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日本細見紀行 

日本各地の旅日記
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京街道を途中下車、祇園四条へ。

3日目  2015年7月22日  守口宿  枚方宿  橋本遊郭(京都府八幡市) 祇園四条(京都)     

 嫌な雨が降っていた。止む気配はなさそうだ。目的地を追加しようと思っている。大阪環状線京橋駅で降りた。カフェでネットに接続し行き先の情報を確認した。

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 京阪電鉄京橋駅のホームに上がったとき、やってきたのは急行だった。守口市駅に停まることを確認して乗り込んだ。京阪電鉄は、日本の私鉄で初めて料金不要の速達電車を登場させた。大正時代のことだ。

 学生時代、京阪電鉄には2種類の斬新な電車が走っていた。テレビカーと5扉車である。京阪電鉄のテレビカーはちょっと有名だった。登場は1954年と古い。日本では京阪電鉄が最初だと思っていたが、京成電鉄が京阪電鉄の数ヶ月前にテレビカーをデビューさせていたらしい。一度乗ってみたいと思っていた。実際に乗ったのは大学生のときだ。大したことはなかった。みんなテレビを見ていなかった。

 テレビカーは特急電車(特急料金不要)として走っていたが、5扉車は通勤用車両である。今の山手線などには5扉車が連結されているが、京阪電鉄はその先駆けである。京阪電鉄の5扉車のすごいところは、閑散時は3扉、ラッシュ時に5扉になるだけではない。3扉で走らせるときは、使用していない2扉の天井からするすると座席が降りてくる。乗ったのはやはり大学生のときだったと思う。

 京阪電鉄にテレビカーと5扉車が登場したのは、大阪・京都間を走るライバルとの差別化である。東海道新幹線を除外しても、京都・大阪間には3本の鉄道が走っている。淀川の北を走るJR(=国鉄)、阪急電鉄に比べ、淀川南を走る京阪電鉄は路線距離が長い。当然、大阪、京都両都市への到達速度は遅くなる。そういった不利な条件を克服するためサービスの向上を考えた結果、生まれた電車である。

 競争は、スピード、運賃、車両の快適さ、サービス、安全など各分野を向上させる。関西ではその競争が激しいが、関東の私鉄はそれほどでもない。関西の私鉄の主要路線にはことごとく競合路線が存在する。

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 品川・久里浜(横須賀市)を走る京浜急行電鉄のスピードの速さは、長い間東海道線、横須賀線と競争してきた結果である。京成電鉄は頑張っている。青砥駅の高架工事をやっていた頃は、この会社は存続できるのだろうかと思っていたが、オリエンタルランドの筆頭株主になったのは正解だろう。京成千葉線をなんとかしようという気はまったく感じられないが、自社路線ではないスカイアクセス線を、第三セクターほくほく線並みの時速160kmで走らせている。JRに負けてなるものかという気迫を感じる。2つの私鉄は関東ではどちらかというと例外である。

 たとえば東武鉄道は宇都宮への路線がありながら、JR宇都宮線と勝負する気はまったくない。東武鉄道宇都宮線は単線であるが全駅に交換施設はある。東京までの路線距離はJR宇都宮線より長くなるが、街の中心に近い東武宇都宮駅は今のままでも10,000人近い乗降客がある。その気になればJR宇都宮駅の70,000人から10,000人ぐらいを引き抜いてくることぐらいはできそうなのだ。もともと運賃の優位性はある。1時間に1本の特急と1本の快速を設定し、都心に乗り入れる。特急は鬼怒川温泉からやってくる特急と栃木で連結し、快速は古河で他の優等列車に連結すれば、古河以南の列車本数を増やす必要はない。その程度のアイデアはあっても設備投資ができないのだろう。過去80年間その気がなかったのだから、これからの80年間も変わらないだろう。そんなふうに思っていたら、上野・東京ラインが開通し、宇都宮から小田原辺りまで走る電車がJRに登場した。こうなってしまっては、今から駅や線路を整備しても勝負にならない。ここまで考えてみると、宇都宮と都心を直結させなかった東武鉄道には先見の明があったということか。まったく、どうしようもない。

 京阪電鉄の急行は7駅分を5分で走り抜けた。乗ったのは特急ではなかったが、スピードは速かった。降りたのは守口市駅である。今朝、京橋駅のカフェで追加した行き先はこの駅の近くにあるはずだ。

 駅ビルの周辺を少し歩いてみた。駅の北西方面に立ったとき、何の変哲もないコンクリートの陸橋が何の変哲もない駅前の風景のなかにあった。しかし駅前にあるにしてはやや違和感のある陸橋だった。街並みに溶け込んでいないように思われた。守口宿は本町1、2丁目、竜田通1丁目、浜町1、2丁目付近にあるらしい。陸橋のある位置は本町1丁目だろうと思われた。

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 グーグルマップは詳細で見やすいが、町名の記載がほとんどない。店をクリックすると住所は現れるが、ヤフーマップは一見して町名が読み取れる。旅をしていて両方を確認しなければならないときは面倒くさい。

 傘を差して陸橋の上に出てみた。この陸橋が文禄堤の名残りらしい。陸橋の上の道は広くはなかった。それは土手の上を行く道であり、くねくねはしていないものの、なだらかな曲線を描いており、明治時代になってから整備した道でないことはすぐにわかった。旧街道らしい道なのだ。旧街道の曲線については、参勤交代をうつくしく見せるためという説がある。私はその説に組みしないし、この文禄堤にそれほどまでの曲線はないが、日本の道らしいとは思う。

 文禄堤を整備したのは豊臣秀吉に命じられた毛利輝元ら三家である。長さは27kmあったといわれているが、残っているのは守口市の本町1丁目辺りだけらしい。

 道に沿って歩いてゆく。方向は北である。ところどころに古い家並みが残っていた。古い本陣跡の石標があった。文禄堤の両側に旅篭や店が軒を連ねていたのだろう。全国の古い街道を歩いてきたが、堤の上にある家並みはめずらしい。

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 守口宿は長くはなかった。京阪国道と交わる八島交差点で終わっていた。陸橋までもどり南西方向にも歩いてみた。旧街道はそちらの方向にも長く続いているわけではなかった。

 駅前にもどった。守口駅は北口と南口に分かれている。南口には京阪百貨店がありバスターミナルがあった。駅周辺を少し歩いてみたが、雨の降り続くなかではまったく面白味を感じなかった。

 京阪の普通電車に乗り、9駅先の枚方公園駅で降りた。枚方宿の最寄り駅である。さっきの守口宿から3里の距離に枚方宿がある。

 東海道は五十三次である。日本橋が起点であるが、日本橋は1番目の宿ではない。1番目の宿場は次の品川宿だ。ちなみに53番目は京都三条大橋ではなく1つ手前の大津宿である。つまり東海道には53の宿に加え、起点と終点の、日本橋と三条大橋を加えた55のポイントがあるということだ。

 東海道を五十七次とする説もある。江戸幕府は京都から大阪までの宿も整備した。京都から大阪までは京街道(あるいは大坂街道)と呼ばれ、伏見宿、淀宿、枚方宿、守口宿の4つの宿あった。この場合も、起点と終点の、三条大橋と高麗橋(摂津国西成郡)は数に入らない。ここで、西成という地名が登場しているが、現在とは場所が異なる。高麗橋は現在の大阪市中央区である。

 起点と終点を入れないのはよいが、東海道五十七次といった場合には矛盾が生じる。つまり東海道と京街道を結ぶ三条大橋が入らないのはおかしい。だから東海道53番目の大津宿の次は、三条大橋を飛ばした、京街道1つ目の伏見宿となってしまうのだ(どうでもいいことだけれど)。

 駅前には枚方宿の案内があった。駅から遠くはなさそうだ。雨は小降りになっていたが、傘は必要だった。

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 駅南口から西のほうに歩き細い川を渡ったところを右に進むと枚方宿鍵屋資料館があった。料理旅館を資料館にしたらしい。株仲間と商人の論争の際に記された「御済配書写」のなかに鍵屋当主である鍵屋太兵衛の名前が確認されているそうだ。安永2年は1773年である。

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 別棟が資料館で、主屋のほうは枚方市指定有形文化財になっている。

 最初に主屋のほうに入ってみた。外から見たときはきちんと修復された町屋建築の風であったが、なかはほとんど手を加えていないのではないかと思えるほど、よい感じだった。

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 資料館の受け付けでリュックを預かってもらった。資料館内に掲示されている説明はうまくまとまっており理解しやすいものだった。

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 枚方宿は4つの村で構成されていたらしい。家数、人数、人足役数、馬役数などがしっかり数えられているので、そういった数値から宿の規模を推し量ることができる。いくつかの資料を読み込むと、宿泊客の階層に応じた宿泊料金、スタッフの確保の方法、交通手段の確保の方法などが定められていた。食事に関する記載はなかったが、やっていることは今と同じである。

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 日本のどこの宿場でも江戸時代の資料が残っている。博物館や資料館でいつも驚くのは、確かな数字として多くの記録が残っていることである。これは江戸幕府の官僚制度が機能していたことを意味する。戦がないのだから、もはや武士ではない。単なる官僚ではある。江戸幕府は中央集権国家ではなく幕藩体制である。260年もの間、大小300あったといわれる藩をよく統治したものだ。徳川の統治の妙、恐るべしである。

 日本人は近代化に着手した明治時代を誇りに思っている。どちらかというと、鎖国をしていた江戸時代は否定すべき時代であった。私も長い間、そう考えていた。しかしここ10年ぐらい国内の旅先で江戸時代のすごさを感じる機会は本当に多い。旅先ではちゃんと勉強しなきゃと思うのだが、帰ってくるとそういう気分は失せている。

 江戸時代が明治の中央集権国家の準備したことは容易に想像できる。封建制度は適度に地方を育てていたし、士農工商の役割分担は、社会におけるそれぞれの役割を自覚させたことによって、明治時代の四民平等につながったといえる。しかし黒船来航以来の幕末は2度目の戦国時代である。官僚制度の浸透は当然、戦の感覚を麻痺させていた。江戸城の官僚たちが、かたちを変えた新しい尚武の時代に十分な対処ができなかったというのは想像に難くない。

 余談になるが、象の渡来は室町時代から江戸時代にかけて7回記録されているという掲示があった。まったく知らなかった。10年ほど前に上野の国立西洋美術館で観た伊藤若冲の屏風に象が描かれていた。象の画は見事なものだった、象の特徴を正確に捉えていた。

 おそらく伝聞だけでは象の輪郭の曲線は描けないだろう、だから若冲は実物の象を見ていたはずだ、しかし江戸時代に象はいない、もしかしたら若冲は南蛮人の可能性がある。そんなことはパンフレットのどこにも書いていなかったが、そのときの私は勝手気ままに同行者に語った。同行者は、そういう解釈はロマンもへったくれもないと言い、私は南蛮人であったほうがロマンはあると言った。室町時代から江戸時代にかけて像は渡来していた。

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 「象の消滅」という小説があったことを思い出した。

 廊下はきしきしと音がした。いい感じである。2階には大広間があった。枚方宿鍵屋資料館は積極的にイベントを行っている。毎月第二日曜日は2階大広間をお茶屋とするらしい。河内そうめんなどを食べることができるそうだ。他にも、川柳を募集したり、屋形船風遊覧船で淀川の船旅をするといった企画をやっている。

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 大広間から淀川が見えたが、うつくしい景色ではなかった。雨はほとんど止んだようだ。

 枚方宿は枚方宿鍵屋資料館から東に続いている。その先にあるのは枚方市駅だ。駅まではゆっくり歩いて20分だと資料館の受付で教えてもらった。外に出ると雨は消滅していた。駅のほうに歩いてみる。

 旧街道の両側のところどころには町屋風の家並みが残っていた。カフェや食堂になっているところもあった。町屋カフェ・革小物遊間に入ろうと思ったが、雨がいつ降り出すかわからない。ゆっくりしたいが、駅に着くことを優先した。

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 途中、土手を上がってみた。淀川は少し見えただけで視界を占領したのは淀川河川公園だった。

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 枚方市駅前のごはん処やよい軒で昼ご飯を食べた。初めて入る店だったが、全国にかなりの数のチェーン店があるようだ。

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 雨は消滅していなかった。やよい軒を出たとき、大雨だった。駅ビルの北側と南側を歩いてみたが、駅ビルからどこかの通りに入って歩いてみようという気にはならなかった。

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 枚方市駅から各駅停車で4つ目の橋本駅で降りた。

 昨夜飲んだとき、枚方に行くと言った私にNさんが言った。橋本に遊郭跡があるよ。

 大阪南部の古い街並みを周ったことはあった。大阪北部たとえば吹田、茨木、枚方の南にある交野にも、古い町並みがあるのを知っていたが足を踏み入れたことはなかった。橋本については昨夜初めて知った。

 大阪方面から乗った電車で橋本駅に降りると北口改札を通ることになる。目の前にあったのは「アサヒスイタニー洋食の店やをりき」だ。創業は大正14年つまり1925年である。1958年の買春防止法施行(法律制定は1956年、2年を経て施行)を潜り抜けているので、遊郭のあった時代もそれ以降の変化についても知っている。アサヒスイタニーは1964年にアサヒビールが発売していたビールである。つまり店の看板は1964年以降に作成されたものである。

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 謎の洋食店である。おそらくオムライス辺りがうまいのだろうと思い、旅日記を書く際に、念のために食べログを検索してみた。まさかのヒットである。2件あった口コミの発信者によると、店内の壁のメニューには、とんかつ、やきめし、カレーライス、オムライスの4種類しかないらしい。1階を食堂、2階をカフェとして営業していたようだ。「赤線跡を歩く」(木村聡著)にも掲載されているらしく、橋本遊郭を見にきてここに立ち寄った人は多いだろう。

 先に駅の南側を歩いてみた。検番跡天寿莊があった。検番とは料理屋、芸者屋、待合(会合などのために場所を提供する貸席業)の業者が集まって作る三業組合の事務所のことである。外から眺めた天寿莊は一種の迫力があり、同時に怪しい雰囲気を漂わせていた。天寿莊は周辺の家より一回り大きい。最終的にはアパートになったようだが、今は空き屋のようである。廃墟化は進んでいた。建物をリフォームして誰かが住まない限り、朽ち果てていくことになるだろう。

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 線路を渡り駅北側に出た。遊郭のあった場所はすぐにわかったが、橋本遊郭の北側には淀川が流れている。淀川は橋本周辺で桂川、宇治川、淀川(=木津川)の3本に分かれている。その風景を見ておきたかったので、遊郭の裏側に回り込んだ。橋本駅に着いたときより雨が激しくなってきた。

 この辺りは大阪府と京都府の府境でもある。対岸の山崎とは渡し船があった。橋本遊郭と淀川の間には京都府道・大坂府道13号京都守口線が走っている。この道路は旧京阪国道とも呼ばれ堤防の上を通っている。旧京阪国道が、さっき守口宿で歩いた文禄堤の続きであるかどうかはわからない。文禄堤を基礎として建設されたような気もするし、そうでないかもしれない。

 旧京阪国道と橋本遊郭の間には小さな川が流れている。大谷川だ。旧京阪国道から、大谷川を挟んで橋本遊郭の裏側の全景を撮ることができるが、旧京阪国道を通る車は多い。水しぶきを上げながらトラックなどが走っていく。すでに靴はびしょ濡れで雨のなか歩くだけで精一杯だった。風景をゆっくりと眺めることはできなかった。

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 大谷川の橋を渡った。右手に橋本遊郭のある通りがあった。すぐにでも通りを歩きたいのだが、雨が激しく、付近の家々に雨を避ける軒はなさそうだ。屋根を打つ雨を流すのに樋(とい)は細すぎた。屋根から水が滝のように落ちていた。

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 雨宿りのため一度橋本駅にもどった。改札の外にベンチはなく休む場所もない。立ったまま20分近く駅にいたが、これ以上、ぼんやりと立って時間をつぶすわけにはいかない。小降りになったところで、いや小降りになったと思えるところで駅を出た。

 妓楼(ぎろう)が残っている通りは短い。最盛期に80の妓楼があったといわれているが、残っているのはごく一部だ。しかし雰囲気は残っていた。文化財として保存されているのではない。それどころか、八幡市はこの地域を無視している。京阪電車のなかでチェックしていた八幡市観光案内所のHPには橋本遊郭に関する記載は一切なかった。駅の南口を出たところにあった案内板にいくつかの見どころは載っていたのだが、遊郭のあったエリアは意図的に排除されていた。

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 買春防止法施行から57年目が経っているが、廃墟にはなっていなかった。かろうじて持ちこたえているのは、ここに人が住んでいるからである。

 ある妓楼の壁に中之町町内会案内図があった。妓楼の名称がずらっと並んではいるわけではなかった。電気店、美容室、医院、メガネ店、銭湯、商店、旅館、寿司屋、青果店などさまざまな店が掲載されていた。つまり買春防止法施行以後に作成された案内図ということだ。妓楼が廃止されたあと、町として生き残るために商売替えをしたということなのだろう。新しく蘇ろうとしていたのだ。

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 それらの店も今はもうない。隣の橋本小金川と合わせても、美容室など数軒が確認できる程度だ。山と淀川の間にある狭い土地での、閑散とした雰囲気のなかで商売は成り立たないだろう。「アサヒスイタニー洋食の店やをりき」が食べログに出店していたことは、稀有のことである。

 一部の妓楼には格子窓があり、うつくしい欄間の飾りがある。それは明治・大正あるいは江戸時代から受け継がれたスタイルであり文化である。

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 公式の、八幡の観光ポイントは橋本遊郭ではない。八幡市観光案内所のHPに見どころはいくつか記載されていた。もっとも気になったのは流れ橋だ。木津川に架かる木の橋で、正式名は府道八幡城陽線上津屋橋(こうづやばし)。(通称)流れ橋は、増水時、橋板が8つに分かれ流される。水が引いたときに、ワイヤーロープを引いて流されていた橋板を回収する。そういう橋なのだ。現在、流れ橋は2014年8月の台風で流されたままになっていて通行止めになっているらしい。大井川に架かる島田(静岡)の蓬莱橋とともに時代劇で何度か観たことがある。

 下の1枚は2004年4月に撮影した蓬莱橋である。

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 八幡の南東方面の放生川の近くを通る東高野街道(京都と高野山を結ぶ街道)周辺には古い町並みがあるようだ。ここも八幡の見どころで、放生川には安居橋(あんごばし)という反り橋がかかっている。

 流れ橋にも東高野街道の安居橋にも今日は行かない。橋本駅から京阪電車に乗り、祇園四条駅で降りた。

 古都の雨に消滅していなかった。祇園四条駅から屋根のある通りを歩き、予約してあったルーマプラザに入ったのは17:00前だった。1泊3,500円はカプセルホテルにしては高い。京都には2,000円台で泊まれる町屋風のゲストハウスが多くあるが、できたばかりの真新しいカプセルホテルを選んだ。

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 小雨の四条通を東に歩き八坂神社前で折り返した。花見小路通に入ってみた。4年半ぶりの京都である。あまりに京都的な京都の小路は何も変わっていないように思われた。京都が変わるときは全体の雰囲気がグレードアップする。この街の1軒ごとの建物や店の変化を見ていくのは意味がないように思う。京都タワーができたとき、あるいは京都駅が新しくなったときのように大きな変化があるときもあるが、街並みは同じものが再生される。京都ではそれが可能なのだ。突飛なことを書くようだが、伊勢神宮や出雲大社の(式年)遷宮と似たようなものである。他の町では様式の異なるものが生まれるが、それでは街の姿が変わってしまう。それでは古い技術は継承されない。京都の町屋はあちこちに残されていくので、専門の大工が残るのだろう。だからたとえば10年あるいは20年ぶりにやってきたとき、多くの新しくなった町屋風の建物を見て、華やかな変化を感じるのだと思う。京都の町屋は1軒ごとに力があるし、ふらふらしていない。移ろいゆく感じはない。あやうくもない。最新の技術は古い様式を守ることに使われる。京都は自信を持って、堂々とした新しい京都を作るのだ。

 花見小路通の東西に路地が伸びている。路地に入りまた花見小路通にもどりまた路地に入った。

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 タリーズコーヒーで休憩。旅日記を書いた。19:30、祇園辻利の前で、京都に住んでいるCさんと待ち合わせていた。

 予約のあるなしではない、一力亭(花見小路通の入り口にある)に一見さんは入れないとCさん。下の1枚は2010年12月に撮影したもの。

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 花見小路通の路地を歩き、Cさんの知っている町家料理屋・萬燕楽(よろずえんらく)に入った。茶屋を改装した店のお座敷の席に坐った。祇園の雰囲気は十分残しているが、気難しい感じはなかった。気軽に食べられる祇園の店だ。

 京水菜とカリカリゆばのサラダ、豚の角煮などを食べた。全体的にあっさりとした感じでうまかった。滋賀の、冠婚葬祭に欠かせないといわれる赤こんにゃくが珍しかったので食べてみた。赤こんにゃくの色に少し驚いた、味にはなじめなかった。

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 旅好きは旅好きを寄せる。旅の話に飽きがこないのはなぜだろう。あるところに行くとまた別のところに行きたくなる。世界は、京都の歴史よりはるか以前から同じ広さのまま変わらないのに、どれだけ旅しても行き尽くすということがない。多少の旅をしたからといって世界は狭くならない。タイに行ってもまたタイの話をしそしてタイに行こうとする。トカラへの船の話になり、パラオへの行き方の話をして、南米にいつ行くかの話をし、稚内からサハリンへの船が来年なくなる可能性の話になった。京都で世界の話をしている旅人は、世界のどこかで京都の話をするだろう。
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Comment

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いつも楽しく読ませて頂いております
枚方がこの様な街とは全然知りませんでした
勉強になります

鉄道は詳しくないのですが、京成線は多少分かります
もし予定通り成田新幹線が出来ていれば、全然事情が変わったと思います
当時の公害問題、騒音、土地収容問題や社会情勢が中止に追い込んだと思いますが、今なら技術進歩や大深度地下の考え方もあり建設出来たと思います
2015年08月06日(Thu) 11:46
No title
編集
Maxさん、こんにちは。いつもコメントありがとうございます。

今回は久しぶりだったのですが、実家が和歌山なので大阪方面はよく行きます。

京成は都営浅草線への乗り入れのため改軌しました。線路の幅を標準軌1435mmに変更したのです。全線に渡ってやったのですから、大英断でした。成田空港のできる20年ほど前の話です。このときの京成の目的は都心への進出だったのですが、このときの改軌がなくては現在の京成・都営・京浜急行(もともと1435mm)の乗り入れ、つまり空港間アクセスは実現しませんでした。スカイアクセスは標準軌なので線路幅だけを考えれば、新幹線を通せる可能性は今でも残っています(東海道新幹線は開業時の一時期、ある区間(同じ軌道幅の)阪急京都線を走っていたことがあります)が、今は日暮里、成田の所要時間が40分を切るところまで短縮されているので新幹線の意味はなくなりました。京成は、線路幅1067mmのJRに日暮里駅から乗り入れることはできません。京成とは直接関係ありませんが、都営浅草線の地下内に追い抜き施設を作ってスピードアップができるようになることが京成の今後の課題でしょう。

京成は、山手線南西側の私鉄に比べ、イメージが今一歩ですが、頑張っている感じはあります。沿線の街歩きは京急とともにおもしろいです。
2015年08月07日(Fri) 00:50












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