった。その頃、現地に着いてから宿を探していた。到着が夜でも何とかなった。今多くの人がインターネットで予約をする。私も同じである。昔のほうが旅らしかった。

 2011年6月29日。一ノ関でレンタカーを借り最初に向かったのが石巻だった。初めて見る津波による被災地だった。おそらく石巻は面積の大きい市で、内陸側から車で入った私の印象は、それほどひどくないというものだった。観光客が行く場所では、同じ色が点滅したままになっている信号機の下で警察官がマスクをしたまま交通整理をしていた。町はあまりに埃っぽくバングラデシュを思い出した。駅の近くに車を止め、周辺を歩いてみても大きな被害を受けた感じはなかった。

 旧北上川に架かる内海橋の近くまで来たとき、風景は一変した。半壊した家が現れ始めた。1階を波に抜かれた店があり、倒壊している家屋があった。内海橋の辺り一帯が被災地区だった。換骨奪胎させられたように橋はぐらぐらとねじ曲がっていた。橋を渡ることができたのは、とりあえず応急処置をしていたからだった。石森萬画館は壊れたまま放置されていた。復旧の手は入れられていないようだった。東日本大震災から110日目のことである。

 今日の石巻にもちろん瓦礫はなかった。石ノ森章太郎の漫画の主人公たちの銅像が増えた気がしないでもない。石巻駅舎前にサイボーグ009の003の像があった。おそらく以前からあったはずである。その写真を撮ったとき、9人全員の像を撮ってやろうと歩き始めた。2011年に思い付かなかったことを試みようと思ったのは、今回の旅が普通の旅になっているからである。私が映画館で初めて観たアニメ映画はサイボーグ009だった。小学校5年生のときだったと思う。

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 町中には仮面ライダーや他の漫画の主人公たちの像もあった。サイボーグ009の写真撮影は5体に留まった。

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 漫画「HOTEL」の東堂克生の旗があった。すっかり忘れていた、「HOTEL」は石ノ森章太郎の作品だったのだ。

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 現在放映されているTBSドラマ「ホテルコンシェルジュ」(主演/西内まりや)は大ヒットドラマ「HOTEL」(主演/高嶋政伸)に酷似していると言われている。脚本家は最初からそれを意識していたはずだ。しかし違いはある。ホテルスタッフのキャラクターはもちろん異なる。最大のちがいはドラマ「HOTEL」は1つのストーリーが進展していったが、「ホテルコンシェルジュ」は1話内で2つのストーリーが平行して進んでいった。

 漫画「HOTEL」をビッグコミックで読んでいた。漫画のほうは、プリンストン大学を卒業した東堂克生が主人公だったが、ドラマ「HOTEL」は、フロントの赤川一平を主人公に据えた、コミカル色を出したものになっていた。

 石巻の中心部には石ノ森章太郎の漫画の銅像以外に見るべきものはなさそうだ。

 石ノ森章太郎ふるさと記念館は登米にある。2007年7月29日、東北本線瀬峰駅から乗った登米に向かうバスのなかからほとんど偶然に記念館を目撃したが、立ち寄る時間はなかった。

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 内海橋の近くに新しい橋が建設中だったが、工事をしている人はいなかった。もう少し遅い時間から工事を始めるのかもしれない。今日は月曜日である。

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 内海橋の近くに「橋通りCOMMON」というコンテナハウスの商店街があった。広場に10ほどの店が出店していた。開店時間前なので客は1人もいなかった。

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 青山学院生がボランティアとして市内のある商店街の復興に力を貸したらしい。

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 下の13枚は2011年6月29日に撮った石巻である。

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 下の6枚は2006年11月30日の石巻の中心部である。今より活気があった。

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 内海橋の真ん中まで歩いた。旧北上川の中州のようなところには看板があった。津波で流されてしまったのかそうでないのかわからない。あまりに古かったので東日本大震災の前に撤去されていた可能性がなくはない。

 その看板を撮った2006年11月30日の1枚。

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 同じ位置から撮った1995年8月x日の1枚。この看板こそが私にとっての石巻を象徴するものだった。  

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 駅から来た道と異なる道を通って駅にもどった。コンビニでパンを買いホームで食べた。

 石巻から女川行きは気動車である。架線がない鉄路を気動車で行く旅はローカル線の旅である。しかし今の気動車の出す音は軽い。重低音でうなるような走行音の気動車はもう走っていない。

 石巻 9:33溌  女川 9:59着。


女川

 女川は2方向に海があった。東には女川湾があり、西には石巻湾とその東にある湖のような万石浦である。被災した女川の人がテレビで話していたのを覚えている。

 女川は悲惨だった。こんな被災地は他にないと思う。波は両方からやってきた。

 2011年6月29日、石巻からレンタカーで女川に入ったとき、そのことがはっきりとわかった。石巻の旧北上川を渡ると車は少し高度を上げる。そして万石浦の北側を走るときは海抜0mに近いところを走るようになる。そこからまた少しだけ小高い丘を抜け、女川に入る。その小高い丘を車で越えたところから女川の被災は始まっていた。

 瓦礫のなかを走り女川駅を探した。「目的地の周辺です」とナビは繰り返していた。ナビにセットしていた女川駅を見つけることができなかった。

 駅は崩壊していた。そこには何もなかった。周辺には誰もいなかった。津波で破壊された町にもう誰も住んでいないような感じだった。女川駅のホームに向かうエレベーターの外枠だけが駅を示すものとして残っていた。それがなければそこが駅だったのかどうかわからなかった。ホームはあったが、それがホームであるのかどうかは判断がつかなかった。

 下の12枚は2011年6月29日に撮った女川駅とその周辺である。

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 女川に来たのは3度目である。新しい駅舎が建っていた。威風堂々ではない、ライトな感じの駅舎のなかには、女川温泉ゆぽっぽという温泉施設があった。駅舎内に観光案内所を設置すればよいのに、なぜか駅前にぽつんと置かれたプレハブのような建物のなかにあった。他の施設が完成したときに移設するのかもしれない。

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 町全体が工事中だった。地域交流センターと集合型商業エリアプロムナードは2015年12月完成予定、物産センター2016年10月完成予定といった具合である。2015年6月に完成しているはずの女川漁業体験館はどこにあったのかわからなかった。駅前には何もなかった。あったのは工事中の道路だけである。いたるところで道路工事をやっていた。通行車両は多くところどころに工事関係者が立ち、車と歩行者を誘導していた。

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 道路工事のため駅付近の道路の各所に通行制限がかかっていた。港に行く道を探すのに迷った。海は見えるのにどの道を進んでよいのかわからない。いやどこに道があるのかわからない。なんとか辿りついた港はまったくおもしろくなかった。

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 復興に向けて取り組む場所こそが今の東北3県のみどころになっている。復興商店街にはもちろん行ってみる価値がある。駅でもらっていたパンフレットによると、きぼうのかね商店街、コンテナ村商店街が新しくできていた。

 港からコンテナ村商店街(9店舗)に向かった。女川をよく知らない、地方から来ている作業員でもこの2つの商店街の場所ぐらいはわかるようだ。それでも旅人にそこへの道順を教えることは難しいらしい。それはあるべきところに道がなく、かなり大掛かりに通行止めになっていたりするからである。尋ねても、うまく答えてもらえない。回り道になるとか、うまく説明できないといった返答をもらった。スマホのナビを起動させながら歩いているのだが、画面のなかの現在位置が道のないところばかりを移動している。道がかなりのスケールでなくなっていたりする。迷わなければ着いていてもおかしくない時間にコンテナ村商店街に着いていなかった。あっさりと諦めた。コンテナ村商店街より少し遠くにあるきぼうのかね商店街(51店舗が出店している大規模なもので、一般の商店だけでなく銀行や女川観光協会や入っている)もあきらめることになった。

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 30分かかって女川駅にもどった。駅近くには盛り土の高台があった。工事関係者に尋ねてみた。今は作業所だが、将来は復興住宅になるだろうと言っていた。

 海が荒れているという理由で金華山への船が欠航になっていた。

 女川で見たものは、広域で展開されている工事現場だけだった。

 女川はドラステックに生まれ変わるだろう。もともと古い町並みがあるわけではないのでハードウェアが先行するのは仕方のないことかもしれない。真新しい建物がまばらに建つ、おそらくそんな町になるのだろう。これから訪れる観光客の旅先としては殺風景すぎるかもしれない。

 下の7枚は2006年11月30日に撮った女川である。

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前谷地(まえやち) 柳津(やないづ)

 JR石巻線の列車に乗った。目的地は気仙沼線の乗り替え駅である前谷地である。

 女川11:10発  小牛田12:31着

 前谷地駅で乗り替えたことが2度あった。いずれも気仙沼から気仙沼線でやってきて石巻に向かうときだった。1度目のことを覚えていないが、2度目は夜だった。待合室に1人でいた。どこからか男がやってきた。工事関係者らしかった。いきなり呼び出されたと男は言った。東京に行くことになった。男はそういう話をしていた。男はもっと話を続けたかったようだが、私は石巻行きの列車を待っていたわけで、男は小牛田まで行って仙台行きの列車に乗る予定だった。夜にいきなり呼び出され仕事に向かう人生がある・・・。周囲は田園とまばらな家々があるだけだ。前谷地はそういう思い出の駅である。下の1枚は2006年11月29日の前谷地駅。

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 前谷地駅で降りないで、そのまま東北本線の小牛田駅まで乗り続けた。前谷地駅で降りて乗り継ぎ列車を待ってもよかったが、列車は小牛田駅まで行き、女川行きの列車として折り返す。再び前谷地駅を通ることになる。

 小牛田12:40発  前谷地12:58着

 前谷地で気仙沼線の列車に乗り替えた。  
 
 前谷地13:04発  柳津 13:39(着)
 柳津 13:39発  気仙沼15:35着   

 列車は20分ぐらいで柳津に着いた。上に13:39(着)と書いたが、それは正しくない。本当は13:24着ぐらいである。JRの時刻表には発車時刻の記載があるだけで、到着時刻の記載はない。 

 JR気仙沼線は前谷地から気仙沼までの路線である。この路線は東日本大震災により2つに分割された。前谷地から柳津までは以前と同じように鉄道が走っているが、被害を受けた柳津から気仙沼まではBRT(Bus Rapid Transit/バス高速輸送システム)で運行されている。

 BRTは、鉄道ではなくバスが走る路線である。ただそれだけのことなのだが、一般道路を走るのではなくバス専用道路を走る。一般の車は乗り入れないので、渋滞や信号待ちはなくなり安定した走行が可能になる。大震災後、JR東日本は地元と話し合いBRTを選択した。廃線にしたかったのだろうが、それを地元が許さなかったといったところだろう。結果として生まれたのがBRTである。

 柳津から気仙沼までのレールを取り除きバスが通れるように舗装されていた。BRTはJRの路線と同じ扱いになり、青春18きっぷの適応範囲に入る。

 BRTが発達しているのは南米の都市である。私はテヘランとジャカルタで乗ったことがあるが、日本で乗るのは初めてだ。

 2日前から新潟でBRTが走り始めていた。新潟市内の青山~市役所前~万代シテイ~新潟駅前というバスが集結する区間を専用軌道化して運営が始まった。乗り替えなどの不満は多くなるだろうが、都市での導入はBRT本来の姿であり価値があると思われる。

 茨木県の日立電鉄と鹿島鉄道の路線がBRTになっていた。鹿島鉄道跡のBRTは石岡から茨城空港への路線でもある。茨城空港から上海に飛んだとき、石岡から茨城空港までBRTに乗ろうかとちらっと考えたが、東京駅から空港までの500円バスの魅力にあっさりと屈した。

 下の1枚は廃線前の日立電鉄(撮影年月日不明)

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 下の1枚は廃線前の鹿島鉄道(撮影年月日不明)

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 第二次世界大戦前に計画された五條(奈良県)と新宮(和歌山県)を結ぶ鉄道の五新線跡を十津川行きバスが走っている。この路線こそBRTの先駆的事例であると思っていたが、BRTとは呼ばれていない。並行道路が優位性を持ち始めたという理由でJRバスが撤退した経緯がある。しかしそうであるのなら、似たような事情を抱えるJR東日本の気仙沼線と大船渡線もそういう危機を抱えていることになる。並行道路が大渋滞であるのなからBRTは価値を持つのだろうけれど。映画「萌の朱雀」(監督/河瀬直美)は幻となった五新線にまつわる山間の家族の物語である。

 柳津駅前がBRTの乗り場になっていた。落ち着いた広場のある悪くない駅だった。近くに北上川が流れていた。普通の路線バスがやってきた。BRTである。

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 雨がぽつぽつ降り始めた。気仙沼線のBRTは完全にバス専用路線を走るのではなかった。ところどころで一般道に出た。バス停の位置などの利便性を考慮するのならそうしたほうがいいのかもしれない。BRTの駅は新設されたところもあったが、普通のバス停と変わらないところもあった。

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 JR気仙沼線はもちろん単線だった。つまり軌道幅1,067mmの鉄路を道路にした。バスは窮屈な幅の道路を走ることになった。対向車はなく追い越しもなく歩行者はいないが、道路幅の狭さにドライバーは軽いストレスを感じているかもしれない。

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気仙沼

 BRTは気仙沼駅に着いた。気仙沼駅の1番線2番線ともBRTのホームになっていた。気仙沼駅は斬新な駅に様変わりしていた。都市型BRTの片鱗を見た思いだった。

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 気仙沼駅から港のほうに歩いた。雨は強くなっていた。傘を差したままでは軽快には歩けない。好きな町に来ているというのに町歩きは楽しくない。古町、三日町、八日町を抜け、とりあえず魚町辺りをめざした。雨が降るなかで距離は2倍にも感じる。途中にあったバス停でバスの時刻を確認したが、あまりに本数が少なかった。

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 魚町。石巻にもあったし全国の湊町にある地名である。そこには漁港がある。唯一の例外は大和郡山であるが、電話ボックスのなかで泳いでいる特産物を考えれば、海のない県において命名された地名に納得してしまう。

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 記憶はふいに蘇った。レンタカーを止めた場所を思い出した。そのとき瓦礫はまだあった。ある建物は全壊し、ある建物は1階が抜かれていた。1階がつぶれかけた建物はなんとか持ちこたえており、それはまるで膝をがくっと落としながらも踏ん張っている人間のようでもあった。

 魚町の被災地に南町紫市場が設けられていた。プレハブの商店街だが、駅から続く道路をはさんで2ヶ所に分かれており、2つを合わせるとかなり大規模である。16:30頃の商店街は、数店しか電気が点いていなかった。閉まっているところもあった。最近になって客は少し減ったようだとある店の人が話してくれた。

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 駅から続く道路の北側に小高い山がある。山の下はかって大船渡線の線路があった場所である。階段を昇り高台に立った。新しい建物はほとんどないように思われた。

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 港に沿って歩いた。大島行きフェリーの発着場の近くには復興屋台村気仙沼横丁があった。ここもプレハブの商店街である。気仙沼は活気のある町だった。復興商店街の規模も他の地域より大きいようだ。屋台村という名称は一種のトレンドである。つまり今風で、それなりの認知度のあるネーミングなのだが、とどのつまり戦後の闇市なのだ。何もないところから始める一からの商売である。戦後日本のあちこちで闇市ができたように、東北沿岸部のあちこちにプレハブの店がある。その隣では雨に濡れた工事現場が復興に向けて突き進んでいた。

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 港に沿って歩くと気仙沼プラザホテルの下を歩くことになる。そこは港町と呼ばれるエリアだが、少し遠回りになる上、大きな建物しかないことを知っている。南町のほうを歩くことにした。こちらもあまりおもしろい地域ではなかった。中央公民館のところを左に曲がり気仙沼魚市場のほうに向かった。

 気仙沼魚市場の隣に海鮮市場海の市があった。10人ほどの韓国の若者たちがいたが、それ以外の観光客はいなかった。開いていた食堂に入った。フカカツ重セットを注文してみた。サメ肉のカツを玉子でとじたものとサメ肉の付いたつけ麺のセット。サメ肉はクセがなくあっさりしすぎていた。

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 下の12枚は2011年6月29日の気仙沼の魚町、港町、南気仙沼周辺である。

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 下の6枚は2006年11月29日に撮った気仙沼の魚町、港町、南気仙沼周辺である。

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 下の2枚は1995年8月x日に撮った気仙沼港。

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 南気仙沼駅をめざして歩いた。駅に近づいているはずなのだが、道路と現在位置がずれ始めている。辺り一帯が大規模な工事中である。目印になるものは何もない。あるのは盛り土だけである。歩いている方角が正しいのかどうかわからない。漠然と南気仙沼駅の方向に歩いているはずなのだが。

 殺風景な場所だった。土の山の周辺に立ち入り禁止の掲示があっただけだった。工事の作業員に南気仙沼駅があった場所を確認した。

 南気仙沼駅の4枚の写真を並べてみる。

 下の1枚は2015年9月7日つまり今日の写真である。ここに南気仙沼駅があった。

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 下の1枚は2011年6月30日に撮った、被災した状態の南気仙沼駅である。東日本大震災から110日目にして解体されていないし、瓦礫が撤去されていない。

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 下の1枚は2006年11月29日の夜の南気仙沼駅。この日は今日と似たようなコースで気仙沼を歩いた。

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 下の1枚は1999年8月29日に撮った南気仙沼駅。この駅で下車し今日とほぼ逆のルートで歩いた。

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 さて今日の宿泊先である民宿天心をめざす。ときどき強くなった雨で服はかなり濡れた。サンダルを履いた足が痛い。土の工事現場を歩いているせいで足は泥だらけである。それでも歩かなければ目的地には着かない。ここは日本なのでどうということはないのだが、なんでわざわざ旅をしているのかと思ってしまう瞬間である。

 観光案内所でもらった地図には、この辺りの道路のあちこちに「通行禁止」の赤文字が入っていた。別の地図にはバス路線が変わったという案内があった。道路の位置が変更になるのだから、バス路線も変更になる。好き勝手に走るバスは日本には存在しない。

 2011年5月頃から被災市町村のHPをときどき読んでいた。6月頃、大船渡市役所、釜石市役所などが発表した復興についての方針を読んであきれていた。その年の6月は一斉に被災市町村が復興のための要旨を発表した。おそらく国の復興予算を勝ち取る準備が始まっていたのだ。

 内容はA4用紙2~3枚ほどのもので誰でも作成できる乏しい内容のものだった。ほとんどの自治体の復興案は、他の自治体の発表案をまねたのではないかと思うくらいに酷似していた。その上、総花的だった。その頃、被災自治体は目の前の課題をこなしていくのに精一杯だった。だから、貧弱な内容の復興の要旨であっても同情の余地があったことを一応は記載しておかないと公平さを欠くことになるだろう。

 要旨のなかには必ず「住民の意見を考慮しながら・・」と盛り込まれていた。マスコミは気が狂ったように復興のスピードが遅いと叫んでいたが、四川大震災のあと、中国が1年で新しい都市を作ったことを取り上げたマスコミは1社しかなかったはずだ。「住民の意見を考慮」すれば、復興のスピードは遅くなるに決まっている。阪神・淡路大震災の教訓を活かせば、スピードが速くなるはずはなかった。民主主義国において復興のスピードが遅いということは、2014年11月にクライストチャーチ(ニュージーランド)でまざまざと感じたことだった。

 高台を作れば、バス路線を変えなければならないだろうという、2011年の6月の時期としてはどうでもよいことが要旨のなかには書かれていた。そのとき信号の位置をどうするかということも、どこかの町議会の議事録にあった。そういう話に私は呆れていたが、もちろんそういうことは想定される話である。

 現実的に、最小単位でのつまり市町村単位の自治体がなければ、キメ細かい復興はできないが、私は、自治体とは気楽な商売だと思っていた。多くの死者が出て、店が流され住居はなくなり放射能の汚染地域には入れなくなり、失業した住民の転出が相次いでも、自治体だけは他の市町村に場所を移し継続することが、何の疑問も抱かれることなく無条件で承認されていたのである。しかも復興予算に関係する有り余るほどの物量の仕事が国から下りてくるわけで、全国のすべての職業のなかで、被災地の自治体職員こそはもっとも失業率ゼロに近い場所にいた。

 復興はさらに進むだろう。高台に住宅が立ち、新しいバス路線と新しい信号ができる。総理大臣野田佳彦の発した「復興予算は青天井」という言葉と巨額の予算は、国民を敵に回すことを恐れた野党自民党の大した反対もなく正当に国会を通過した。そのうちに東北3県に600ヶ所、総延長400kmの防潮堤が出現することになる。言行一致。それでこそ政治家の仕事というものだ。それは、そのとき被災者も多くの国民も望んだことなのである。

 ここで復興の第一幕が終わるだろう。高台の空き家と400kmの防潮堤に、被災者を含め多くの国民が感じる疑問とともに。

 第二幕は、おそらく密かに始まり密かに終わるだろう。それは誰にも注目されない。被災地の、資産を失くした企業はとっくに倒産し、失業した人はハローワークに足を運んだ。資産を失くし人材を流失させた自治体だけが生き残るのは不公平というものである。10年以上あと、旅人は、合併後の新しい名称を与えられた市町村を旅することになるだろう。

 歩いている通りが西のほうに向かっていることを信じ歩き続けると、廃止になった気仙沼線の線路跡を通過した。

P9070156.jpg

 冷たい雨の南気仙沼駅周辺を歩きながら、2011年に、毎日のように自治体のHPを検索していたことを思い出していた。

 中谷地歩道橋のある交差点を右手に折れ、BRTの南気仙沼駅(=気仙沼市民病院前バス停)の位置を確認した。明日の早朝の行動のためである。

 神山川の南側を西に歩いた。民宿天心はわかりにくい場所にあった。女将さんが出迎えてくれた。あたたかい雰囲気の宿だった。
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