FC2ブログ

日本細見紀行 

日本各地の旅日記
2018年10月 ≪  123456789101112131415161718192021222324252627282930 ≫ 2018年12月
TOPスポンサー広告 ≫ 7日目-2 2017年6月6日 直方 田川後藤寺 田川伊田 油須原 朽網 北九州空港TOP福岡 ≫ 7日目-2 2017年6月6日 直方 田川後藤寺 田川伊田 油須原 朽網 北九州空港

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
スポンサー広告 | Comments(-) | Trackbacks(-)

7日目-2 2017年6月6日 直方 田川後藤寺 田川伊田 油須原 朽網 北九州空港

ふたたびの直方

 思いがけず楠橋城を見たあと、楠橋駅から筑豊電鉄に乗った。

 筑豊電鉄  楠橋 11:26発 → 筑豊直方 11:35着

 電車は木屋瀬宿(こやのせじゅく)駅を通過した。長崎街道は江戸時代に整備された脇街道の1つで、(豊前国)小倉から(肥前国)長崎までの街道である。木屋瀬宿は小倉から二番目(小倉と長崎の起終点は数には入れない)の宿場町で、古い町並みが残っている。下の2枚は2007年4月1日に撮影した。

DSCF0238.jpg

DSCF0243.jpg

 高架である筑豊直方駅はJR直方駅から500mほど離れている。ここが高架駅であることと直方駅まで中途半端な距離があることはとても不自然である。

P6060076.jpg

 筑豊電鉄は路線を飯塚まで延伸させる計画だった。つまり直方駅での接続は最初から計画になかったが、筑豊本線を高架で跨ぐ必要があったので手前の筑豊直方駅を高架にしておいたというのが不自然さの理由である。

 JR山手線を高架で越えようとしていた東急池上線が(当時の終点である)大崎広小路駅を不自然なくらい高い高架駅にしたのと同じ理由である。池上線は山手線を越えることができなかったが、五反田駅までは延伸した。同じような理由で建設当初から高架になっていた阪神西九条駅は阪神なんば線として目的を果たし、大阪環状線を跨ぐことになった。こちらは高架駅が活きたケースである。

 筑豊直方駅前を南北に走っている福岡県道27号を南に歩き直方北小入口交差点を右に折れた。2つ目の交差点が「すさき」と書かれたアーケードの入口になっていた。須崎町商店街に入った。

 歩行者にとってアーケードの最大の利点は雨風がしのげることである。そのことが店の客寄せの手段となるが、アーケード入口付近にそのメリットはなかった。建物を残して店が撤退したのではなく、建物ごとなくなっているところがあった。建物空白地から雨風はアーケード内に侵入するだろう。幸い今日は曇りである。

P6060077.jpg

 「ようこそ巧みと文化とやすらぎの街須崎町商店街」を直方駅のほうに歩いた。

P6060078.jpg

P6060079.jpg

P6060082.jpg

P6060083.jpg

P6060085.jpg

 映画のポスターは商店街に文化的な香りを加える。商店街に1つは必要なスポットである。

P6060080.jpg

P6060081.jpg

 「ふうちゃんにも、何か売らせましょうたいなあ・・・・」遊ばせてはモッタイナイ年頃であった。私は学校をやめて行商をするようになったのだ。

 直方の町は明けても暮れても煤けて暗い空であった。

 (略)

 門司のように活気のある街でもない。長崎のように美しい街でもない。佐世保のように女のひとが美しい町でもなかった。骸炭のザクザクした道をはさんで、煤けた軒が不透明なあくびをしているような町だった。


 上は『放浪記』の抜粋である。林芙美子は永遠のバックパッカーである。

 1903年(明治36年)生まれの林芙美子は12歳のとき直方にいた。

 門司、長崎を「街」と表記し、佐世保、直方には「町」を使っている。4つの「まち」それぞれの当時の人口規模を知らないし「まち」の様子もわからない。2つの「まち」を使い分けた基準の探りようがない。それに「町」と「街」の使い分けは書き手のセンスによるところが大きい。

 間もなく私は小学校へ行くかわりに、須崎町の粟おこし工場に、日給二十三銭で通った。

 私は須崎町を歩いている。

 洲崎町商店街のアーケードを抜け少し歩いたところで福岡県道40号に出た。商店街の屋根は見事に錆びていた。

P6060087.jpg

 下の1枚は2007年4月1日に同じ場所から撮影した写真である。10年前から錆びていたわけだ。

DSCF0250.jpg

 古町商店街(ふるまち通り)に入った。初めて歩く場所である。

 しっかりしたアーケードのある商店街だ。

P6060090.jpg

P6060091.jpg

P6060094.jpg

 八女市(福岡県)で製造されている八女提灯(やめちょうちん)の専門店があった。

P6060092.jpg

P6060093.jpg

 シャッター商店街がメディアで取り上げられるようになったのは15年ほど前からである。それは日本全国津々浦々に広がってしまった。人口減が露わになってきた日本においてシャッター商店街は珍しくない。よほどのレトロでない限り特筆に値しない。

P6060097.jpg

 古町商店街でもっとも目立っていたのは、南側出口にあったアートスペース谷尾である。そこはかっては福岡銀行(旧十七銀行)だった。建物を設計した人はすぐにわかった。辰野金吾である。シン・ゴジラに破壊されたが、関東大震災に耐えた東京駅丸の内側駅舎は明治の建築技術が世界水準に達していたことを証明するものである。東京駅や日本銀行を設計した建築家が直方の銀行を設計していたことは、当時の直方が賑わっていたことを意味する。もっとも石炭産業が日本の近代化の基軸産業であったことを考えればむしろ当然かもしれない。

P6060096.jpg

P6060098.jpg

 福岡県道467号を西に歩き、適当なところで右に折れた。ふるまち通りの西側を、ふるまち通りと並行に走っている通りを北に歩いた。

 途中で明治町商店街に入った。ここもアーケードのある商店街である。直方駅に直結するこの商店街も店は歯抜け状態になっていた。明治町商店街を西に歩き直方駅前に出た。

P6060101.jpg

 直方駅の前にある西鉄直方バスセンターは古いバス発着場である。10年前と変わっていないということは、10年前にすでに古かったということである。

P6060102.jpg

 下の1枚は2007年4月1日の西鉄直方バスセンター。

DSCF0254.jpg

 直方は炭坑の町であると同時に城下町である。南のほうに直方藩主館跡などがある。直方市石炭記念館もあるが、そこまで行かない。2度目の直方を歩きたいと思ってやって来たのではない。今日の私にとって直方は通過点の町で、歩いているのは半ば行き掛かり上である。

 直方駅にはJR筑豊本線(福北ゆたか線)の他に平成筑豊鉄道が乗り入れている。500m離れたところにある筑豊直方駅と合わせて交通の要衝になっている。

 福北ゆたか線はJR九州の運転系統の愛称である。福岡と北九州を結ぶ鉄道路線として、非常時における鹿児島本線のバイパス機能を持っている。若松駅、小倉駅・黒崎駅からやってくる列車は直方駅止まりのものと博多駅まで乗り入れているものに分けられている。


田川後藤寺を歩いた

 平成筑豊鉄道の列車内で「ちくまるキップ」を買った。1日乗り放題の乗車券である。平成筑豊鉄道には井田線、糸田線、田川線の3路線がある。

P6060103.jpg

 平成筑豊鉄道井田線・糸田線  直方 12:35発 → 田川後藤寺 13:12着

 明治町商店街のなかの直方市観光物産振興協会で直方のガイドブックをもらっていた。直方を出るときに読んでも役に立たなくなっていたが、列車のなかでぱらぱらめくってみた。

 平成筑豊鉄道の嘉麻川橋梁は煉瓦建造物として直方市の推す観光スポットの1つであるということを知ったすぐあと、電車は嘉麻川橋梁を渡った。南直方御殿口駅とその次のあかぢ駅の間を流れる遠賀川に架かっている橋である。遠賀川に架かる鉄橋に、嘉麻川の名称が付いているのは変である。

 井田線は全線複線であるが、この鉄橋は上下別々に建設されたらしい(単線開業のあと複線化されたのだろう)。下り列車に乗るのだから、上り線路の橋脚を見ることができるのだろうと見ていたが、橋脚部分はほとんど見えなかった。橋脚は120年以上前に煉瓦で造られたものなのだが、河川敷に行かないと見ることはできないようだ。

 1両編成の列車は金田駅から糸田線に入った。

 田川後藤田駅に着いた。田川が炭坑節発祥の地であることを知っていた。

P6060104.jpg

P6060107.jpg

 古い商店街があることも知っていた。それを見るためにやって来たようなものである。直方は筑豊地方の北側に位置するが、直方より南を見てみたいとも思っていた。

 その前に駅名について書いておかなくてはならない。田川後藤田駅ではなかった。「MrMax田川後藤田駅」である。ネーミングライツ=命名権を行使したらしい。「ヤフードーム」や「味の素スタジアム」と同じである。都心部でないと企業を見つけにくいはずなのによく見つけたと思う。地元への浸透度は企業側の努力ということになのだろう。MrMaxは福岡市に本社を置くディスカウントストアである。新習志野駅(JR京葉線)の駅前のMrMaxに入ったことがあった。

 田川後藤田駅前で方向を変えているのは福岡県道432号である。歩道の上に低い屋根のある商店街があった。寂れている雰囲気はあったが、店や食堂はわりとあった。

P6060109.jpg

P6060134.jpg

P6060137.jpg

 福岡県道432号から南に延びている田川ごとうじ銀天街に入った。商店街の入口というより千鳥饅頭の店の入口かと思った。銀天街という名称は北九州に特に多い。

P6060111.jpg

 入口から出口まで目立った店はなかった。ここもシャッターを下ろしたままの店は多いが、全体はきれいに保たれていた。歩いている人はほとんどいなかった。

P6060112.jpg

P6060113.jpg

P6060114.jpg

P6060116.jpg

 人が歩いていなくても賑わっているふうに見せるためには、無理にでも下のような情報を出していくしかない。

P6060129.jpg

P6060131.jpg

 食品雑貨屋のような店の脇に路地があった。狭い場所に無理に作ったような路地だった。ここがもっとも雑だったが、愛着がわくのはこういった場所である。

P6060117.jpg

P6060118.jpg

P6060119.jpg

P6060120.jpg

P6060121.jpg

 全国的にコンパクトシティが成功しているのかどうかにはわからない。モデルケースとなっている富山市に疑問符が付けられているのだから前途多難であるといえるが、一方で成功不成功の是非を問うのは時期尚早であるという見解もある。後者はもっぱら実践の主体である自治体から聞こえてくる。これからコンパクトシティをめざすという自治体もある。

 論理的に考えればコンパクトシティ化のほうに向かわざるを得ないが、地方で普及し尽した車はコンパクトシティをぶち破る飛び道具でもある。巨大ショッピングモールがトレンド対応を常に行い、モード変更をしていった場合勝てないかもしれない。

 地権の問題をひとまず置いて、とすることはできないのだが、商店街の店を駅前に集中させるしかないだろう。田川後藤田はまだ店が残っているが、アーケードの出口までの400mは長すぎる。現存している店が廃業してしまえば終わりである。

 商店街の出口のほう(南側)の看板には「(プロムナード)上本町商店街」という名称があった。途中、左右にそれぞれ3、4ヶ所、商店街から抜ける道があったが、そのどこかが田川ごとうじ銀天街との境界だったのだろう。商店街が形成されたいきさつを捨て統一する方向にはないのだろうか。

P6060123.jpg

P6060128.jpg

 南側出口の前を福岡県道454号が走っていた。

 出口周辺にも山崎商店、ヤマザキパン、美容室などの店はあった。

P6060125.jpg

 もう一度上本町商店街に入り田川後藤寺駅のほうに歩いた。

 福岡県道432号にもどった。アーケードの1本東側の、南に延びる通りを歩いてみた。店がつらなっているわけではないが、ないわけではない。

P6060132.jpg

P6060133.jpg

 福岡県道432号をはさんで田川ごとうじ銀天街の北側にはサンシャイン通りがあった。

 福岡県道432号を西に行くと国道322号と交差する後藤寺本町交差点があった。錆びた歩道橋を歩いている人はいなかった。国道322号を北に歩いた。

P6060139.jpg

 右手にあったcoffeeニューたがわに入ってみたい衝動にかられたが、それ以上に目を引いたのはバスセンターである。車両の出入り口はふさがっていた。

P6060141.jpg

 使われなくなったバスターミナルを見たことは今までほとんどなかったが、2日前に見た戸畑バスセンターに続いて福岡県で2例目である。福岡県ではバスターミナルといわずに、バスセンターというようだ。小倉、黒崎、直方ではバスセンターになっていた。日本最大のバス会社である西鉄バスがそう呼んでいるのだろうか。

 国道322号沿いからサンシャイン通りに入った。歩道はカラー舗装されていた。お洒落な雰囲気はあったが、この通りに入ってから出るまで誰ともすれ違わなかった。

P6060135.jpg

P6060143.jpg

P6060136.jpg

 福岡県道432号沿いの一平食堂で昼ご飯。雰囲気は悪くなかった。肉類が品切れになったらしく、注文できるメニューは限定された。昔ながらの食堂の昔ながらのオムライスを食べた。

P6060110.jpg

P6060145.jpg

P6060146.jpg

 
田川井田に移動

 好きな県の上位に入る福岡県は治安の悪い県の上位にもランクインしている。とくに北九州と筑豊にはその噂が付いてまわる。日本国内の旅行者がそういったものに遭遇する可能性はゼロに近いが、川崎町は大正から昭和にかけての50年間、ある集団によって汚名が付いてしまった町である。

 行ってみようと思っていたが、楠橋城に寄ってしまったので時間がなくなってしまった。川崎町に行かないことを決めた。日田彦山線に乗った場合、もどってくる時間が読めなくなる。

 田川後藤田駅から田川井田駅まで歩けば約3kmである。日田彦山線の列車に乗れば1駅であるが、平成筑豊鉄道の糸田線で金田駅までもどり、井田線に乗っても時間はかからない。「ちくまるキップ」を無駄にしないためと、さっき知らないで通過してしまった金田駅をちょっと見ておくために糸田線に乗ってみた。

 平成筑豊鉄道糸田線  田川後藤寺 14:20発 → 金田 14:32着

 金田駅で乗り換えた。平成筑豊鉄道はこの金田駅構内6番線で団体客を対象に列車運転体験を実施している。乗り継ぎ時間が3分では何も見ることはできなかったが、駅構内は広く車庫らしきものがあった。この鉄道会社は門司港駅の近くで門司港レトロ観光線「北九州銀行レトロライン」を運営している。銀行名が入っているのはネーミングライツによるものである。

 平成筑豊鉄道井田線  金田 14:35発 → 田川井田 14:47着

 日田彦山線で4分の距離を、27分かけて田川井田駅に着いた。

P6060183.jpg


田川伊田を歩いた

 田川伊田駅ではなかった。「MrMax田川伊田駅」である。これもネーミングライツによるものだ。チロルチョコ創業の地であるのだから、チロルチョコ田川伊田駅のほうがいいと思うのだが、オフィスはもう田川にないようだ。

 田川後藤寺駅には来てみたいと思っていたが、田川井田駅のことはほとんど知らなかった。3日くらい前にグーグルマップを見ていたとき、田川井田駅周辺に商業地エリアがあることがわかった。規模は田川後藤寺駅周辺と変わらないようだ。

 少し調べてみたら、1943年11月に後藤田町と伊田町が対等合併し田川市となったことがわかった。戦争中のことである。戦況は刻々と悪化しており、政府も軍部も石炭の増産に死力を尽くしたはずだ。そのときの筑豊では何が起こっていたのかを知らないが、戦争中の市町村合併にはそういった背景が絡んでいたはずである。

 「対等合併」という言葉はその後の両町の関係を縛るものになったのかもしれない。今でも田川後藤寺と田川伊田は同じ市内でのライバル関係にあるのかもしれない。しかし人口48,000人の自治体の中心地が2分されていては、他の自治体との競争には勝てない。

 電車が田川井田駅に入る直前、右手に煙突が見えた。炭坑跡であるらしい。

 田川井田駅で下車したあと、線路の下を潜り駅の南西方向に歩いた。煙突が見えた方向である。

 丘陵地帯を上っていくと石炭記念公園に出た。

 煙突が2本立っていた。旧三井田川鉱業所伊田竪抗櫓第一・第二煙突はともに45.45mの高さである。使用耐火レンガは213,000枚。

P6060153.jpg

 旧三井田川鉱業所伊田竪抗櫓。

P6060157.jpg

 田川市石炭・歴史博物館があった。入ろうかどうかを迷った。今までいくつもの石炭博物館に入ってきたが、どこもあまり変わらなかった。夕張(北海道)はすばらしかったが、明らかにそれを真似たと思われるテベク(韓国)のようなところもあった。いわき(福島県)は恐竜の化石、三笠(北海道)はアンモナイトの化石を「売り」にするという新手の手段を講じていた。

P6060152.jpg

P6060156.jpg

P6060160.jpg

 田川市石炭・歴史博物館に入らなかったことをあとで後悔することになった。ここは山本作兵衛氏の炭坑記録画及び記録文書を保有していた。ユネスコの世界記憶遺産に登録されたときテレビで何度も紹介されていたことを思い出したのは帰ってからだった。

 石炭記念公園の西側の坂を下り伊田市内のほうに歩いた。

 日田彦山線の低い高架を潜ると商店街が見えた。

P6060162.jpg

 平成筑豊鉄道の踏切の手前から店が現れ始めたが、ほとんどの店は閉まったままだった。火曜日の16:00前後に店が閉まっているということはたまたまその日だけ店を閉じたのではないということである。

P6060163.jpg

P6060164.jpg

 踏切の手前で左に延びる通りはかって商店街だったのだろう。しかし店はなかった。

 踏切を渡ったところにアーケードのある伊田商店街があった。

P6060167.jpg

 商店街に入ってすぐのところでアーケードは分岐していた。アーケード入り口に橘通りと本町通りの表記があったが、田川伊田駅のほうに延びているのが本町通りであると思われる。

P6060169.jpg

P6060171.jpg

 アーケードのなかに休憩所のようなカフェがあった。コーヒーが飲めるらしい。

P6060181.jpg

 田川市の地域おこし協力隊のオフィスだった。コーヒーに、お菓子が付いてきた。Wifiを使わせてもらった。

P6060180.jpg

 スタッフの2人とそれぞれ少し話しをした。

 商店街は店が少なくなっているが、商店主たちは炭坑があった頃の蓄えであまり困っているようではない
 北九州から観光客は来ているが、今後福岡から呼び込めるかが課題
 田川伊田駅舎にゲストハウスを作る案が進行中である。日本で一番、駅に近いゲストハウスとなる ← これはおもしろそうだ

 ゲストハウスの話しのなかで、タンガ・テーブルがでてきた。小倉で2泊したゲストハウスである。8時間前までそこにいた。

 帰ってから、田川伊田駅舎の改修について調べてみた。

P6060151_20170620054243ea1.jpg

 「都市再生整備計画(第2回変更) 田川井田駅周辺地区(地方都市リノベーション事業) 福岡県田川市 平成27年10月」に構想が提示されていた。1年9ヶ月前にプランはなかった。

 毎日新聞2016年10月12日(地方版) 以下、抜粋 /田川伊田駅は鉄骨造り3階建てで、1990年3月に完成した。延べ床面積は1587平方メートル。テナントは2011年3月までに撤退している。田川市は今年2月に1,000万円でJR九州から駅舎を購入し、9月までに飲食店やコンビニなど15社を誘致したがすべて断られた。2017年度に駅舎改修に着工し、19年度中のリニューアルオープンを目指している。

 ↑厳しい状況だったことがわかる新聞記事である。

 毎日新聞2016年11月15日(地方版) 以下、抜粋 /・・・・田川伊田駅舎活用計画策定などの業務委託のプロポーザルに応募があった3共同事業体のうち、総合評価点が最も高かった「I-TAM」を受託候補者として選定したと発表した。・・・ 「I-TAM」は地域商社などの機能を持つ新法人を設立し、外部の専門機関の助言を受けながら観光案内所や特産品販売店、ゲストハウスなどを運営することを提案し、地元としての熱意もアピールした。

 筑豊と空知(北海道)には石炭産業で栄えたという共通点があるが、函館本線が通過しない赤平、歌志内、芦別、上砂川などは町の再生をあきらめた感じが漂っていた。それに比べれば筑豊はまだ公共交通が生きており、店も残っている。そういうことを考えながら商店街をぶらぶら歩き、田川井田駅にもどった。

P6060170.jpg

P6060172.jpg

P6060173.jpg

P6060174.jpg

P6060175.jpg

P6060176.jpg

P6060182.jpg


湯須原駅のレトロ駅舎

 平成筑豊鉄道田川線  田川伊田 16:36発 → 油須原(ゆすばる) 16:53着 

 (田川郡)赤村を検索していたときに油須原駅の古い駅舎の写真がヒットした。赤村には1945年8月7日に6機の米軍機の変態による空襲を受けたという記録があった。

 油須原駅で下車した。

P6060185.jpg

P6060188.jpg

P6060191.jpg

 レトロな駅である、というよりレトロ感を演出している駅だった。演出は過剰ではなかった。

 なぜか信濃鐵道の運賃表があった。信濃鐵道は、第三セクターのしなの鉄道とは異なる。信濃鐵道はかって松本から信濃大町までの路線として開通したが、のちに国有化された。現在のJR大糸線の南側の路線部分が該当する。

P6060192.jpg

P6060193.jpg

 運賃を示す数字の単位は「銭」なのだろう。

 こういったものを見せられると「出札所」や「手荷物 預所 自転車」などの掲示がこの駅で使われたものかどうかわからなくなってしまう。

P6060194.jpg

P6060197.jpg

 この駅は2007年(平成19年)、フジテレビドラマ『東京タワー~オカンとボクと、時々、オトン~』のロケ地になったらしいが、ドラマを観ていないので何の感慨もない。ロケ地になりそうな駅であるが、駅舎としての魅力をあまり感じなかった。

 駅前に福岡県警察田川警察署赤派出所があった。駐在さんにあいさつをされた。

 駅前を東西に道路が走っていたが、生活道路である。車は走っていなかった。道路沿いに家はあったが、その南側には水田があった。

P6060199.jpg

P6060203.jpg

P6060202.jpg

P6060201.jpg

 駅舎内とその周辺をうろうろと写真を撮りながら、次の列車を待った。

P6060198.jpg

P6060207.jpg

P6060195.jpg

P6060206.jpg

P6060200.jpg

P6060208.jpg

 平成筑豊鉄道矢田川線  油須原 17:30発 → 行橋(ゆくはし) 18:05着


朽網駅から北九州空港へ そして旅の終わりへ 

 行橋駅で下車したホームの向かい側に日豊本線の列車が待っていた。

 JR日豊本線  行橋 18:09発 → 朽網(くさみ) 18:20着

 朽網は北九州空港への玄関口の駅である、と北九州市は主張する。朽網駅は北九州市小倉南区にある。

 ところが福岡県と苅田町は、苅田駅が北九州空港への玄関口であると主張していた。しかし2006年北九州空港ができたときから運行されていた苅田駅と北九州空港を結ぶ空港連絡バスは2009年に廃止された。2010年4月に太陽交通が苅田町の助成を受け空港連絡バス「そらっぴー」を運行したが、1年後に廃止された。福岡県が味方したとはいえ、苅田町が北九州市に敵うはずはなかった。

 シャトルバス乗り場のある朽網駅東口に店はまったくなかった。駅の東を走っている国道10号に出てみた。ロードサイド店はなかった。唯一あったCoCo壱番屋に入った。チキンの夏野菜カレー。

P6060209.jpg

P6060210.jpg

 朽網駅にもどり空港アクセスバスに乗った。バスはほぼ30分間隔で運行されていた。

 西鉄バス  朽網駅バス停 18:58発 → 北九州空港バス停 19:16着 

 早く空港に着きすぎた。暇を持て余していたので空港ターミナルビルの土産物店をじっくり見て回った。買ったのは「北九州世界遺産ネジチョコ」である。ボルトとナットが1組になったチョコレートである。お洒落でおもしろい。ボルトは硬め、ナットは柔らかめということである。チョコのナットにチョコのボルトを閉めることができるようだ。

P6060211.jpg

P6090001.jpg

 JAL378便  北九州 21:15発 → 東京(羽田) 22:45着

 今朝、九州と山口県が梅雨入りしたことが発表された。傘を一度も使うことなく旅は終わった。

                                                                   〈終〉
スポンサーサイト

Comment

編集
お疲れ様です
まさかの北九州空港でのエンディングでした
北九州空港、仕事で度々訪れました
もうちょっと工夫すれば、と思う空港です
どちらかと言うと好きな空港ですが
宮崎、鹿児島、長崎のような観光空港の高揚感はありません
地味なショートストップ的な空港です

今回は宇部空港に始まり、北九州空港で終わったのですね
DEEPな北九州の風景が観れました
ありがとうございます
2017年07月05日(Wed) 21:31
No title
編集
Maxさん、お読みいただきありがとうございます。

>まさかの北九州空港でのエンディングでした

言われてみると、わかります(笑) 
最初から帰りの便を予約していたので私にとっては違和感のない北九州空港ですが、確かに唐突かな、と(笑)
北九州空港は初めてだったのですが、ビジネス客を対象にした空港ですよね。

最初に計画したのは山口だけだったのですが、下関に行くとどうしても北九州に行きたくなり、福岡に入りました。下関に行ったときの私のパターンです。
2017年07月06日(Thu) 14:16












非公開コメントにする
Trackback

Trackback URL

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。