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日本細見紀行 

日本各地の旅日記
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コンテナで乗船! いざ青ヶ島へ!

6日目  2015年6月20日  八丈島  青ヶ島

 何が何でも行きたいという強い思いがあったわけではない。ただ思いは消えなかった。それが15年ほど前からだとしたら、イチローがシアトルに移籍するぐらいの頃からということになる。さまざまなサイトでイチローの記事に触れる1%ぐらいは青ヶ島関連のHPを見たかもしれない。

 八丈島のさらに南にある小笠原諸島は世界遺産に登録される前から華やかな雰囲気があった。それは絶海の島としての魅力で、リゾートとしての価値を含んだものだった。上陸に時間がかかることが、逆に人気の理由にもなっていた。それに比べれば、青ヶ島は誰にも知られず、地味な存在だった。八丈島の裏庭にひっそりと隠れるようにいつもそこにいた。地味な8番バッター、そんな感じだった。

 東京都のなかでは、青ヶ島は最も行きにくい場所である。日本全国の行きにくいランキングでも、20位くらいには入る気がする。

 飛行機で八丈島に着き、東邦航空のヘリコプターに乗るのがもっとも早く行く方法である。羽田空港から八丈島空港へは、かって1日6、7便(うろ覚え)のフライトがあったはずだが、現在は1日3便となった。運行距離だけを考えると他路線に比べ割高である羽田・八丈島便であるが、東海汽船との料金比較をすると飛行機は有利なように思える。船と飛行機の料金差は大きくはない。羽田・八丈島間のシェアについては、ANAは東海汽船に勝っているように思うが、そういうなかでの減便に次ぐ減便である。それは八丈島の人気がなくなっていることを意味している。

 グローバル化を着実に推し進めているANAの経営全体からすると重要ではないこの路線はそれでも生き残るだろう。羽田空港の使用を円滑にしておくための東京都への配慮であり、保険だと私は密かに考えているが、どうだろう。青島幸男のときは組みしやすかったかもしれないが、石原慎太郎、猪瀬直樹、舛添要一と強烈な論客でやり手である都知事がここ3代、続いている。彼らにへそを曲げられると面倒なことになるに決まっている。のと里山空港(石川県)ほどの支援を地元から得られるはずはないとわかっていても、今後も週3便ぐらいは残さなければならないだろう。東京都も5年に一度くらいは東京十一島への旅行者に補助金を出すこともあるし。

 7:00過ぎ、HPで運航状況の確認をした。あおがしま丸は動くようだ。なぜか出航時刻が変更されていた。もともと土曜日(今日)は9:50発であるが、8:50発になっていた。

 7:30頃、民宿マツミ莊に電話を入れた。昨日、キャンセルした民宿である。今日、あおがしま丸が出航することがわかっているのなら、昨日の予約を今日にずらしてもらえばいいだけなのだが、今日の予定は今朝になるまでわからなかったので、昨日の時点では一度キャンセルにしていた。

 部屋は空いていた。それはなんとなくわかっていたことではあった。昨日はヘリコプターも飛ばなかったので、青ヶ島を出た人も入った人もいない。島の人口は動いていない。昨日予約した部屋が今日空いている可能性は高かった。それでも、もともと今日の予約がいっぱいだということもあるので安心はできなかった。

 7:50、チェックアウトをしようとしたが、隣のダイビングショップのなかにあるレセプションには誰もいなかった。ショップの入り口は開いていたし、なかでは音楽が流れていたので、スタッフはちょっと外に出ているのだろう。10分ほど待ったが、誰も来ないので勝手にチェックアウトした。

 あおがしま丸の出航時刻はネットで確認した8:50発ではなく、8:30発だと港湾ターミナルのなかに掲示されていた。尋ねてみると、8:30は乗船時刻らしい。

 6月の青ヶ島までの運賃は2,660円。5月が2,550円であるのはわかるとして、旅行シーズンとなる7月のほうが2,620円と値下がりするのはなぜなのだろう。単なる燃油サーチャージの問題なのだろうか。

 さっき私が尋ねた人が追いかけてきて、出発時刻の修正が伝えられた。8:30が出航時刻というのが正しいらしい。最初に出航時刻が9:50から8:50に変更になっていた理由は、昨日の金曜日の欠航により積めなかった貨物を今日は積み込むからということであったが、いまいち内容を理解できなかった。そのあと8:30になった理由は、午後に波が荒くなる可能性があるので早いうちに出航してしまおうと判断したということだった。これは理解できた。

 ハッチー・ジョーズ・ホステルに電話を掛け、チェックアウトしたことを伝えた。6月22日の宿泊を予約しておいた。

 港湾ターミナルを出たところで港湾の関係者と話をした。

 昨日おが丸(おがさわら丸)は入港しなかったんですよね(私)
 ここだけの話、おが丸は接岸できたかもしれないんだよね(港湾関係者)
 そうなんですか!
 船長の判断だから 船長は絶対だからね
 ですよね
 おが丸はさ (港に)こういうふうに入れるんだよ そうすると(港を)出るときに、(船をこう)反転させなきゃならない 船長はそれを無理だと考えたんだろう なんとかなったとは思うよ
 ・・・・
 かわいそうなことをしたよ みんな楽しみにしていたのに

 上の会話を書いていいのかどうか迷った。おがさわら丸の船長の批判っぽくなっている。誰がそういうふうに喋ったんだとなるかもしれない。しかしおがさわら丸は八丈島の人たちに愛されていた。「おがさわら丸、八丈島寄港」への私のオマージュとして書いておく。

 おがさわら丸! 来年こそは八丈へ

 青ヶ島に行く人は、夫婦1組、若い2人の女性、若い4人の女性(水商売らしい)、私。総勢9人である。港湾ターミナルを出た9人はみんな、あおがしま丸の接岸状況を見守っていた。

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 あおがしま丸は岸壁に横付けしたものの、船体は2、3mほどの上下動を繰り返していた。船首の部分が沈むと船尾が浮き、またその反対になる。空は青色を見せているが、波はまだ十分に荒い。10分ほど待っても船の揺れがおさまることはなく、接岸したまま、あおがしま丸は船首と船尾の上下動を繰り返していた。

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 埠頭から船にブリッジを掛け乗船させることはできないと判断したようだ。作業車でコンテナが運ばれた。

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 コンテナで乗船することになった。青ヶ島の三宝港では以前、鳥かごで乗船していたはずだが、とっくになくなっている。八丈島の底土港で、コンテナ乗船するなんて聞いたことがなかった。それほど波は荒い。

 コンテナはクレーンの前に置かれた。コンテナに乗り込む。みんな興奮している。女性4人組は興奮を抑えきれなくて、わあーとかすげぇと叫んでいた。これでこそ1日待ったかいがあったというものだ。

 コンテナの内側の四方には手をつかむところがある。それにつかまって振り落とされないように準備した。コンテナの扉のところには港の作業員が立った。コンテナはクレーンで持ち上げられ、あっという間に船上に降ろされた。

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 南・北大東島での乗船・下船で鳥かごのなかに4回入った。今日はコンテナなので外は見えなかったが、十分満足できた。
 
 出航は8:50過ぎとなった。20分ほどデッキにいた。海から眺めた八丈島の緑はうつくしかった。

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 船酔いをしたことが何度かあった。ホニアラ・ツラギ間(ソロモン諸島)、ペナン島・ランカウイ島間(マレーシア)、下田・神津島間では船酔いで吐いた。あおがしま丸は揺れた。乗船中まっすぐ歩くことがむずかしいこともあったが、出航の30分前に飲んだ酔い止めの薬は効いたようだ。最後まで酔うことはなかった。やることがないので旅日記を書いた。

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 11:00過ぎ頃から青ヶ島が見えてきた。島に近づくにつれ、平地がないことがはっきりしてきた。断崖絶壁の島である。港を造るのは大変だっただろう。

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 波は荒く、接岸には船員も三宝港の作業員も全力でロープを引いたりした。あおがしま丸の接岸は島最大のイベントである。岸壁に付けられている接岸クッションはボロボロだった。接岸の際、船体の側面が何百回何千回も激しく岸壁に当たった証拠である。

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 埠頭から掛けられたブリッジを渡って下船した。

 三宝港はコンクリートがむき出しの港だ。コンクリートのオブジェというより未完成の宇宙基地のようだ。山の斜面が崩れ落ちないようにコンクリートで固められていた。

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 埠頭を少し歩いたところで宿泊先の出迎えの人たちが待っていた。1組の夫婦、女性2人組、女性4人組、私はそれぞれ異なる民宿を予約していたようだ。

 民宿マツミ莊の車に乗った。

 三宝港は島の南西部、集落は北東部にある。三宝港を出た車は青宝トンネルを抜けた。トンネルの出口は外輪山を抜けた島の内側である。青ヶ島は島の周辺が外輪山になっており、外輪山の外側はそのまま海に落ちている。

 車は外輪山の内側にある道路を半周し、島の東のほうからつづら折りの道を登り始めた。途中の平成流し坂トンネルを抜け、少し走ると集落に入った。集落に全島民が住んでいる。

 車のなかでご主人と話をした。

 1週間は帰れないよ(←どうやら決まり文句らしい)
 やはりそうですか
 ・・・・・・
 なんでこんな何もない島に来たの? 
 なんとなく 前から来たかったので
 昆虫とか花とかに興味があるとか?
 いえまったく
 ・・・・・・

 (女性4人組が乗っている車が前を走っていた。その車を指して)
 運転しているのは親戚なんだけれど 乗っているのは八丈島のスナックで働いている子たちだ
 (やはり)

 民宿マツミ莊が一番港に近いらしい。それは集落の端のほうにあることを意味した。

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 2階の部屋から海が見えた。

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 集落のある一帯を西郷・休戸郷(にしごう・やすんどごう)というらしい。部屋で少し休んだあと、歩いてみた。民宿マツミ莊の近くに警察の駐在所だった。街を歩くとき、美術館、博物館を除いた公共施設は旅の見どころではないが、島の公共施設はすべて見学の対象だ。警察の駐在所、学校、郵便局、役場、ヘリポートなど。信号機も民宿や商店も見学の対象になる。

 青ヶ島村役場、青ヶ島小中学校、青ヶ島村立図書館・武道館、青ヶ島村「おじゃれセンター」がほとんど同じ場所に集まっていた。土曜日なのに開いていた村役場で「広報あおがしま」の6月15日号をもらった。どの市町村でも月ごとに発行している広報紙だ。2015年6月1日現在、世帯数109、人口は170人(男94人、女76人)らしい。

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 あるブログに、仮に青ヶ島に200人の中国人が移住したら、という設定があった。村長が中国人、村議会の過半数を中国人が握ることは容易である。ある日突然、村議会で、青ヶ島村の独立が承認される。『沈黙の艦隊』のやまとのように。中国が、独立国「青ヶ島」を承認したら・・・。中国は国連の常任理事国であるので、それなりにやっかいなことになるだろう。この設定には、外国人に地方参政権を与えた場合の問題点が隠されている。

 別の角度から似たような設定をしてみよう。原子力発電所は人口の少ないところを狙って建設された。仮に1基の原子力発電所ごとに10億円が地元に還元されるとすると、人口2,000人の村では1人当たり50万円という計算になる。200人の村では1人当たり500万円。人口が200人程度になった村は周辺の市町村の反対を押し切って原子力発電所を誘致し、もらった金を住民で山分けし、そのあと村を解散する。住民は当座の資金として500万円を持ち日本各地に散ってしまうというシナリオはどうだろう。村の人口はゼロになるのだから、村長はいないし村議会もなくなる。村が消滅し原子力発電所は残る。日本の人口が8,000万人程度になれば、こういうことが可能になるかもしれない。

 人口が少ないということ自体がさまざまな問題を発生させる。

 青ヶ島村「おじゃれセンター」は医療・保健・福祉施設が一体となった総合施設だ。島民の憩いの場になっているというこの建物に入ってみたが、誰もいなかった。青ヶ島小中学校のすぐ下の道路があり、立派な体育館があった。

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 やよい莊という廃業したらしい民宿があった。

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 神子ノ浦展望公園に行ってみた。海を見渡せたが、海を見渡す場所はほうぼうにある。ここは島なのだ。雨続きのこの旅で初めて見た明るい空と青い海だった。

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 集落の真ん中にもどり、北のほうに続く坂を降り、そして登った。墓の近くにヘリポートがあった。草と竹と木をかき分けながらヘリポートの奥に入っていった。まったく手入れされていない金毘羅神社があった。

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 水を飲みたかった。商店を探しながら青ヶ島役場の周辺までもどった。2人の女子中学生と1人の男子小学生が何やら話をしていた。

 あんた、連れていってあげなさいよ、と女子中学生が言った。さりげない上下関係あるいは姉弟関係の犠牲になった小学生が飲み物を売っている店に私を案内してくれた。

 島で唯一の商店だった。十一屋(といちや)酒店。店の前に猫がいた。飲み物、生鮮食品、菓子類、生活雑貨が一通り置いてあった。以前、商店はもう1軒あったそうだが、廃業したらしい。

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 水のボトルを買って、大凸部(おおとんぶ)をめざした。郵便局の横を通り、坂を登っていく。もんじという飲み屋らしきものがあったが、廃業している気配だ。たまたま近くを通った人に尋ねてみた。営業していると教えてくれた。

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 舗装されていた道はやがて中央が苔むした道になり、道幅は狭くなり、最後には山道になった。

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 草が生い茂る山道を登っていく。2方向に分かれるところがあった。左手は誰かが意図的に道をふさいだように細い竹が重なっており、右側の道は草があまりに生い茂り歩けなかった。

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 大凸部は青ヶ島の外輪山の一角であるらしいのだが、そこに行くことはできなかった。道をまちがえた可能性は高い。少しもどったところに、東台所神社の案内が出ていたので、階段を登っていった。階段はあまりに急な傾斜になっていた。階段に使われている石は角がない丸石でそこに苔が生えているので滑りやすかった。真ん中より上の急な部分では手を使いながら四つん這いで登らなければならなかった。

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 階段を登ったところに東台所神社があった。悲恋の末、島人7人を殺した浅之助という人を祀っているらしい。

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 東台所神社から外輪山の尾根を歩いて、尾山展望公園をめざした。大凸部への山道よりはるかに歩きやすかった。

 今までに見たことのない風景が外輪山の内側に展開していた。外輪山のなかがくぼんでいて、そのくぼみから山が隆起している。いわゆる内輪山である。内輪山は、天明の大噴火をした丸山(別名=お富士様)である。

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 尾山展望公園からも同じ風景が見えた。青ヶ島にやってくる人はこの風景を見にくる。やわらなか丸山の形状はチョコレート・ヒル(フィリピン・ボホール島)のようだ。火山島という点では、サントリー二島(別名テラ/ギリシャ)の海に沈んだ火口を想起してしまう。

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 1780年(安永9年)からの噴火活動が1785年(天明5年)になって激しくなったので、島民は八丈島に避難した。これが天明の大噴火である。

 そのときの言い伝えを記載してみる。八丈島から出された3痩の船に全島民を乗せることはできなかった。船端に取りすがった人の手をやむを得ず鉈で切り落としたともいう。3艘の船に乗ったのは島民108人と流人1人だったらしい。130~140人を救うことはできなかった。彼らは噴火が続く青ヶ島で死亡したとみられている。当時の船の規模や性能を考慮すれば、青ヶ島への接岸の難しさは今の数倍は優にあっただろう。

 天明の大噴火のあった1785年(天明5年)の将軍名を調べてみた。10代徳川家治だった。よく知らない将軍だった。3痩の救援船を出したのは八丈島役所で、将軍と幕府が直接指示を出したといったようなことはなかっただろう。しかし八丈島役所が勝手に動けるくらいに、江戸幕府の官僚機構は機能し、それなりの権限委譲はあったというのは私の解釈である。

 2000年の噴火によって三宅島の全島民が避難したときのことは私の記憶にまだある。救助すべき人数が少なかったのは幸いであったが、救助する側される側ともにみせた、口之永良部島での救出の速さと手際のよさは太平洋プレートの上に住む私たちの国に蓄積されたノウハウの結実である。

 天明の大噴火のあと青ヶ島は無人島となったが、1824年(文政7年)に旧青ヶ島島民は全員八丈島に帰還したと資料にあった。これは驚かざるを得ない。39年後の帰還である。39年という年月は、青ヶ島島民の八丈島での生活基盤ができあがっていることを意味するだろう。江戸時代の平均寿命は45年とあった。青ヶ島脱出から帰還までの過程について触れてみよう。
 
 八丈島への移住のあとの1789年(寛政元年)、名主である三九郎は青ヶ島の見分を行っている。噴火はすでにおさまっていた。飲料水が利用できるかどうかはわからなかったが、噴火による危険はないと判断されたらしい。住居と水のない島に全員をもどすわけにはいかないが、少人数なら島にもどることが可能だと考えられた。同じ年、復興開発費として257両2分銀6匁が幕府から支給されたとの記録があった。当時の、この金額がどの程度の価値を持つのかわからない。20人が青ヶ島に渡り、最終的には12人が青ヶ島の復興に従事したらしい。

 1817年(文化14年)、佐々木次郎太夫伊信が青ヶ島の名主となり、青ヶ島の見分を実施し、復興計画を立案した。1818年(文政元年)、彼の指導により、帰島計画が進められた。全島民が青ヶ島にもどったのは、つまり環往が達成されたのは、それから7年後の1824年(文政7年)である。

 天明の大噴火のあとの39年間、青ヶ島と八丈島で行われていたことは、今の日本の被災地で行われていたことと何一つ変わらなかった。

 あおがしま丸が就航する前の船の名前は、環住丸である。

 当時の航行のむずかしさを物語る事例も列挙しておこう。1796年(寛政8年)八丈島から青ヶ島に向かった船は漂流して上房総半島に漂着した。1797年(寛政9年)、鳥島に漂着した野村長平の一行が青ヶ島にたどり着くという記録があった。同年、八丈島に到着した2名から青ヶ島の現状を聞いた三九郎ら14人が青ヶ島へ向かったが、船が漂流して14人が死亡した。1799年(寛政11年)青ヶ島に向かった33人は漂流して紀州に流された。

 今日、私は青ヶ島から八丈島を見た。江戸時代の船は、晴れた日に見える場所に着くことができていない。青ヶ島周辺の海の歴史は漂流の歴史でもあった。

 気になったので伊能忠敬の地図を調べてみた。時代が重なるからである。伊能忠敬が足を運んでいないところはあるが、たとえば蝦夷(北海道)ではシャマ二(様似)、ホロイズミ(えりも)、クスリ(釧路)、アツケシ(厚岸)、ネモロ(根室)に足を運んでいた。島では、家島諸島(播磨灘、小豆島の東)を皮切りに瀬戸内海の島々、隠岐諸島、種子島・屋久島、壱岐(対馬はすでに『元禄対馬国絵図』があった)、九十九島などを測量している。伊豆諸島では、当時の有人島ではないはずの式根島を測量していたが、どうやら青ヶ島には足を踏み入れていないようだった。八丈島の地図の精巧さに比べ、青ヶ島の地図はかなり雑な感じがした。

 青ヶ島に帰還した島民は内輪山の周辺(池之沢地区)には住まなかった。

 外輪山の尾根から内輪山のほうに降りる道はない。今日はここまでにして山を降りていった。

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 坂の途中は、つまり山の斜面はコンクリートで固められ、薄緑色のペイントがされている。一見、スキーのゲレンデである。これは雨の集水施設だ。青ヶ島の地形は急峻で、降った雨はすぐに海に流れ落ちてしまう。

 民宿マツミ莊の近くの駐在所の掲示板を清掃している人がいた。尋ねてみた。

 もしかして警察官ですか
 そうです 掃除の最中なのでこんな格好をしています
 今日来たばかりの旅行者なのですが、島では事件はあるんですか
 ないですね 島の人の多くは親戚です もめごとがあって仲裁をするようなことはあっても事件化はしないです
 なるほど
 でも外から来る人は無鉄砲な人も多く困ることはあります
 農業をやったことがないのに島で農業ができると思い込んで来る人や民宿の予約をしていないのにやって来る人なんかもいます
 それは無謀すぎですよね 
 ・・・・・・・・・・
 警視庁の方なんですよね
 そうです 白バイに乗っていました
 すごいですね 島への赴任の希望を出されたのですか
 そうです 妻と子供x人を連れてきました
 いつまでこちらに
 たぶんX月で異動になります 実は、明後日警視総監が来るんですよ 制服じゃなくこんな格好で今清掃中なんです

 話をした警察官はまだ若かった。なかなか格好よく仕事熱心な人だった。警視総監が来るのだから、清掃するのは当たり前だろうし、エピソードとして記載しても特に問題はないだろう。他のことも話してくれたが、終始、旅行者への配慮はされていた。

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 民宿マツミ莊にもどったときまだ日は暮れていなかった。仕事で宿泊している人が2人宿泊しているようだ。

 夜ご飯のあと、おそらく1軒しかない飲み屋(もんじ)に行こうかどうか迷った。でも今日は止めておこう。明日もある。

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Comment

編集
毎々読ませて頂いております
青ヶ島
知りませんでした
鬼ヶ島の響きがあります
貴重な紀行文になると思います

コンテナ上陸とは、凄いです
2015年07月03日(Fri) 23:46
No title
編集
Maxさん。
いつもお読みいただき、ありがとうございます(笑)

ブログにも書きましたが、昔、青ヶ島の三宝港では鳥かごに乗って上陸していましたが、今はなくなっているはずです。まさか八丈島でコンテナとは。けっこう興奮しました。

今、日本に残っている鳥かご上陸は南・北大東島だけだと思います。

鬼ヶ島の響きは確かにありますね。
「島カレ。」という漫画に(まったく読んだことはありませんが)、男ヶ島というのが登場しているそうです。青ヶ島がモデルらしいです。
2015年07月05日(Sun) 13:12












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