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日本細見紀行 

日本各地の旅日記
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2日目 2017年2月5日 盛岡

朝の6時間のつぶし方

 横浜21:10発 → 盛岡6:00着

 青森行きのバスはバスタ新宿に寄ったあと、暗闇を走っていた。2時間ごとに東北自動車道のパーキングエリアで休憩した。休憩のたびに車内はざわつきあまり眠ることができなかった。

 バスは盛岡駅に定刻に着いた。盛岡駅ビルの2階から駅の東側を見渡した。

 寒く暗い駅前に出て周辺を歩いた。開いている店は1軒しかなかった。仕方ない。まさかの、松屋での朝ご飯。

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 盛岡駅にもどったが、まだどの店も開いていなかった。Wifiのつながる待合室でしばらく過ごした。この旅の大体の行き先を考えてあったが、細かいところを詰めていなかった。しかし細かいところをある程度は準備しておかないとローカル線の旅では立ち往生してしまう。

 まずはみどりの窓口で明日の切符を買った。次に明後日の宿泊先を電話で予約した。目当ての宿泊先は、楽天トラベルで2月20日まで満室だった旅館である。奇跡的に1室だけ空いていた。

 やることをやったら暇になってしまった。

 8:10、VIE DE FRANCE CAFEに入った。コンセントがあった。持ってきたポケットWifiでネットに接続できた。昨年12月から1月に周ったヨーロッパの旅日記をひたすら書き続けたが、それにも飽きた。


岩手の偉人たち

 駅構内にいたとき、ポスターの一部を写真に撮った。石川啄木、宮沢賢治、新渡戸稲造、原敬、金田一京介、他にもあった。すごいじゃないか、岩手県。

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 岩手は民主王国と呼ばれているらしいのだが、一方で小沢一郎のイメージが強い。民主党から生活の党までの時代の小沢一郎は確かに民主系列であるが、本人にリベラルのイメージはない。小沢一郎には自民党のイメージがまとわりついており、自民党をより純化した自由党がピタリと合う。だから2016年10月に原点回帰した。

 原敬はリベラルである。『武士道』を出版した新渡戸稲造は札幌農学校(クラーク博士の米国帰国後)にいたこと、国際連盟事務次長に就いたことを考えればやはりリベラルだろう。

 岩手県出身者には他に米内光正、鈴木善行、後藤新平、高橋克彦、常盤新平、大瀧詠一等がいる。東條英機は東京出身だとされているが、岩手県人は岩手出身だといって譲らないという記事がネット上にあった。父親が岩手県人であったというのが事実である。

 A級戦犯で第40代内閣総理大臣のポスターが盛岡駅に貼られることはない。米内光正は極東国際軍事裁判に証人として2度出廷し「戦争は成算のなきものと感じ」「天皇は開戦に個人的には強く反対していた」といったような証言をしている。太平洋戦争に深くかかわった人物を2人輩出している点については、岩手県のリベラル・イメージからは遠いものである。

 岩手は人材の宝庫である。VIE DE FRANCE CAFEでの暇な時間、野球の打順を考えてみようと思い付いたくらいである。全打席で三振してベンチにもどってきそうな大瀧詠一を1番に起用するわけにはいかないだろう。2番米内光正、3番新渡戸稲造、4番原敬あたりになるのだろうが、それよりおもしろそうなのは左、右のジグザグ打線である。ジグザグの左打者のところには左=リベラル系を入れる。

 2杯目のコーヒーを注文した。カウンターから座席が見えないのをよいことに11:50頃まで居座った。3時間40分は、今までの人生のなかでもっとも長居したカフェになった。

 12:00に盛岡駅構内の旅行案内所でこの旅の、いくつかの町の地図をもらった。秋田県の町の地図ももらった。


盛岡を歩いてみた

 10:00前くらいに、あまりに暇だから早く来てくれとメッセージを入れておいたが、Hさんがやって来たのは予定の時刻だった。

 昼ご飯に「あんバター」というパンを食べた。盛岡の名物なのだそうである。駅構内にあった店の奥のテーブルで食べながら、盛岡のどの辺りに行くかを相談した。

 岩手県の太平洋沿岸部には何度か行ったことがあるが、まともに盛岡を歩いたのは1999年11月以来である。それ以降は、宮古からの帰り道に2度、盛岡駅前に立ったぐらいである。

 下の2枚は1999年11月28日の盛岡市内。

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 下の1枚は2011年6月30日の盛岡。東日本大震災直後に盛岡前を歩いた。

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 下の1枚は2015年9月10日の盛岡。東日本大震災の4年半後に盛岡駅前に立った。

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 盛岡駅前から運行されている循環バス「でんでんむし」に乗った。盛岡駅を起終点とした1周5.7kmの路線で、35分で駅にもどって来る。1路線100円(フリー乗車券300円)で15分間隔で運行されている。使い勝手はいい。

 乗ってみて驚いた。ぼろい。よく言って、年季が入ったバスである。ぼろいので100円なのだろうと思ってしまう。どの都市も、観光用のバスには費用をかけた新型のレトロバスを投入するはずであるが、盛岡はそうではなかった。しかし悪くはない。なかなか乗ることのできない古いバスに乗れた。

 なぜ「かたつむり」ではなく「でんでんむし」と名付けたのかわからない。「かたつむり」ではスピードが遅いイメージがするからなのだろうか。

 右回りの「でんでんむし」をバスセンター神明町バス停で下車した。国道106号に出て南東に歩いた。途中国道と並行している南側の通りを盛岡八幡宮のほうに歩いた。


幡街(ばんがい)と呼ばれた地域

 曲線のある美容室。

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 「表参道」のロゴに注目したい。

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 「春まで高級店」夏にはどうなっているのか誰かレポートしてほしい。

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 目当ての建物が見えてきた。新八幡街は思ったほどのデイープ感はなかった。

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 遠目には「人人」に見えたが、どうやら「JuJu」のよう。

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 やる気茶屋の「激辛ゴジララーメン」は古くからあったラーメンだろう。「激辛」の「激」の文字を削除してみた。「辛ゴジララーメン」=「シン・ゴジララーメン」は流行りである。

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 盛岡劇場は新しい。

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 周辺は飲み屋街であるだけではない、遊郭のあった場所でもある。『日本遊里史』(1929年発行)の巻末付録「日本全国遊郭一覧」では、貸座敷数が12、娼妓数59人と記載されている。

 見つけた!遊郭跡、と現場では思ったが、あとで写真を見ると料亭のようだ。

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 八幡宮、稲荷神社、銭湯、旅館の近くには遊郭があった可能性が高い。

 盛岡八幡宮にお参りをした。Hさんも私も2017年の初詣となった。

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 盛岡八幡宮に突き当たっている一直線の通り沿いは古い商店街になっている。電柱はなくすっきりした通りに店は密集していなかった。駅のほうに向けて歩いた。

 米内光正居住地跡があった。

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 カフェ建築っぽい。

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 街の中心に近づくにつれ店が増え始めた。バスセンターに向かう通りとの交差点を渡ったところから電柱が出現した。

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 中三(なかさん)は青森県を中心に展開している百貨店である。2011年3月、中三盛岡店でガス爆発が発生し死者1人を出した。その16日後に株式会社中三が民事再生法の適用を青森地裁に申請した。民事再生法の申請はガス爆発とは直接関係はないようだ。申請は受理され、再生の過程でNanak(ななっく)が2012年に開業した。

 Nanakに入ってみた。1階のスーパーマーケットに岩手の特産物はあったのだが、それほど多くはなかった。目立ったのは日本各地の特産物だった。上の階に上がるほど店の密度が薄くなるのはどの大型店も同じであるが、Nanakには活性化のプランがあった。2月10日から東急ハンズが4階にオープンするらしい。Hさんは来るだろう。

 デパートの横にある肴町商店街は短いアーケードになっていた。

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賢治vs啄木

 もりおか啄木・賢治青春館に入った。Hさんは花巻の宮沢賢治記念館に行ったことがあり、私は好摩の南にある石川啄木記念館に行ったことがあった。

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 もりおか啄木・賢治青春館は2人を比較した文学館だった。ところどころでややこじつけの比較があったし、原作から無理に引っ張ってきた材料を元に比較を試みるなど学問的なところから離れた設定もあったが、全体としてはおもしろかった。新しく発見した資料などはほとんどないにもかかわらず、企画のみで勝負した文学館であり、それは成功していた。

 農業指導者、童話作家、詩人、教師など多くの顔を持った賢治は堅実でまじめで信仰心の厚い人だった。

 一方、啄木は、カンニングをして退学することになった、結婚式をボイコットした(←この一事は全女性を敵に回す行為である)、借金大王である(わざわざ現在の物価に換算した金額も表示されていた。お金を貸したうえに啄木への悪口を言わなかった金田一京介の株を上げることになった)などが挙げられており、破滅型で社会性が欠如した性格だった。

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 Hさんと私はほとんどすべての掲示物に書かれたことに突っ込みを入れながら、つまり賢治はどうだとか啄木はどうだとかを延々話しながらわりあいうるさく見て回った。

 人気投票の結果があった。地元では賢治の圧勝である。岩手県は啄木を積極的に肯定するわけにはいかないのだ。


啄木と私

 私は啄木に一票を入れた。啄木が詠んだ歌は日本のフォークロアをかたちにしたと思っている。日本のフォークソングはボブデュランの影響を受けたけれど、その原点は啄木あたりにある。

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 啄木が好きだった。村上龍が『限りなく透明に近いブルー』で芥川賞を受賞した年、文芸賞を受賞したのが『北帰行』の外岡秀俊である。そのとき芥川賞の審査は荒れに荒れた。芥川賞の審査員だった江藤淳が村上龍の芥川賞受賞を不服とし、審査員を下りてしまった。江藤淳は外岡秀俊の『北帰行』を高く評価していた。

 『北帰行』は啄木の人生を自分のことと捉えた青年が、歌を詠み始め啄木の跡を北海道まで辿る小説である。主人公は夕張の出身の、めぐまれない(おそらく)中卒の青年だった。

 後年、『羊をめぐる冒険』(村上春樹)の、僕が羊を探しに飛行機で札幌に飛んだところを読んだとき、『北帰行』の私が青函連絡船で函館に着いたシーンを思い出した。ストーリーの肝心のところを忘れてしまっているが、『北帰行』の最後のほうで、友人からの手紙が主人公に届けられた。そこには主人公の生き方にたいする友人からの考えが延々と書かれていた(ように思う)。『羊をめぐる冒険』でも鼠からの手紙を読むシーンがあった。だから似ている気がしてならない。

 北海道によく行っているが、そのうちの何回かは『羊をめぐる冒険』を持っていった。最初の北海道の旅は青函連絡船だった。急行いわては上野発の、常磐線経由の盛岡行きだった。急行いわてを盛岡で下車した。青森行きの列車に乗り、深夜の青函連絡船に乗り継いだ私のリュックには『北帰行』が入っていた。その頃の北海道周遊券は21日間有効だった。

 下の1枚は1978年9月の立待岬である。そこには啄木一族の墓がある。

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 外岡秀俊は職業作家にはならず、朝日新聞の記者になった。『北帰行』は長い間自宅の本棚にあったが、10年ほど前にブックオフにいってしまった。

 もりおか啄木・賢治青春館は第九十銀行本店を利用した文学館だった。昔の銀行の内部を垣間見ることができた。金庫のなかに入ることができた。

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盛岡てがみ館

 もりおか啄木・賢治青春館の近くに盛岡てがみ館があった。郵便局の運営する博物館というわけではなかった。展示物は文学者たちの書簡(てがみ)、日記、原稿などであった。与謝野鉄幹、賢治、啄木、啄木の妻の手紙もあった。金田一京助の長い手紙の文面は小学生の文章のようなところもあった。

 後藤新平や米内光正の手紙もあった。太平洋戦争をどう集結させるかをほのめかした米内光正の手紙でも見つかれば、一級の資料になるのだろうが、戦時中にそんな大事なことを手紙に認めるはずがない。

 Hさんは興味を持ってそれぞれの手紙を読んでいたが、私はちょっとがっかりした。普通の人たちが書いた感動的な手紙が展示されているのだろうと思ったが、そうではなかった。後半はちょっと疲れていた。


久しぶりに見た盛岡銀行本店

 中津川の中ノ橋にある重要建築物は盛岡銀行本店である。東京駅と似ているのは辰野金吾が設計したからである。関東大震災を生き残った東京駅は、当時の日本の建築技術が世界の一流の水準にあったことの証明である。盛岡銀行本店は3年の工期をかけて1911年に竣工した。

 ヨーロッパの建築物と比較してみると、外観の凹凸は過剰である気がする。これを日本の洋風建築というのはいい。建築技術が一流であるかもしれない。しかしそういうことと文化的洗練度とはまた別である。様式の確立に到達したものを文化という。盛岡銀行本店を指してそこまで語るわけにはいかないだろう。

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 下の1枚は1999年11月28日の盛岡銀行本店。

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親切な盛岡人

 暗くなりかけた盛岡を歩き映画館通りをめざした。

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 桜山神社の東側の奥のほうはおもしろそうな雰囲気があったが、すでに陽は落ちていた。

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 映画館通りの近くまで来ていたにもかかわらず映画館を見つけられずにいたHさんと私は、映画館はどこにあるのだろうなどと話しながら歩いていた。

 そのとき、タカアンドトシのトシと似ているあんちゃんが会話に割り込んできた。映画館に行きたいんですか?といった感じで。

 トシはほんの少し馴れ馴れしかった。この人のいうことを信じてよいのかという雰囲気を漂わせていた。しかしまだ18:00くらいである。まさかこんな早い時間に歩いている2人組を相手に変な誘導をしてこないだろうと思う反面、ちょっとあぶない雰囲気も醸し出していたのである。Hさんと私がトシに道を尋ねたわけではなかったのに。

 こっちです、とトシは私たちを誘導しながら、どこから来たのかとか、寒いでしょうなどと話しかけてきた。やはりあぶないかもしれないと思ったが、せっかくの親切を無碍にするわけにはいかない。歩きながら微妙な会話を少し続けた。私たちのほうに話を切り上げたいという空気がありトシがそれを感じたのかもしれないが、映画館の近くまで案内してくれたあとトシは離れていった。いい人だったのだ。トシが離れていったあと、Hさんと私はトシのことで盛り上がった。

 その少し前、もりおか啄木・賢治青春館を探していたときにも同じようなことがあった。Hさんと私は、もりおか啄木・賢治青春館はどこなのだろう、と話しながら歩いていた。そのとき、その会話を耳にはさんだらしいおじさんが、あっちと指をさしてくれたのである。おじさんはそのまま去っていった。おじさんが離れていったあと、Hさんと私はおじさんのことで盛り上がった。

 正午過ぎには盛岡駅構内では「あんバター」の店を探していた。このときはHさんが店の場所を尋ねた。女性はそこまでつれていってくれた。

 盛岡人はあまりに親切である。1番目のトシと2番目のおじさんのような経験をしたことはHさんにも私にもなかった。

 狭いエリアに数軒の映画館があった。フォーラム、盛岡ピカデリー、盛岡東宝などである。それぞれの映画館に特徴はなかった。つまりある映画館は洋画が中心で、別の映画館はドキュメンタリー映画を主力にしていて、もう1つは子供向けだということではなかった。

 全ての映画館が、洋画、邦画、子供向け、マイナーな映画をごちゃまぜに取り揃えていたのである。カテゴリーキラーの映画館はなく、全部が総合デパートのような映画館だった。みんないらっしゃいとどの映画館も主張していた。

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薄利多賣半兵ヱ

 さて夜ご飯である。盛岡に来たのだから、わんこそばや冷麺となるのだろうが、わんこそばはせわしない。わざわざ冷麺ではないだろう。

 居酒屋に入ることにした。薄利多賣半兵ヱ(はくりたばいはんべえ)に入った。行きたい店の第1候補が閉まっていたHさんの第2候補の店である。あまりに昭和的な昭和風の店だった。あとで調べると全国に60店ほど展開するチェーン店だった。

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 Hさんと私は旅の話をし食べ物の話をしなんとなく雑談をした。

 あまりに多くのものを注文した。料理の単価があまりに安かったからである。例えば大根(おでん)60円、とり串炊き60円、タコウインナー260円、ハムカツ昔260円。

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 注文しなかったカレーせんべいは20円、そしてカエルは260円だった。


岩手県人の話し言葉

 Hさんは岩手で働いているが、岩手県人ではない。岩手と盛岡の話になった。物足りない、名物がない、代表的な食べ物もないという話になった。どちらかというと悪口である。

 岩手県人は「喋る」の使い方が変だと言う。例えば仕事場で、部下が上司に「それを○○さんに喋っといてください」などと言っているらしい。「しておいて頂戴」も変だと言う。「それをしておいて頂戴」などというらしい。「頂戴」は敬語であるが、部下が上司に使うのは変である。ところが岩手県人同士では違和感なく使っているらしいのだ。

 岩手県人は方言を放棄した人たちである。方言はあるらしいのだが、東北の他県人と比べると濃度は薄い。

 私の推測を書いておく。岩手県人は方言を捨て去ることに熱心だった。積極的に東京言葉を取り入れた。進取の気性があったということかもしれない。ここは盛岡一高のある盛岡なのだ。

 多くの東京言葉を取り入れていくなかで、「喋る」も「しておいて頂戴」もハイカラだったのかもしれない。だから違和感なく積極的に使用した。しかし言葉の輸入を急ぐ過程で、その使い方を吟味しなかった。本来大切にしなければならない語感やニュアンスの細部において十分な注意が払われなかった。その結果、一部の言葉が、使い方の細部を検証しないまま定着してしまった。(流行語のように)自然消滅してしまう場合もあるが、一度定着した言葉を意図的に放棄することは難しいだろう。それが「喋る」であり「しておいて頂戴」である。

 「喋る」「しておいて頂戴」と話した岩手県人はおそらく標準語を話していると思っている。それを聞いたHさんは言葉として方言でないことを知っているが、標準語としての語感のズレと使い方のまちがいがあることを感じている。そういった言葉に違和感を持ちながら、Hさんはその言葉の使い方を真似ているそうである。
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