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日本細見紀行 

日本各地の旅日記
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2日目 2017年6月1日 俵山温泉 仙崎 萩(宿泊)

バスで仙崎へ

 早朝俵山温泉街を歩いてみた。朝市でもやっていればそれなりに活気はあるのだろうが、そういうわけではないようだ。温泉街の目はまだ半開きである。午前中は晴、午後は雨の予報が出ていた俵山温泉の空はどんよりとした雲に覆われていた。

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 8:30、京家をチェックアウトした。バス停まで2分である。

 バスは遅れていた。遅れているバスについて2人のおばあさんが(バスの発車場所である)下関市内で遅れている、といった会話をしていた。15分間ほどバスの話を繰り返し続けていたようだが、バスが下関で遅れていること以外は何を話しているのかわからなかった。

 やって来たバスをおばあさんたちはいち早く発見した。家々の隙間にバスが見えたらしい。

 バスのドライバーは遅れてやって来たことを詫びていた。下関で渋滞に巻き込まれたらしい。整理券を取ってバスに乗った。あとから乗った人が「整理券が出てこない」と言った。私が取ったのは、俵本温泉バス停の番号とは大きく異なる番号の整理券だった。ドライバーは発券機を調整し、俵本温泉バス停で乗った人たちに正しい整理券を配った。そうこうしているうちにバスはまた遅れた。

 バスは昨日歩いた湯本温泉を経由した。そのあと長門市内に抜け山陰本線長門市駅を経由し、仙崎駅に着いた。

 サンデン交通バス 俵山温泉駅バス停 8:49発 → 仙崎駅バス停 9:31着 

 仙崎駅は山陰本線仙崎支線の駅である。1954年、大津郡仙崎町は俵山村、通村などと合併し、長門市が誕生した。

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金子みすゞのにわかファンになった

 仙崎駅から北に延びる「みすゞ通り」を歩いた。著名人の名前を付けた○○ロードは全国にいくつもあるが、数では全国に5つある高橋尚子ロード(それぞれ名称は異なる)がもっとも多いだろう。

 みすゞ通りはおそらく1つしかないが、ファンの多さでは日本一かもしれない。

 みすゞ通りは新しい通りではないが、それほど古い通りでもなかった。

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 下の1枚の建物がもっとも目立っていた。

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 民家の軒先には金子みすゞの詩札が掲げられていた。各家が、みすゞの詩のなかから好きな詩を選んで札にしたようである。詩札は通りをあたたかく愁いあるものにしていた。

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 こだまでしょうか
 
 東日本大震災の直後から、CMの差し替えとしてACジャパンによって流された言葉は多くの人が知るところとなった。そのあと「金子みすゞ全集」の売り上げが伸び、金子みすゞ童謡集『こだまでしょうか』として電子書籍化された。

 それまで私は金子みすゞを知らなかった。そしてACジャパンの放送がなくなったあと、すっかり忘れてしまった。

 それでも心のどこかに残っていたのだろう。山口に行くことを決めたあと、自宅から徒歩5分のところにある横浜市立旭図書館で『美しい町/金子みすゞ全集・Ⅰ』と『金子みすゞふたたび』(今野勉)の2冊を借りてきた。5月28日のことである。

 『美しい町』はみすゞ最初の詩集。

 評論『金子みすゞ ふたたび』の著者は、1995年のNHKスペシャル「No853 こころの王国 童謡詩人 金子みすゞの世界」の演出をした今井勉である。

 『金子みすゞ ふたたび』をリュックのなかに入れてきた。

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 金子みすゞは父といっしょに無縁墓に入っている。昔は殺されたり自殺したり普通でない死に方をした人は先祖代々の墓ではなく、別に墓を作ってそこに埋葬した。金子みすゞの家系ははっきりしている。しかしみすゞも父庄之助も無縁墓に入っている。作者の今井勉はそんなところをきっかけにして金子みすゞにアプローチしていった。

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 庄之助の生地である通村(かよい・むら)は仙崎の北にある青海島の先にある漁村である。

 通(かよい)は仙崎と並ぶ捕鯨の拠点だった。しかし明治の末、捕鯨業はすでに廃れていた。通の「捕鯨組」はやがて大日本帝国水産会社に組み込まれるが、それも6年で中止になった。その末端で働いていた庄之助は捕鯨業を離れ、渡海船(とかいぶね)業を始めた。

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 そのあと渡海船業を廃業することになった庄之助は、下関の書店上山文英堂から派遣され、1905年(明治38年)に清国(現・中国)営口に渡った。1905年は日露戦争が終った年であり、夏目漱石が『吾輩は猫である』を「ホトトギス」に連載し始めた年である。

 庄之助は営口で死んでしまった。庄之助の死は脳溢血であり、庄之助の実家の菩提寺である向岸寺の過去帳には「支那ニテ病死ス」と記載されている。庄之助の妻であり、みすゞの母ミチはそのことを知らされていた。しかし庄之助の出身地である通(かよい)でも仙崎でも、庄之助は営口(清国)で馬賊に殺されたと信じられていた。妻ミチは噂を否定しなかったものとみられる。おそらく庄之助を無縁墓に入れておくために。

 通(かよい)には変死あるいは頓死した者を無縁墓に入れる風習はない。

 一方、庄之助の死を告げる「満洲日報」には「・・仙崎村の産にて家族とてはなく・・」と掲載された。庄之助は営口の日本人に、家族はいないと告げていた節がある。

 金子みすゞはその父に思いを寄せていた。それは母への思いのなかに反証的に示されている。

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 こころ

 お母さまは
 大人で大きいけれど。
 お母さまのおこころはちひさい。

 だつてお母さまはいひました、
 ちひさい私でいっぱいだつて。

 私は子供で
 ちひさいけれど
 ちひさい私のこころは大きい。

 だって大きいお母さまで、
 まだいつぱいにならないで、
 いろんなことをおもふから。


 みすゞの心は大きい(広い)のでいろんなことを思っているらしい。いろんなことは、この詩では「父のこと」ということになるのだろう。

 1926年(大正15年)2月、金子みすゞは宮本啓喜と結婚した。

 啓喜は書店の仕事をしながらも、遊郭遊びが止まらなかった。離婚の話があったようだが、1926年11月に長女が誕生した。育児に時間を取られ、詩作を中断したが、弟正祐に励まされて詩作を再開している。

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 1927年みすゞは夫からうつされた淋病を患った。

 1930年(昭和5年)2月、みすゞ離婚。長女とともに上山文英堂(下関)に移ったが、夫の啓喜が長女を引き取りに来るという前夜、カルチモンを嚥んだ。翌日、みすゞが死んでいるのが発見された。享年26歳であった。

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 NHKの放送ライブラリーの「NHKスペシャル こころの王国 童謡詩人・金子みすゞの世界」には、「自分に想いを寄せた実弟(正祐)のために他の男(啓喜)と愛のない結婚をする。しかし詩作を禁じられ、病に悩み、ついに離婚。さらに最愛の子と引き裂かれ、ついに服毒した」と残っていた。

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 私は金子みすゞについてあまりに知らない。この辺で止めておく。


金子みすゞ記念館

 みすゞ通りの途中に金子みすゞ記念館があった。

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 床にリュックを置かせてもらっていいかと尋ねたら、下に敷くものを持ってきてくれ、レセプションの内側に置かせてくれた。

 2階には金子みすゞの部屋が再現されていた。

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 みすゞの実弟である正祐を紹介しているコーナーもあった。正祐は養子に出された。姉だとは知らずに、みすゞに恋をしてしまう。この弟の存在と夫である啓喜とは対象的である。

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 金子みすゞ記念館はすばらしかった。館を出る前、置かせてもらったリュックを受け取ったとき、そのことをスタッフに伝えた。

 記念館として、何よりわかりやすくまとめられていた。年表は簡潔で要領を得たものだった。

 もしみすゞが70歳まで生きていたなら、こうはいかなかったかもしれない。齢を重ねることは人生を複雑なものにしていく。みすゞの人生はそうなっていない。

 夭折の詩人はもう1人いる。中原中也は30歳で云った。

 賢治のアンチテーゼとしての啄木を盛岡市がしっかり復活させていた(盛岡市民にとって啄木はあくまで2番手である)。又吉直樹効果があるのかもしれないが、太宰は安定的な人気がある。青森の旅人は金木の太宰治記念館「斜陽館」や小泊の小説「津軽」の像記念館に行く。それに比べれば、中原中也はどうなっているのだろう。

 山口県を代表する詩人は中原中也だったはずだ。中也の生まれた山口県吉敷郡山口町大字下宇野令(しもうのりょう)村は、現在の山口市湯田温泉である(1998年5月3日宿泊した)。

 2人は同時代を生きた。

 金子みすゞ 1903年生―1930年没
 中原中也  1907年生―1937年没

 中也は今でもコアなファンを持っていると思うが、みすゞは国民的広がりを持つことになった。

 金子みすゞ記念館を出た。11:00まで、あと15分ある。少し遠回りしてみる。仙崎の遊郭があったとされる場所を歩いてみた(夫、啓喜が遊んだ場所ではない)。

 下の2枚が、遊郭があったとされる場所である。

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Iさんと合流した

 仙崎の西の海沿いを歩き、仙崎駅に着いた。駅舎の前でIさんが待っていた。

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 仙崎駅のなかは金子みすゞの、大きなモザイク画と訪問者からのメッセージで溢れて いた。

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 駅前にあった、しらす丼を売りにしている小さな食堂を避け、青海島観光汽船乗り場のほうに歩いた。3分ほどで海岸線に出た。仙崎は海に突き出た小さな半島で、東西両方に海がある。半島の幅は、その付け根部分でも1kmに満たない。だから東西のどちらかに歩けばすぐ海岸線に出る。

 数軒の食堂が山口県道282号沿いにあった。「㐂楽(きらく)」に入った。有名店であるとIさんが言った。私たちは卵黄の乗ったしらす丼を注文した。さっき見た駅前のしらす丼の店のことが私の頭のなかにあった。味はイマイチだった。仙崎港では仙崎イカや仙崎トロあじ(仙崎港に水揚げされたマアジのうち、脂肪量が10%以下のもの)が有名らしいというのを私はあとで知った。

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 Iさんは金子みすゞのドラマを観ていた。松たか子が出演したTBSドラマ『明るいほうへ、明るいほうへ-童謡詩人金子みすゞ』(プロデューサー:石井ふく子)である。とにかく暗いドラマだったそうである。その暗さは、タイトル『明るいほうへ、明るいほうへ』に表現されている。

 上戸彩が出演した2012年のTBSドラマ『金子みすゞ物語~みんなちがってみんないい~』(プロデューサー:石井ふく子)を観ていたら印象は違ったものになっていたかもしれないとIさんは言った。金子みすゞ記念館には入ったことがないらしい。「暗すぎて嫌だ」ということらしい。

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 仙崎にあってはやや奇抜でお洒落なピーナッツカフェに入った。

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 私たちの話はいつも大体ほとんどは旅の話である。それ以外にもあるはずなのだが、いつも大体ほとんどは旅の話になってしまう。次は南米だとかフィリピンに行くとかインドで日程を合わせるのはイメージできないとかそれは勝手にやってくれとか、真冬の北欧の日照時間が5時間の雪のなかを行くのは(頭が)おかしいとか、まあそういう話である。サマルカンドよりヒヴァのほうがいいとかゲストハウスのバハティールの食事がウズベキスタンで一番うまいというのは受け入れられなかった。

 仙崎駅からバスに乗った。

 サンデン交通バス 仙崎駅バス停 14:21発 → 長門市駅バス停 14:27着

 このあと仕事があるIさんはそのままバスに乗って湯本温泉まで行く。私は長門駅バス停で下車した。

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 Iさんを見送ったあと長門市駅舎のなかに入った。長門市駅には明日またやって来るのでさっさと移動することにした。

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 下の1枚は1998年5月4日の長門市駅。上の1枚とほとんど変わっていない。

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山陰本線の旅

 ローカルバスと山陰本線の普通列車の接続が7分というのはそうあることではない。点と点を合わせる作業になる。

 JR山陰本線  長門市 14:34発 → 東萩 15:13着

 学生時代、山陰本線の京都から下関まで列車に乗ったことがあった。当時から山陰本線は旅がしにくい長大ローカル線だったが、まだかろうじて幹線としてのプライドを持っていた。八高線を「関東の野武士」と表現した宮脇俊三は山陰本線を「偉大なるローカル線」と評した。

 乗車したことはないが、山陰本線の全盛期は特急「まつかぜ」が運転されていた時期だろう。京都から博多までを走る特急の存在価値がわからないが、大阪・青森間を走った昼間の日本海縦貫特急「白鳥」とともに記憶されるべき列車である。しかし山陽新幹線開業のあと、陰陽連絡路線(芸備線など山陰・山陽連絡の連絡線)が整備されていくにしたがって、新幹線+陰陽連絡路線が重要視されていった。それは山陰本線の「細切れ化」の推進でもあった。

 しかし現在の陰陽連絡線は高速バスに取って代わられており、時代はさらに進んだといっていい。

 この日乗車した区間の半分くらいで日本海が見えた。曇り空の下の日本海は穏やかだった。

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 1両編成の山陰本線の乗車率は美祢線よりも低かった。


萩ふたたび

 東萩駅下車。駅舎のなかの観光案内所で地図と萩循環「まぁーるバス」のパンフレットをもらった。

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 萩は2度目である。前回来たのは1998年5月4日である。人口5万人のわりに観光スポットは市内に散っていることを知っていた。

 東萩駅前から「まぁーるバス」に乗った。「まぁーるバス」は2系統(東回りコース=松陰先生/西回りコース=晋作くん)ある。東萩駅を通過するのは東回りコース(松陰先生)しかない。「まぁーるバス」は一方通行しかなく、観光客には評判が悪いとIさんが言っていた。

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 東萩駅を出た「まぁーるバス」は観光コースとは何の関係もないところを通過した。松陰神社前バス停で下車した。

 まぁーるバス(松陰先生)  東萩駅前バス停 15:26発 → 松陰神社前バス停 15:39着


松下村塾変化なし

 松下村塾があった。

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 下の2枚は1998年5月4日の松下村塾。座敷の間に展示されてある写真も、その位置もまったく変わっていないようだ。

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 松陰神社にお詣りをした。

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 吉田松陰幽囚ノ旧宅。

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 少し離れたところにある伊藤博文旧宅・別邸にも行ってみた。

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 松陰神社前バス停にもどったとき、ちょうどよいタイミングで入って来た「まぁーるバス」(松陰先生)に乗った。

 バスは市の南東側の観光地ではないところを走っていたが、丘陵地帯の上のほうから市街を一望できる場所を通過した。松陰の丘・陶芸の村公園バス停である。1つ手前の松陰誕生地前と合わせて観光地から大きくはずれているわけではないようだ。

 まぁーるバス(松陰先生)  松陰神社前バス停 16:12着 → 萩市役所バス停 16:26着

 バスは松陰大橋を渡り国道191号に入った。萩市内である。萩市役所バス停で下車した。


すばらしかった萩・明倫学舎

 国道191号の北側に萩・明倫学舎があった。

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 鉄砲、砲弾、陣笠など幕末から明治にかけての武器や軍関係の展示があった。適当に見ていたが、西洋医学の展示、萩の近代遺産のところはまあまあおもしろかった。

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 1階に松下村塾が再現されていた。吉田松陰も高杉晋作も伊藤博文もアニメ化されており、幕末の日本の立ち位置、近代化の必要性がわかりやすい言葉で表現されていた。

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 岩倉具視の『欧米回覧実記』を読んだことがある。岩波文庫4冊分の大書である。

 維新後4年を待たずして、明治新政府は欧米に留学生を派遣した。岩倉を団長とする総勢50名ほど(うろ覚えである)の使節団で、大久保利通、木戸孝允が含まれていた。『実記』でもっとも多くのページが割かれているのは米国である。英国では進取の気性、独逸では科学技術、仏蘭西では文化の尊重などについて書かれていた。使節団は見るべきものをしっかり見て帰国した。しかしその結びには、日本がモデルとするのは国の発展度合いが似ている独逸と伊太利であると書かれている。多くのページを割いた米国ではなかった。

 日独伊三国同盟は、維新直後の『欧米回覧実記』に予言されていた。この退屈な書物はもっと評価されてよい。

 この使節団に村田新八がいた。後年新政府に貢献する人材が集まっていたなかで一人村田新八だけは下野し、西郷隆盛の元に身を寄せた。勝海舟をして、大久保のあとを継ぐべき逸材と称された村田は、西南戦争時の西郷軍四番大隊指揮長桐野利秋(人斬り半次郎)とは水と油の人材である。欧米の技術や文化に触れながら、明治新政府と袂を分かった聡明な砲術家の生きざまは維新の物語の1つである。

 維新後の日本の論点は「欧米による植民地化の阻止」に集約されていた。それを退けることに成功した日露戦争(と不平等条約の改正)まで、それは日本を憂う人たちの共通のテーマであった。

 ポーツマス条約への不満を爆発させた日比谷焼き討ち事件ではなく、日本人は今一度『欧米回覧実記』を読み返しておくべきだった。しかし日ロ戦争の勝利は、維新を一気に過去のものにした。

 萩・明倫館はすばらしかった。そこは後年、乾坤一擲の勝負に打って出る国の、まだかたちにならない原初的な胎動と息吹きを感じる場所だった。

 しかし明治のすべてを予言する場所ではなかったことも書いておきたい。その先に続くものは萩・明倫館にはなかった。

 日露戦争の終わった1905年は、米国のフロンテイアが消滅した年である。つまり米国内に資本の蓄積ができ、太平洋とアジアへの関心が増し、植民地を求めることを始めた年である。そうでなければ内向きだった大国が、ポーツマスという場所を提供し日ロの仲介などしない。米国は予言をしていた、太平洋を西進することを。ペリーやハリスの時代とは異なる形態を取って。

 その年はまた金之助が『吾輩は猫である』を書いた年である。英国留学から帰国したあと務めた東京大学英文科を辞め、作家として立つことを決意した。つまり漱石が誕生した年である。

 明治はこのあともしばらく続く。そのなかで明治は多くの日本を用意した。

 熊本を汽車で発った三四郎は車内で男と話をした。『三四郎』が書かれたのは1908年(明治41年)、明治が終る4年前である。

 「日本より頭の中の方が広いでしょう」と云った。「囚われちゃ駄目だ。いくら日本の為を思ったって贔屓の引倒しになるばかりだ」
 この言葉を聞いた時、三四郎は真実に熊本を出た様な心持がした。


 立ったのは国家だけではなかった。立国は同時に個人として立つことをも用意していた。漱石こそはその体現者であった。

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 萩・明倫館は凛冽たる明治が始まろうとした場所だった。

 17:00に明倫館が閉まることを知らなかった、というよりそのときの時刻を知らなかった。いくつかの部屋を見ることができなかった。陽が暮れていないことが時刻を錯覚させる。


萩・城下町を歩いた

 青木周弼(しゅうすけ)旧宅、木戸孝允旧宅、菊屋家住宅、高杉晋作誕生地付近を歩いた。全域ではないが、萩はわりと碁盤の目に区分されており、町筋は往時の面影をとどめているといわれている。白壁、なまこ壁の町並みは美しい。

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 下の2枚は1998年5月4日の同じ場所。

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 玉木病院前バス停まで移動した。

 まぁーるバス(晋作くん)  玉木病院前バス停 17:33発 → 萩グランドホテル天空前バス停 17:39着

 萩グランドホテル天空から北に歩くと小さな川があった。川沿いの風景は萩らしかった。

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 川沿いの道を少し行ったところにあった旅館芳和荘にチェックインした。1泊(素泊まり)4,500円。芳和荘は遊郭だったところである。写真は明日の旅日記に貼ることにする。
 
 芳和荘を出た。南に歩いて吉田町通りに入った。

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萩の商店街

 萩おみやげ博物館のところからジョイフルたまち(田町商店街アーケード)に入った。

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 アーケード内には「萩の方言」がいくつも掲示されていた。

 はんどかるい → 高い所が苦手
 ぐでる    → 泥酔してからむ

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 アーケード内はシャッターが下りているところが多かった。

 アーケード脇にあったそば処「田波」に入った。店のご夫婦は訳あって浅草の店を閉じ萩に出店したらしい。横浜市の中山、長津田などに行くことがあるそうである。中山は私もときどき行く場所である。海老天を1本おまけしてくれた。

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Comment

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出張帰りの新幹線で書いてます

岩倉使節団の欧米回覧実記はNHKで見た事があります
その後、目黒駅前の久米美術館でやっていた使節団の展示会を見ました
あの細かい記録は、さすが佐賀の方だなぁ、と思います
2017年06月24日(Sat) 09:17
No title
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Maxさん。

NHKの番組も久米美術館の展示会も知らなかったです。
著者は佐賀藩出身だったのですね。
 
おっしゃるように内容は細かいですね~(笑)。随行員はみんな新政府の専門家で、彼らのメモなどと照らし合わせて書かれているようです。見たもの聞いたものを全部逐一持って帰る必要があったからなのでしょう。日本に帰って一から再現するために。

結果として外務省の基礎データになったのではないかと(笑)。別の意味では当時の旅行ガイドブックです。
2017年06月24日(Sat) 23:49












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