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日本細見紀行 

日本各地の旅日記
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おがさわら丸、入港せず。八丈の思いは届かず! 

4日目  2015年6月18日  八丈島

 朝から嫌な感じの雨が降っていた。昨日八丈富士に登っておいてよかった。

 雨のなかを護神バス停まで歩いた。バスはいつも遅れるよ、といっしょにバスを待っていた人は言った。

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 遅れてやってきたバスのドライバーは、昨日乗ったコミュニティバスを運転していた人だった。購入してあったBU・S・PAを見せて、ドライバーの左斜め後ろの、前面展望の席に座った。護神バス停9:37発のバスで八丈島の南東にある末吉に向かった。

 バスはJAの前を通り、藤巻商店の前を通り、警察署の前を通り、NTTの前を通り、町立病院に立ち寄った。誰も乗ってこないのですべてのバス停を素通りしたが、町立病院バス停にだけは立ち寄った。旧町役場バス停の近くに八丈島観光協会があった。バスは八丈島郵便局の前を通り、歴史博物館の前を通り、町を出ていった。

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 雨が止む気配はなさそうだ。1日中降りそうである。

 樫立地区を通ったとき、車窓に「ふれあいの湯、本日休館」という表示が目に入った。八丈島ガイドマップで確認すると、樫立温泉というのがふれあいの湯を指すらしい。

 バスは中之郷地区に入っていった。バスが走っている周遊道路は中之郷地区の真ん中を突き抜けている。この地区には中之郷温泉がある。中之郷温泉はやすらぎの湯(とザ・BOON)を指すらしい。やすらぎの湯に行くためには、この地区のどこかでバスを降りて15分ほど歩かなければならないようだ。

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 バスは末吉地区に入った。終点の末吉バス停で降りるつもりだった。八丈島ガイドマップによると、末吉地区では末吉小学校、八丈島灯台、名古の展望台が確認できた。しかし山間のなかにある地区らしく、家がぽつんぽつんとあるだけのようだ。集落の気配はなかった。

 八丈島のバスは、車内前方に次のバス停の案内が表示されない。表示されるのは主なバス停と停まることが決まっているバス停ぐらいのようだ。どのバス停が表示されどのバス停が表示されないのかわからない。それはアナウンスも同じで、アナウンスされるバス停とされないバス停がある。乗車時には、どこで降りるかをあらかじめドライバーに伝えなければならない。降りる場所を変更する場合も同じである。乗車中に降りるバス停を変更した場合、変更先のバス停でバスが停まるかどうかわからないからだ。表示もアナウンスもされないバス停があるのだから、うかうかしていると通過されてしまう。バスに乗っているのは護神バス停から乗ったもう1人と私だけである。乗降客は極端に少ないので、信号待ちでもない限り、バスはそう簡単には停車しないのだ。

 いっしょに乗った人は少し前のバス停で降り、代わりにお婆さんが乗ってきた。私を含めこのバスを利用したのは3人だけだった。

 バスのタイムテーブルには末吉温泉前バス停があった。そこにみはらしの湯があるようだ。終点の末吉バス停まで行かないことにした。途中の信号待ちのとき、みはらしの湯で降りたい旨をドライバーに伝えた。

 みはらしの湯の看板が見えたところでバスは停まったので、そこで降りると伝えた。上まで行かないのですが、と聞かれたが、ここがみはらしの湯なんですよねという私の質問に、そうですという返答がなされた。

 バスを降りた。バスは発車し坂を上っていった。近くを歩いていた人に尋ねると、みはらしの湯は坂の上だった。仕方がない、傘を差して坂を登った。バスは上のほうにあるらしいみはらしの湯で折り返してきた。坂を下ってきたバスは坂を登る私とすれ違った。バスのドライバーは一言足りない。坂の下でバスが停まったとき、ここがみはらしの湯ですかと尋ねる私に、そうですとドライバーが答えれば、私はそこで降りるしかない。みはらしの湯に行きたいのだから。そのすぐあとに、上まで行かないのですねとドライバーに言われたとき、私は、ここ(坂の下)がみはらしの湯なんですよねと再度同じことを確認した。ドライバーは、そうですと答えたのだから、そこで降りるに決まっている。バスのドライバーは何をどういうふうに考え、ずれたような答えをしたのか見当がつかない。考えられることは、末吉温泉前というバス停が正式名であり、わたしがその正式名を言わなかったからなのか。つまり、末吉温泉バス停で降りたいといえば、坂の上ですという答えが返ってきたのだろうか。末吉温泉イコールみはらしの湯なのだけれど。

 昨日、コミュニティバス内で、このドライバーから2日間の乗車券BU・S・PAを買ったときにも会話はすれ違っていた。融通が利かなさそうな人だという印象を持った。

 BU・S・PAを見せ、みはらしの湯に入館した。開館の10分ほど前だったが、和室に入って待つことができた。途中からバスに乗ってきたお婆さんは坂の上の、ホンモノのみはらしの湯で降り、早々と和室でくつろいでいた。「なんで下のほうで降りちゃったの? どっか寄るところがあるのかと思った」と話しかけてきた。苦笑するしかない。「ドライバーが、みはらしの湯だと言った場所で降りたのです」と答えた。

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 飲み物の自動販売機はあったが、食べ物は販売していなかった。

 みはらしの湯では、2日ごとに男女の湯船を入れ替えるようだ。普通、温泉施設のなかの写真撮影は禁止であるが、誰もいないのだから文句はないだろう。写真を2枚撮ってみた。

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 湯船は屋内と屋外にそれぞれある。湯船から海は見えたが、晴れていれば絶景だと思える風景は灰黒色に煙っていた。近くにあるはずの八丈島灯台は見えなかった。

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 ♪窓の外は雨、雨が降ってる♪ 「雨の物語」という歌があった。
 
 薄茶色っぽい、濁り湯のなかでくつろいだ。横になった和室でうつらうつらした。

 和室には「東京七島新聞」が置かれていた。伊豆七島は、伊豆の有人島が伊豆大島、利島、新島、神津島、三宅島、御蔵島、八丈島の7島であったことに由来している。しかし明治以降に人が住み始めた式根島、八丈島の南にある青ヶ島を加えると9島ある。今、島の数を入れた呼称を使うのであれば、伊豆九島とすべきだ。東京都の外郭団体「伊豆七島観光連盟」は「東京諸島観光連盟」に改名されているが、東海汽船は未だに、伊豆七島という呼称を使用している。これもおかしな話で、東海汽船による青ヶ島への出航はない(あおがしま丸は伊豆諸島開発により運航されている)が、式根島へは就航しているので、実態に即した東海汽船のパンフレットは伊豆八島という名称を使うべきである。10年ほど前からそう思っていたが、それはどうでもいい。私が気になったのは「東京七島新聞」がどの島に配布されているかである。わざわざ東京という地名を入れているのに、七島という名称を残している。不思議な名称なのだ。

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 東京都の小笠原諸島の父島、母島は有人島である(兄島や弟島は無人島)。東京都の硫黄島(鹿児島県にも硫黄島がある)に民間人はいない。民間人の住む有人島だけをカウントし、東京という文字と島の数を合わせたネーミングをするのなら、東京十一島となる。

 つまりこの地域のネーミングは、伊豆九島と東京十一島の2択しかない(私はどうでもいいことを書いている)。

 こういうことは、東京都が東海汽船や新聞社にさりげない要請をすればそれで解決するのだろう。もっとも「東京七島新聞」の一面には、伊豆七島建設業協同組合という文字があった。各自勝手な命名をしているので、ややこしい。式根島と青ヶ島はいつも日陰者なのだ。

 もっとも青ヶ島は独立して扱いたい気分もある、絶海の孤島として。

 12:49のバスに乗ることにした。さっきのお婆さんがみはらしの湯の玄関先で立ったままバスを待っていた。バスは遅れるのかね、とお婆さんはつぶやくように言った。ドライバーによって、わりと遅れる人とほんの少しだけ遅れる人とがいるんですよ、とみはらしの湯のスタッフが返していた。

 末吉温泉前(みはらしの湯)バス停は、始発の末吉バス停から数えて2つか3つ目である。タイムテーブルに寄ると、終点で15分ほどの休憩ののち折り返すダイヤになっているので、遅れる理由はあまり考えられない。

 バスはわりと遅れてやってきた。さっきのドライバーは1本前のバスで折り返したはずで、今度は別のドライバーだった。

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 今朝乗ったバスは歴史博物館前を通過していた。時間があるので、行ってみることにした。その前に昼ご飯を食べたいので、どこかで食堂を探す必要がある。乗車時に護神バス停までとドライバーに伝えていたが、大脇前バス停で降ろしてもらうことにした。周辺に食事のできる店は3軒あるはずだった。13:30過ぎの時間帯に開いているかどうかはわからないけれど。

 見つけた1軒の食堂は廃業していたが、すぐ近くにあった、えすあーるというカフェに入った。少ないメニューのなかからピラフを選んだ。あまりに普通のピラフだった。

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 カフェを出たとき、雨と風は強くなっていた。折り畳み傘が風に煽られ、何度か反り返った。風の吹く方向に傘を向けながら、5分ほど歩いて歴史博物館に入った。風雨を避けることができてほっとした。

 木造の博物館は古いたたずまいの学校のようだった。1975年までは東京都八丈支庁舎だったらしい。歴史博物館は、八丈島の自然と文化財、考古資料、民俗資料、流人コーナーⅠ、流人コーナーⅡ、自然、生活用具、産業といった8つのコーナーに分かれていた。八丈島の最大の魅力は自然なのだろうが、どれだけ島を周っても見えないものを歴史博物館は見せてくれた。それは2つに分かれている流人コーナーだ。

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 テレビの時代劇に出てくる地名は限られている。何度も登場してくるのは江戸とその町々。小伝馬町とか小石川とか吉原とか浅草とか。地方の京都、伊勢、水戸、尾張、紀州、薩摩などはメジャーな地名で、加賀、越後、備中などという藩名もよく登場してきたように思う。今の関東地方に相当する関八州(相模、武蔵、上総など)といったややあいまいな地域も出てくる。上州新田郡(じょうしゅうにったごおり)三日月村という特殊な地名(おそらく創作だろう)もあった。そういったなかでしっかりと役目を与えられて登場していた地名は、佐渡(金山)、石見(銀山)、韮山(銀山)であり、それとともに罪人の島流しの先としての八丈島だろう。江戸時代の刑にどれだけの種類があったのかを知らないが、江戸十里四方処払いと(市中引き回しの上)打首獄門の間のどこかに島流しの刑があった。

 江戸時代、八丈島は流人の島だった。流人の島として日本史に組み入れられたといっていい。1606年(慶長11年)宇喜多秀家という人が流人の第1号である。最初は政治犯、思想犯が中心だったらしいが、途中からは賭博犯などが送られたらしい。島で、流人は普通の人として生活したようだ。流人は島で結婚をしている。流人の妻は水汲み女と呼ばれた。島人は水汲み女を差別したりしなかった。島の産業や文化は流人によって発展したともいえる。流人の墓は島人と同じように扱われ、墓標に流人○○○と刻まれることはなかった。

 1606年から1871年までの間に八丈島への流人は約1,800人である。1,800人を統計のある266年間で割ってみた。流人は1年当たり6.77人。江戸は18世紀初頭には100万人都市となっていることを考えると驚くべき少なさである(もっとも、江戸の面積、幕末の写真辺りから推測すると、江戸の人口は数十万人がやっとではないかと私は思っている。もちろんなんとなくそう思っているだけである。ターリス・チャンドラーの60万人台説は江戸を過少評価しているという説が今の日本では一般的であるが、私はなんとなく、そんなところだろうと思っている)。

 日本は多くの記録を残している国として韓国などで評価されている。八丈島の流人の名簿が残っているのは驚くべきことだ。江戸という時代が進むにつれて武士道は衰退していったと思うが(戦がなかったのだから当たり前だ)、幕府や藩に仕官した武士による官僚制度はそれなりに機能していたと考えられる。彼らは地道にいたるところで多くの記録を残していた。今となっては貴重な記録である。公務員の給与の源泉となった、農民から搾り取った年貢は後世から見て役に立ったというべきか。

 八丈島には漂着船が多かったらしい。漂着船の積み荷は貴重な物資だったようで、島民は漂着船を待ちわびていた。ただ漂着船の積み荷をどうするかについては規定があったようで、横領は禁止されていた。積み荷の10%は島のものになり、残りは再出航の際に船に積み込んだそうだが、沈没した船の積み荷を引き上げた場合は、すべて島のものになった。岸に漂着した荷物は5%が島のものになった。

 八丈島は伊豆諸島のもっとも奥にある島だ。だから沖の島(沖島)と呼ばれることもあった(女護島など6通りぐらいの呼び名がある)。普通に渡航することのできない島で前述のような漂着船に際しての規定があり秩序が機能していたことは驚嘆に値する。明治維新は、封建制から中央集権による近代国家への制度の組み換えだったわけで、それによる混乱はあったとしても、根底にある秩序、治安は江戸時代に完成されていて、うまいかたちで新時代に継続されたと見ていいのではないか。そういうふうなことを考えた。

 館内をひととおり回った。30分ほど椅子に座ってバスの発車時刻までの時間つぶしをした。

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 歴史博物館前バス停は近くにあったが、そこに着くまでに傘の骨が折れた。16:29にやってきたバスに乗って、護神バス停で降りた。夜ご飯にはまだ早い。おそらく開いている食堂はない。風雨が和らぐ気配はない。一度ハッチ―・ジョーズ・ホステルにもどってしまえば、この風雨のなか、外に出ることはないだろう。護神交差点周辺で夜ご飯を買って帰ることにした。

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 スーパーマーケットで弁当を買った。ハッチ―・ジョーンズ・ホステルまでの15分間、何度も傘をあおられた。昨日の八丈富士で靴とパンツの膝下が泥だらけになったが、今日は全部がびしょびしょになった。

 底土港周辺はとくに風が強かった。

 東海汽船のHPにアクセスしてみた。おがさわら丸は欠航になっていなかった。竹芝桟橋を出航していた。しかし八丈島には寄港しないことがわかった。あまりに残念だ。
  
 運航されたのかどうなのかをチェックする気にはならなかったが、飛行機の最終便(第3便)の到着は16:40で終わっている。18:00を過ぎれば、今日、新しい宿泊者がやってくることはないだろう。

 夜ご飯用の弁当を食べ、パソコンで日記を書き、テレビを観た。

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 ハッチ―・ジョーズ・ホステルを揺らす風の音と穿つ雨の音を聞きながら眠った。

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