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日本細見紀行 

日本各地の旅日記
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北海道の旅 2014年夏 羽幌に行くぞ!

0日目  2014年6月19日  

 私は「私」を語らない。「私の旅」を語る。

 日本人が国内で行きたい場所の1位と2位は沖縄と北海道である。沖縄が行きたい場所として浮上してきたのは1990年代半ば以降だろう。1975年の沖縄海洋博は集客目標に遠く及ばなかった。1970年に大阪万国博覧会を大成功させた日本人は、5年後に飛行機に乗ってまで沖縄の海洋博を見てやろうという気にはならなかったのだ。1970年代後半から80年代にかけて、沖縄はまったくブームではない。ついこの前(2014年3月31日)に解散宣言をしたTHE BOOMの「島唄」は1993年に発表されている。沖縄人気はこのあとのことになる。

 旅先としての新参者沖縄とは異なり北海道は老舗である。1970年代から80年代にかけて、若者は北海道をめざした。飛行機での旅はまだ少なかったが、青森行きの特急や急行と青函連絡船は彼らを運んだ。彼らの心のなかに吉田拓郎の「襟裳岬」のメロディが流れていたわけではない。「襟裳岬」はレコード大賞を獲った森進一の歌である。当時は、作曲した拓郎も同じ歌を歌っているのか、というぐらいの認識だった。ただ、拓郎のダミ声と荒々しいギターは北海道の雰囲気に合っていた。当時のフォークには放浪のイメージが少なからずあり、北海道は国内でそれが最も体現できる場所だった。

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 少し上の世代には「知床旅情」のたおやかなメロディがあったが、私は特に好きではなかった。少しあとに突如登場してきた男は足寄で歌い続け、そこに行く女の子たちが出現した。タレントを追いかけ家に押しかけるというのはこの男が起こした現象だろう。B’zのファンが稲葉浩志の故郷の津山(岡山県)を訪れるようになるかなり以前の話である。

 1980年代に入り、倉本聰、さだまさし、田中邦衛らの一派がテレビに登場してきた。舞台は富良野である。

 当時、映画やドラマのロケ地を周るというのは旅のスタイルとして確立されてはいなかった。その頃手に入れることのできる情報でロケ地を周ることはまず不可能だった。

 私がロケ地めぐりを旅に組み込み始めたのは、もう少しあとだ。最初は黒澤明の映画「夢」だった。つまり1990年よりあとのことだ。この映画の舞台は富士山麓や安曇野の大王わさび農場などであるが、ゴッホの麦畑のロケ地は南フランスではなく、女満別から数キロのところにある麦畑だった。しかし麦畑は土を腐らせないために、毎年麦を植える場所を変えるらしい。女満別駅でレンタサイクルを借りた私は、撮影場所である麦畑にはたどり着いたが、細かい撮影ポイントまではわからなかった。

 日本人の旅のなかにロケ地巡りが出現した最初の場所は富良野だろう。特にロケ地巡りをしない人でも、富良野では「北の国から」を意識してしまう。

 田中邦衛、吉岡秀隆、中嶋朋子はこのドラマが代表作となった。東映でのデビュー後、あまりぱっとしなかった地井武男はこのドラマで一定のポジションを確保し、そののち「ちい散歩」で晩年の地位を確立する。さだまさしはフォークソング、ニューミュージック系の歌手のなかで最も歌詞にこだわっていたが、代表作となった「北の国から」に歌詞がないというのは、ちょっとしたアイロニーである。

 大きな事件の発生しないドラマ「北の国から」は国民に愛された。純と蛍は多くの人が見守るなかで成長していったが、それが吉岡秀隆、中嶋朋子の役者人生にとって幸運であったかどうかは別である。それは倉本聰にとっても同じことだっただろう。富良野が彼らを放さなくなったといっていいかもしれない。今でも富良野には倉本聰の劇団がある。

 降旗康男監督の元で高倉健は、映画「駅・ステーション」に出演している。雪に埋もれた増毛駅前の宿で、犯人の根津甚八を待つ高倉健は吐く息を殺していた。雪に埋もれた風待食堂で、追われている兄からの電話をじっと待つ烏丸せつこは低い声でぼそぼそと話し、表情がなかった。彼らの発するメッセージは一様に暗かった。「北の国から」の雪には透明感があり、蛍の黒髪と濃い眉は雪景色に映えていた。私は、「駅・ステーション」のなかの雪を黒く感じていた。あのとき、根津が逃げ回った留萌駅の広大な鉄道ヤードは今の北海道でほとんど見ることはできなくなった。

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 現在の増毛駅にはホームが1面だけになっている。2本のレールと終着駅を示す車止めがあるだけだ。それは枕崎駅(鹿児島)の風景とダブるのだが、その話はまた別に書く機会があるかもしれない。

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 「居酒屋兆治」も降旗康男監督のもとで高倉健が出演していた映画だ。舞台は函館で、主人公兆治は造船所に勤務している。

 2014年現在、函館にある造船会社は函館どつく株式会社だけである。創業は1896年で、会社の歴史は紆余曲折を極める。合併を経験し、1951年に函館ドツク株式会社となり、1984年に現在の社名に変更した(カタカナの「ドツク」をひらがなの「どつく」に変更しただけだ)。その後も火災を経験したり札幌本社を閉じたりしている。「再建王」といわれた坪内寿夫率いる来島グループ傘下に入ったこともあった。満身創痍の社歴といっていいだろう。現在、函館市電5系統の終点の名前が「函館どつく」電停となっている。

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 はこだてフィルムコミッションによると、映画のロケ地には、函館朝市や赤レンガ倉庫など6ヶ所が挙げられているが、函館どつく株式会社はロケ地として扱われていない。映画の上映は1983年なので、当時の会社名は函館ドツク株式会社と考えていいのだろうが、ロケ地としては使われなかったということだろう。しかしそもそも、映画のなかに、高倉健が造船所で働いているシーンがあったのかどうかを覚えていない。画面の多くが、居酒屋のなかだったという記憶があるが、それさえも不確かな記憶である。
 
 降旗康男監督下で撮られた「鉄道員(ぽっぽや)」を好きにはなれなかった。吹雪のホームで列車の発着を見守る高倉健は、かってどこかで観た高倉健の焼き直しとしか思えなかった。おそらく初めて高倉健の映画を観た人はそうは思わなかっただろうが、私にとっては、そうではなかった。日本アカデミー賞は自己模倣の映画に与えられてしまったと私は解釈した。舞台となった幌舞駅は根室本線幾寅駅だ。根室本線のくせに、根室市ではなく南富良野町である。志村けんの演技はわざとらしく、私にとって気に入った映画ではなかったが、舞台はまだかろうじて北海道だった。

 それ以降、高倉健の映画の舞台は北海道だけでなく全国に散るようになっていった。私は、舞台が全国に散るのを止めてほしいとずっと思っていた。そのくせ、北海道を舞台にした「鉄道員」には不満だったのだから、勝手である。高倉健には、北海道を舞台に、自己模倣でない映画に出てほしいと思っていたのだ。

 チャン・イーモウ監督の「単騎、千里を走る」の舞台が中国であるのを例外とするのは仕方がないとしても、「ホタル」で知覧(鹿児島)やハフェマウル(韓国)を舞台にするのはもっての他である。舞台が知覧であることはわざとらしく、ハフェマウルはあまりに画になる典型的な両班の村だった。韓国を舞台にするのなら、別のマウルのほうがさりげなくていい。

 余談であるが、映画のなかに、ハフェマウルの古い家の門前で日本から来た高倉健と田中裕子を迎え、韓国人と立って話をするというシーンがあった。そこが韓国側で問題になった。韓国人は必ず家に迎え入れて話をするはずだ、というのが韓国側の主張である。その通りだと思う。ただ制作側は、家に入れてもらえなかったというシーンに韓国人の厳しい対応を映像化したかったのかもしれない。なにしろ韓国人の特攻隊を扱った映画だったのだ。私は、日本に来て6年目の韓国人といっしょに観にいったが、映画を観終わったあと、ほとんど会話ができなかった。わざとどうでもいい話をしながら、緊張を解きほぐさなければならなかったのだ。
 
 「あなたへ」では、富山から飛騨高山、京都、瀬戸内、門司を経由し平戸までの西日本を移動していく。もともとロードムービー色の強かった高倉健であるが、真のロードムービーとなってしまった。

 「駅・ステーション」(1981年)、「居酒屋兆治」(1983年)、「鉄道員」(1999年)、「ホタル」(2001年)、「あなたへ」(2012年)はぜんぶ降旗康夫監督の作品である。この監督は「鉄道員」を最後に、高倉健を北海道と決別させてしまった。

 高倉健が福岡県中間市出身であることを考えれば、「あなたへ」で門司が登場したのは了承しよう。北九州フィルムコミッションは映画の材料としては強力なコンテンツを持つ。博多はおもしろいが、北九州のほうがはるかにおもしろいと言っておきたい。

 時代を少しもどしてみる。1980年代、高倉健は山田洋次監督の下で2本の映画を撮っている。

 そのうちの1本は「遥かなる山の呼び声」(1980年)である。「遥かなる山の呼び声」は別海町、中標津町、弟子屈駅などが舞台である。2006年、レンタカーで標津線の廃線跡を辿っていたとき、偶然通りかかったのが旧上武佐駅だった。そこに「遥かなる山の呼び声」のロケ地だったことを示す看板があった。

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 もう1本の映画「幸福の黄色いハンカチ」はその3年前に上映されている。舞台が夕張であることはあまりに有名だ。夕張については、今年の1月9日に夕張に行ったときに少し書いた。

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 以前、若い友人に「幸福の黄色いハンカチ」の話をしたとき、「あれはコメディですよね」と言われ、驚いた。そのときまで私は「幸福の黄色いハンカチ」はシリアスだと思っていたのだ。なぜコメディなのだ。武田鉄也や桃井かおりの話し方がモノマネに使われすぎたせいか。あるいは監督の山田洋次の「男はつらいよ」との共通点を読み取ったからなのか。ずっとあとに同世代の友人にその話をしたところ「なるほどね」と返ってきた。そこに驚きはなかったように思う。

 「幸福の黄色いハンカチ」は、2008年に「イエローハンカチーフ」としてハリウッドでリメイクされた。しかしそもそもこの映画のオリジナルは米国にある。1971年のニューヨーク・ポストに掲載されたピート・ハミルのコラム「Going Home」がベースになっている。米国ではテレビドラマにもなった。日本で最初に紹介されたのは1973年の日本版「リーダーズ・ダイジェスト」誌上で、それを山田洋次監督が読んだらしい。私はずっとあとになって、河出文庫の「ニューヨーク・スケッチブック」に収められているものを読んだ。6ページほどの短編は、ニュージャージーからフィラデルフィアに差しかかるバスのなかから始まり、ブランズウィックに着いたところで終わる。
 
 米国、日本、米国とリメイクを重ねた背景には、米国と北海道が共に持つおおらかさが背景にあったからかもしれない。それはドーンによって歌われた「黄色いリボン」という曲調からも感じ取れる。もっともなぜハンカチをリボンに変えて歌わなければならなかったのかを私は知らない。

 「居酒屋兆治」が渡辺謙主演のドラマとしてリメイクされたのは1992年だ。私はそのドラマを観ていないが、調べてみると、そうそうたる俳優が脇を固めていた。

 そして2011年「幸福の黄色いハンカチ」は阿部寛、堀北真希でリメイクされた。

 ドラマは阿部寛が網走刑務所から出てくるシーンから始まった。高倉健はそもそも「網走番外地」シリーズで有名になった俳優である。ドラマの最初のシーンで、阿部寛は、高倉健から抜け出せていないと思ったが、ドラマは夕張ではなく羽幌を舞台に展開されていった。

 そのドラマを観ている最中にまずい気がしてきた。羽幌に行きたくなる予感がしたのだ。

 それまであまり好きではなかった堀北真希がとにかくよかった。夏の色が薄い羽幌の町の、行き場を失った女をそっけなく演じていた。笑顔を見せてはならない役柄だったはずだが、さりげない表情が豊かだった。阿部寛は高倉健のような渋味はなかったが、背の高さがうまく画面に収まっていた。武田鉄矢のようなわざとらしさと理屈っぽさをまったく感じさせない浜田岳は屈託のないとぼけた感じを十二分に発揮していた。

 スラっと立つ堀北真希とぽっちゃり型の濱田岳は同じ身長である。濱田岳はひょうきんな役柄をうまく演じていた。それはユーモラスという言葉が当てはまるもので、コメディではなかった。

 リメイク版「幸福の黄色いハンカチ」はよいドラマだった。私のなかの夕張は少し過去に押しやられてしまった気がした。かわりに、羽幌に行きたいと思い始めていた。ドラマを1本観るぐらいで、いつもその撮影地に行こうと思っているわけではない。そう思ったのは、やはりそこが北海道であるからだ。

 この項を書いている最中に思い出していた。「ケンとメリー~愛と風のように~スカイライン」がさりげなく美瑛をアピールしていたことを忘れてはならない。日産の車のイメージ宣伝は、整然とした大地の風景に、さわやかさだけではない、どこか先進的でライトな感覚を持ち込んだ。

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 私はそんな北海道を旅してきた。それらは古い旅だが、燃え尽きてはいない。北海道そのものにたいして憧れてきたが、旅を重ねるごとに、記憶のなかにある北海道の古い旅への旅が重なってきていることを自覚している。

 よいストーリーは何度でも蘇らせてよい。それは単に映画やドラマだけではない。同じ場所に行く「私の旅」にもリメイクはある。

 だから2014年夏の北海道の旅を、羽幌に向かうところから始めてみる。
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