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日本細見紀行 

日本各地の旅日記
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鬱陶しい雨の札幌から東京へ。

8日目(最終日) 2016年9月9日 札幌 新千歳空港 羽田空港

 外は雨である。鬱陶しい。レセプションに朝食券を取りに行くのを止め、カプセル・イン札幌を8:30頃にチェックアウトした。

 札幌市内から新千歳空港に鉄道以外で行ったことがなかったが、カプセル・イン札幌の近くに新千歳空港行きバスのすすきの(南4西3)停留所を見つけていた。バスで空港に行ってみることにした。8:00台には4本の空港行きのバスがあった。停留所でしばらく待つとバスがやって来た。

 すすきの(南4西3)8:48発 → 新千歳空港9:58着

 空港のカフェでコーヒーを飲みながら旅日記を書いた。

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 JAL506便は満席だった。

 札幌(新千歳)11:00発 → 東京(羽田) 12:35着

 秋の気配が漂いつつある雨の札幌から夏の晴れた東京に着いた。

 ー終ー

*写真はスマートフォンで撮影したものです。
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札幌の2つの市場を歩く

7日目 2016年9月8日  札幌(二条市場 札幌中央卸売市場と場外市場 他)

カプセル・イン札幌の朝ご飯(ミスタードーナツ)

 カプセル・イン札幌の朝ご飯は、マクドナルド、ミスタードーナツ、吉野家のなかから好きなところを選んで食べることができる。希望の朝食券を前日の夜に伝えておく必要がある。

 昨日の朝はマクドナルドで食べた。今日はミスタードーナツで食べることにした。なぜかミスタードーナツの朝食券だけは9:30~10:00に(レセプションに)取りにいかなければならない。面倒くさいと思ったが、時間の制約がなくてもその時間に受け取りに行くことになった。

 ミスタードーナツで12:00頃まで旅日記を書いていた。

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石狩か江別、あるいは銭函か

 石狩に行こうか江別に行こうか迷っていた。石狩には海と海水浴場があり、江別の野幌駅にはかって夕張鉄道が乗り入れていた。夕張鉄道は夕張炭鉱の坑内充填用火山灰の輸送と札幌(・小樽)への最短経路を目的として敷設された鉄道である。石狩に行くのは自然消滅していたが、残った野幌駅の夕張鉄道跡もおもしろそうではなかった。2日前、岩見沢から乗った電車が知らないうちに野幌駅を通過したので確認できなかったが、野幌駅は高架化されていることがわかった。夕張鉄道の廃線跡は残っている雰囲気ではないようだ。

 石狩も江別もおもしろい場所ではなさそうである。地図を眺めていたとき、銭函に行き当たった。函館本線の、札幌駅と小樽駅の中間地点にある駅である。銭函駅を通過したことは何度かあった。札幌を出た小樽行きの電車は銭函駅から海岸線を走る。風景はぐっとよくなる。よい場所を見つけたと昨夜思った。


創成川公園

 ミスタードーナツを出たあと、すすきのを東西に走る国道36号を西に歩いた。南北に流れている創成川に出た。川の両側は公園になっていた。公園の両側には創成川通が南北に走っている。大通公園が目立つ札幌であるが、この創成川公園も注目されていい。

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二条市場

 創成川通を北に歩いていくと二条市場が見えてきた。

 明治初期に誕生した市場である。石狩浜の漁師が創成川付近で魚の販売を始めたのが最初だといわれている。13軒の店によって発足した「十三組合」が二条市場の始まりらしい。1902年の火災で焼け野原になったが、有志により再建され札幌の顔となっていった。

 カニやウニなどの魚介類が中心の市場である。土産用の菓子などを売っている店もあるが、海産物の土産物を調達したい場合、ここに来るといい。全体的にひなびているが、思った以上に広がりはある。食堂もいくつかあった。昼ご飯をここで食べるかどうかを迷ったが、止めた。

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 さっぽろテレビ塔から大通駅まで歩き札幌市営地下鉄東西線に乗った。

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札幌中央卸売市場と場外市場

 下車したのは二十四軒駅である。駅を出たところにプレイランドハッピー二十四軒店という大きなパチンコ店があったが、商業施設も商店街もなかった。

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 東北方面に10分ほど歩くと「海鮮市場北のグルメ」という大きな店が見えてきた。中国語で書かれた観光バスが止まっていた。

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 札幌中央卸売市場の場外市場があった。通りの両側に海産物を扱う店が並んでいる。土産物店が多いのだが、海鮮食堂もいくつかあった。規模は大きくはない。見渡せる範囲内に店が収まっている。

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 せっかく来たのだ、札幌中央卸売市場を見ておきたい。場外市場の北の端のほうに巨大な建物が見えた。

 巨大な建物の外周の道路を歩いていくと、札幌中央卸売市場の入り口があった。見学を希望する人は、別のところにある管理室で受け付けをするようにと書かれた貼り紙があった。

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 管理室を探してさらに札幌中央卸売市場の外周の道路を歩いた。途中、市場のなかを覗ける場所があり、勝手に入ることができそうだったが、管理室を探すことにした。

 管理室を見つけた。

 見学できますか?
 場外市場にいらっしゃったのではないんですか?
 そうなんですけれど、中央市場のほうも見たいと思って
 市場のせりは終わっています。片付けをしているところですけど、それでいいのなら
 それでいいです
 なかの食堂も閉まっているのですが
 大丈夫です

 見学者用の名札、お土産用のファイル、パンフレットなどをもらった。

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 札幌中央卸売市場の建物内の廊下には見学者を誘導するための色分けされたラインがあった。そのラインを辿り引き返してくれば広い建物内で迷うことはない。ところどころには外国語で案内があった。東京では見かけないロシア語の案内もあった。見学スペースには市場の解説があった。見学者用の部屋には市場についての展示があり、くつろげるスペースがあり、札幌市内の魚関係の店の案内パンフレットがずらっと並べられていた。

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 以前、横浜市中央卸売市場に入ろうとしたことがあった。市場のなかにある食堂にだけ入ることができると守衛は言った。食堂に入るふりをして他のところに行こうとしたら後ろから大声が飛んできた。出てください。

 横浜市中央卸売市場の対応とは雲泥の差である。

 市場の建物内の、働く人を対象にした2軒の食堂と1軒の散髪屋は営業を終えていた。やって来た時間が遅すぎた。市場のせりは終わっていた。なかの様子を見ただけであるが、見学者への対応を知ることができたのはよかった。

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 場外市場にもどり、「ヤン衆料理北の漁場」でオホーツク丼を食べた。本マグロ、イカ、サーモンの入った丼である。特にうまいという感じではなかった。普通である。場外市場のどの店で食べても同じような味だと思われる。料金もほとんど同じである。

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桑園駅

 JR函館本線の桑園駅まで歩くことにした。

 歩きながら迷っていた。午前中から雨が降る天気予報が出ていた。傘を持ってきている。ここまで空は持ちこたえていたが、すぐ雨になることは間違いない。

 桑園駅に着いたときにぱらぱらと落ちてきた。15:37発の電車に乗れば16:05に銭函に着くことがわかったが、銭函行きを止めた。

 桑園駅前の風景は暗く陰鬱だった。銭函行きはまた今度にしよう。

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札幌駅、丸善、スターバックスコーヒー、カプセル・イン札幌

 反対側の江別行きに乗り、札幌駅で下車した。乗車したのは1駅間である。

 桑園15:36発 → 札幌15:39着

 札幌駅前は濡れ始めていた。傘を差してすすきのまで歩くことにした。

 新しい書店が出店の準備をしているのかと思ったが、そうではなかった。丸善札幌北一条店は4日前に閉店になったようだ。

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 途中にあったスターバックスコーヒーで1時間半ほど旅日記を書いた。

 17:30頃、カプセル・イン札幌の前にもどって来た。どこかの店で夜ご飯にしようと思ったが、弁当を買ってカプセル内で食べることにした。

*写真はスマートフォンで撮影したものです。

札幌を歩く

6日目 2016年9月7日  札幌(狸小路商店街 赤レンガテラス 札幌ラーメン共和国 そらのガーデン さっぽろ羊ヶ丘展望台 札幌ドーム 他)

カプセル・イン札幌の朝ご飯(マクドナルド)

 カプセル・イン札幌には少し変わった朝ご飯のサービスがあった。マクドナルド、ミスタードーナツ、吉野家のなかから好きなところを選んで朝ご飯を食べることができるというものである。地元の食堂ではなく全国チェーンの店を選べるというのは珍しい。希望の朝食券を前日の夜には伝えておく必要がある。

 朝食券を受け取りマクドナルドに入った。メニューは限られていたが、もっと食べたい人は追加料金を払えばいいらしい。

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 12:00頃まで旅日記を書いていた。

 久しぶりに札幌を歩くことにした。札幌駅前通を北に向かって歩く。つまりすすきのから札幌駅のほうに歩いていく。ところどころで左右の通りに入ることになるだろう。


狸小路商店街

 狸小路商店街に入ってみた。900mに200軒の商店があるらしい。長い歴史(130年以上)を持ちながらそれほど古くなっていないということは街を歩くにはつまらないという解釈もできるが、事業としては成功しているということである。リニューアルに継ぐリニューアルを重ね今を生きている。だから古くない。規模も客層も異なる(独立)店舗の統率は企業内統治より難しい。しかしそういった状況を克服し結果を出してきたということは評価されていい。

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札幌市電

 LRT型の車両が導入された札幌市電であるが、古いタイプもまだ走っていた。

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さっぽろテレビ塔

 大通公園の東の端にさっぽろテレビ塔がある。高さ147.2mは低くはないが、やや中途半端である。展望台のある高さ90mはさらに中途半端である。公園の奥にあるので見通しがよいということは、テレビ塔からの眺めもよいということである。もっともそれがうつくしい風景を保証するものではない。

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 下の写真は1978年9月のさっぽろテレビ塔からの眺め。

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北洋銀行

 北洋銀行があった。北海道の主な町のどこにでも支店はあるが、大通公園の北にあるのは本店である。稚内支店ではルーブル(ロシア通貨)がある程度まで用意されていて、前もって電話をして必要(ルーブル)金額を伝えておく必要がなかった。同じように大通公園に本店がある北海道銀行はまったく融通が効かなかった。

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札幌時計台

 日本最古の時計台でみんな写真を撮っていた。国内のがっかり名所に選ばれることはあるが、私は陳腐な場所だとは思っていない。はりまや橋(高知)よりはましである。元々は旧札幌農学校演武場だった。生徒の兵式訓練の場で、入学式などを行う中央講堂でもあった。演武場跡碑は時計台の北側にある。札幌農学校の校舎は今の北海道大学の場所に移転し、演武場は札幌市が譲り受けたのちに「時計台」と呼ばれるようになった。しかし「時計台」という名称が軽く見られる遠因になっている気がする。札幌農学校演武場としての名称しか使わないようにしておけば、国指定重要文化財として箔が付くかもしれない。

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赤レンガテラス

 昨日歩いたときに入らなかった赤レンガテラスに入ってみた。2014年8月に三井不動産が開発した札幌の新しい商業施設である。札幌の新名所となっている。

 それなりに期待していたが、やや残念である。斬新さが足りない。尖がっていない。スペースの狭さがネックになっているのだろう。先進的なエッジを効かせそれを多くの人に受け入れてもらうにはそれを吸収し一般化する空間の広さが必要である。そのスペースを確保できない状態で下手に尖がってしまえばキッチュに終わる。他のどの都市よりも空間スペースを確保できるはずの札幌においてそれができなかったのは残念である。空間デザインの工夫は入り口と2階の吹き抜けにしかない。100点満点ではなく80点満点にしたうえで、70点といったところである。札幌は先進的な都市空間を生み出せる都市にはなっていない。六本木ヒルズや天王洲アイルにはまだ遠い。

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札幌ラーメン共和国

 札幌駅南口にあるエスタJRタワーに入った。ビッグカメラのあるビルである。10階にあるレストラン街の一画に「札幌らーめん共和国」がある。北海道の実力ラーメン店が8店入っている。腕に覚えのある8店を揃えているところがここの強みである。「らーめん吉山商店」に入った。札幌ラーメンの店である。「焙煎ごまみそ 炙りとろ旨チャーシューめん」を注文してみた。今まで食べたラーメンのなかで一番うまかったかもしれない。チャーシューめんは歯ごたえを感じないやわらかさだった。十分な量の具の半分を汁の下に隠していた。味、量ともに十分な商品である。なかったのは素朴さであるが、そんなものはここでは必要ない。毎日競争にさらされながら多くの人を呼び込める商品というのはこういうのを指すのだろう、そういう商品である。

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そらのガーデン

 エスタJRタワーの11階はプラニスホールそらのガーデンになっている。10階でらーめんを食べたあと屋上に移動した。札幌の高くないビル群のなかの抜けた空を見ることができる。曇り空の下に都市の乾いた寂寥感があった。雨になる天気予報は出ていなかったが、天は気まぐれだった。そらのガーデンに10ほど置かれているテーブルが濡れてきたので、15分ほどでその場を去ることになった。エスタJRタワーを降り札幌駅前に立ったとき、雨は止んでいた。

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札幌ステラプレイス

 札幌駅の1階コンコースを札幌ステラプレイスと呼ぶのだと思ったのは勘違いだった。その両側と上に積みあがった商業施設全部の名称だった。素通りしたことになってしまった。

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SAPICA

 札幌市営地下鉄のICカードがSAPICA(サピカ)であることを初めて知った。このカードはジェイ・アール北海道バスや北海道中央バスでも利用できる。一方JR北海道(鉄道)のほうはKitaka(キタカ)である。JRグループは鉄道とバスで、メインとするICカードが分かれることになってしまっている。

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地下鉄東豊線福住駅とバスターミナル

 札幌駅で札幌市営地下鉄東豊線に乗った。下車したのは終点の福住駅である。駅にはバスターミナルが併設されていた。札幌ドームと羊ケ丘公園への最寄り駅である。


さっぽろ羊ヶ丘展望台とクラーク博士

 地下鉄福住駅からの羊ケ丘展望台行きのバスは観光客で一杯だった。かってどういうルートでここに来たのかさっぱり覚えていない。

 羊ヶ丘展望台は感動を与えることのできる公園である。草原は美しくその背後にある平坦な札幌の街は銀色に輝いていた。

 近代化を急ぐ明治日本はあらゆる分野で無理を重ねた。無理を可能にしたのは雇われ外国人たちである。彼らは日本人に知識を与え、私たちの祖先はそれを貪欲に吸収した。その背景には、長く続き過ぎた江戸時代に日本人が退屈していたという理由があったといっていい。今日、一般の日本人が知っている名前はラフカディオ・ハーン(小泉八雲)とウィリアム・スミス・クラークであるが、雇われ外国人が活躍したのは近代化を必要としていたすべての分野だった。昨日行った三笠では、アメリカ人鉄道技術者ジョセフ・ユリー・クロフォードが公園の名称になっていた。当時、帝国大学では外国語による授業が行われていた。日本人の教授による日本語の授業が行われ始めたのはたとえば倫敦から帰国した英文学の夏目金之助(漱石)がラフカディオ・ハーンに取って代わった辺りからである。それまで雇われ外国人たちは明治日本を牽引した。彼らの多くはコスモポリタン気質を持っていたと思われる。母国を追われた人もいたはずである。当時の日本は未開の国であり、政治制度は彼らの本国に比べ著しく遅れ、経済は資本の蓄積を始めたばかりだった。彼らはそんな日本で与えられた役目を果たしたと同時におそらく日本人を愛したのだろう。

 38年振りにクラーク博士の前に立った。背筋は伸び、指さす方向が未来であることが感じられる像だった。世界各地にある共産主義国の権力者の銅像もある方向を指さしていた。しかしクラーク博士の指さす未来には、つまり“Boys,be ambitious”という言葉には「個人の自由」という意味が含まれている。そうでなくてこの爽快さは出てこない。

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一匹もいなかった羊と羊ヶ丘展望台

 残念なことに羊ヶ丘公園に羊はいなかった。一匹もいないのだ。落胆した。今日はたまたまいないのか、もう放牧されていないのかわからなかった。仕方がない、羊ヶ丘公園オリジナルアイスクリームを食べて気を紛らわせた。

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羊の写真と私の『羊をめぐる冒険』
 
「これは君の雑誌に載った羊の写真だ」
 ・・・・・・
「我々の調査によれば、この六ヶ月以内に、完全なアマチュアによって撮られた写真だ・・」
 ・・・・・・
「偶蹄目。草食、群居性。たしか明治初期に日本に輸入されたはずです・・・・」『羊をめぐる冒険』(村上春樹)


 羊が日本に入ってきたのは明治時代ではなく安政年間である。平安時代に渡来したという説もあるが、仮にそうであったとしてもそれ以降は絶命してしまった。十二支のなかにも入っている比較的ポピュラーな動物であるにもかかわらず、日本人の羊にたいする意識はおそろしく低い。

「日本に存在する羊の種が全て把握されているということですね」
「そのとおり。加えるに羊は競走馬と同じで種つけがポイントだから、日本にいる羊の殆んどは何代も以前にまで簡単にさかのぼることができる。つまり、徹底して管理された動物なんだ。・・・・」『羊をめぐる冒険』(村上春樹)


 鼠の撮った写真を鼠の意思通り、僕はある雑誌に載せた。その写真を見た男がやって来て言った「写真の羊を探せ」。写真のなかに写っている前列の右から3頭目は日本にも世界にも存在しない羊だった。背中に星形の斑紋があった。

 そして羊を探す冒険が始まった。『羊をめぐる冒険』のなかの僕は、背中に星形の斑紋の羊を探すために北海道に行き、札幌から宗谷本線に乗るのである。

『羊をめぐる冒険』の第三章のタイトルは「1978/9月」である。そのなかにうつくしい文章があった。

「羊のことよ」と彼女は言った。「たくさんの羊と一頭の羊」
「羊?」
「うん」と言って彼女は半分ほど吸った煙草を僕に渡した。僕はそれを一口吸ってから灰皿につっこんで消した。「そして冒険が始まるの」


 38年前、私はさっぽろ羊ヶ丘展望台で写真を撮った。🐑の写真である。撮影日は「1978/9月」である。この写真を写していなければ、札幌に来るたびに『羊をめぐる冒険』を持ってこなかったかもしれない。

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札幌ドーム

 コンサドーレ札幌と北海道日本ハムファイターズの本拠地である。ホヴァリングステージがある。移動式天然芝によるスタジアムである。まず野球場の人工芝とベースを取り除く。野球場の一角の、高さ14mの壁9枚と可動式可動席(外野席の一部)が取り除かれ、野球場に通り道ができる。そこからホヴァリングステージがスタジアムのなかに入ってくる。同時に三日月型の観客席もなかに入れられる。そしてフットボールスタジアムが完成する。

 インターナショナル・レスキューのサンダーバード2号を島の施設に格納するとき(救助活動から帰還して基地に入るとき)を想定するとわかりやすい(と勝手に思っているが、わかりやすいのかどうかはわからない)

 横浜スタジアムや旧国立競技場がフットボールのスタジアムとしてダメなのは観客席とフットボールのピッチの間に陸上競技のトラックがあることである。こういう広いスタジアムではピッチ上のプレーとサポーターの盛り上がりが一体化しない。


Wさんと日本ハムファイターズとファン

 福住駅から札幌ドームのほうに歩いていくと歩道橋を渡って札幌ドームの前に行くことになる。家族連れや子供を想定したアナウンスが流れていた。

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 札幌ドームへの搭乗口はもう目の前です。みなさんの応援でファイターズ勝利の後押しをよろしく・・・・

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 日本ハムファイターズのファンはさわやかで礼儀正しい。搭乗前の列の並び方はほぼ完ぺきで、適度な間隔で密集しており案内スタッフを困らせていない。この様子をビデオで撮影してトルクメニスタンやインドの駅で啓蒙用に流したいくらいである。

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 さっぽろ羊ヶ丘展望台に向かう地下鉄東豊線のなかで、フェイスブックにWさんの記事が載っていたことに気が付いた。これから羽田空港から新千歳空港に向かうというものだった。日本ハムファイターズの応援に来るらしい。羊ヶ丘展望台と札幌ドームは遠くない。札幌ドームで待ち合わせをした。

 札幌ドームの外にあるレストランで旅の話や近況などの話をした。サッポロビールクラシックを飲みながら。

 私は暇だったが、時間はあまりなかった。17:30頃、Wさんは慌ただしくスタジアムのなかに入っていった。私はホテルにもどることにした。


餃子の王将

 福住駅から地下鉄東豊線に乗り、豊水すすきの駅で下車した。地上に出たときには日が暮れていた。夜ご飯の時間である。これまでの人生で1回しか入ったことのない「餃子の王将」に入ってみた。極王チャーハンセットを注文した。うまいのかうまくないのかわからない味だった。全体的に味が薄い。あっさりと食べやすいことは確かである。別の機会にリピートしようとは思わない味ではあった。

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 昨日Aが北海道に来ていることがその日の夜にわかった。家族旅行でトマムや函館に向かうらしい。

*横長の写真はスマートフォンで撮影したものです。

炭坑の空知をめぐる、今はなき幌内線の旅。

5日目 2016年9月6日  旭川 岩見沢 三笠 幾春別 札幌

 8 :08発の岩見沢行きに乗る。ホームで待っている人はいないし、3両編成の電車に乗り込んだ人はごくわずかで、私の乗った車両には私1人しかいない。今日は平日の水曜日である。

 上の文章は、2014年1月8日の旅日記である。そのときは旭川から岩見沢行きに乗って、滝川で下車した。そこからバスで雪に埋もれた赤平、歌志内、上砂川、砂川を周った。この雪に埋もれたというところが引っかかっている。街を見た気がしていない。もう一度行ってみたいとなんとなく思っている。

 2日前に糠平湖に沈んでいるタウシュベツ橋に行かないことを決めたとき、1日分のスケジュールが空いた。だから「滝川下車で赤平、歌志内方面」に少し心が動いた。

 朝ご飯のあとカンダホテルをチェックアウトした。雨が通りを濡らしていたが、傘を差さないで歩いた。

 2016年9月6日、青春18きっぷの5日目にスタンプをもらい旭川駅の改札を抜けた。滝川行きは2分遅い発車になっていた。以前と同じ3両編成だった。私の乗った車両は半分近く埋まっていたが、滝川に着いたときは10人ほどになっていた。
 
 旭川8:10発 → 滝川8:53着

 滝川駅で改札を抜け駅前に立ってみた。駅が工事中だったこともあるが、駅前は閑散としていた。建物は少なかった。駅舎を背にして右手には駐車場があるだけだった。2014年1月の雪のなかの印象とはかなり違った。
雪は街を隠してしまうということをそのときに書いたはずだ。滝川駅前はもうちょっと都会だと思っていた。

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 バスで赤平、歌志内方面に行くのは止めた。つまらない感じがした。

 ホームにもどり15分後の岩見沢行きに乗った。

 滝川9:08発 → 岩見沢9:47着
 
 3日前の9月2日に岩見沢駅で下車したとき三笠行きのバスの発着場を確認してあった。コミュニティ・プラザと同じ建物内にバスターミナルがあった。岩見沢から三笠市方面に行く北海道中央バスに乗った。平日の昼間は30分間隔で運行されている。

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 ドライバーの左後ろの前面展望の1人席に座ったが、風景はつまらなかった。雨は強く風景は暗い。イオンを過ぎ三笠の中心部を過ぎた。幾春別川を渡り原野のなかを走った。

 1906年(明治39年)、市来知、幌内、幾春別の3村が合併し三笠山村が誕生した。その頃、岩見沢駅と幾春別駅間には1日4本の列車が走っていた。所要時間は約55分。今私が乗っているバスの所要時間と同じである。三笠市は1957年に誕生した。幾春別は三笠市の地名のひとつである。バス停の名称は幾春別町である。「町」という文字が残っている。

 岩見沢10:00 → 幾春別町10:55

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 三笠市は、三笠をジオパークの町として6つのエリアを設定し観光案内をしている。たとえば達布山エリアは「展望台の風景から三笠の開拓の歴史に思いをはせる」と書かれているが、展望台があることはわかっても何があるのか説明されていない。三笠エリアは「空知集治監の記憶をたどり炭鉱開発の歴史を感じる」とあるが、空知集治監(刑務所)跡はない。あいまいな記述がいくつかありイマイチよくわからない。とりあえず終点まで行って幾春別を歩き三笠市博物館に行ってみる。

 バスを下車したとき、雨足はさらに強くなっていた。傘を差しているがかなり濡れながら、遠くない三笠市立博物館にたどり着いた。私以外の見学者は1組の夫婦だけだった。

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「三笠一億年の歴史」だそうである。「白亜紀の世界と化石」コーナーには日本最大のアンモナイトの化石があった。でかい、500年分くらいは驚いた。

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「郷土出身者の足跡」のコーナーで紹介されていた癌治療に力を尽くした黒川利雄、母子保健事業の森山豊、新劇女優の岸輝子の誰1人知らなかった。「森林資料展示室」のコーナーにはまったく興味がもてなかった。

「炭坑の人々とくらし」コーナーは類似する博物館で見てきたようなものばかりだった。

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「北海道の開拓と囚人」コーナーはおもしろかった。空知集治監には重罪人や政治犯が収容されていたらしい。展示内容はよくまとまっていた。

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 バス発着場までもどった。その発着場はかって幾春別駅のあった場所である。

 幾春別の狭い町を歩いてみた。人は2、3人ほど見かけただけである。

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 バス発着場の少し北側に旧奔別炭坑立抗やぐらが見えた。なるほど「炭坑施設の遺構やまち並みから炭坑まちの面影を感じる」ことはできる。雨に煙った炭坑施設は悪くない。

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 バス発着場にある待合室にもどった。バスが来るまでの雨宿りである。たまたま休憩していた郵便局員と話をした。横浜で働いたことがあるらしい。旧奔別炭坑立抗やぐらはたまに公開することがあるらしいが、なかに入るより外から見たほうがよいと言っていた。
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 幾春別町12:35発 → 三笠市民会館12:55

 バスで三笠の中心部までもどった。三笠市民会館から鉄道記念館までバスの便があることを車内で、ドライバーに教えてもらった。運行しているのは北海道中央バスではなく三笠市営バスらしい。2日ほど前に検索したとき、情報が引っかかってこなかった。歩くしかないと思っていたが、少し楽になった。

 三笠市民会館前に北海道中央バスの待合所はあったが、三笠市営バスの待合所はなかった。三笠市民会館のなかで待つらしい。会館のなかで三笠市営バスの時刻表をもらった。運航本数は平日12本(土日祝日9本)である。

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 先に三笠を歩くことにした。

 三笠市民会館の前は半扇状の中央公園になっていた。公園の北側は宮下通(北海道道116号)である。

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 公園から南東方向への道が有明通である。公園の南端から南に延びる北海道道119号を南に歩いた。普通の大きな通りだ。通りを直進すると幾春別川を渡ることになるが、橋の手前を左に折れた。そこが若草本郷町通であるが、さらにすぐ左に折れた。

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 平和通である。ここに平和通商店街があった。三笠を調べていたとき、10年以上前だろうと思われる平和通の写真にたどり着いた。その頃平和通入り口にはアーチがあった。

 整備された道路は、兵どもが夢の跡であることを感じさせた。飲み屋は数軒生き残っていた。商店が抜けたあとは一般住宅で埋めていくものだが、完全な歯抜け状態になっていた。

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 周辺の写真を撮りながら三笠市民会館にもどった。

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 食堂は2、3軒あったが、ゆっくり食べる時間がない。Aコープでサンドイッチとパンを買って三笠市民会館のなかで食べた。こっそりと目立たないように。

 三笠市民会館14:04発 → 鉄道記念館14:12着

 三笠市営バスは大型のバンだった。幾春別川を渡り山のなかに入っていった。10分ほどで鉄道記念館に着いた。

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 幌内線は1880年(明治13年)に誕生した。北海道で初めての鉄道であることには驚かないが、日本で3番目であったことには驚いた(日本初の鉄道は新橋・横浜間、2番目は大阪・神戸間である)。京都や名古屋を差し置いての3番目である。

 幌内で採れた石炭を積出港である小樽に運ぶ目的で敷設された。殖産興業のため、民間(旅客)輸送より先に産業輸送を行わなければならなかった当時の日本の状況が痛いほど想像できる。世界と伍してやっていくために近代を疾駆させること、それが明治日本を貫く国家テーマである。常に雲は坂の上にあった。

 新橋・横浜間、大阪・神戸間は英国が日本にたいしてデモンストレーションを行うための鉄道だったが、幌内線はアメリカによる実用的鉄道である。北海道開拓使顧問として建設を指導したのはアメリカ人技術者ジョセフ・ユリー・クロフォードである。三笠市の公園名になっている。

 幌内線の岩見沢以西は函館本線に組み入れられ、以東が幌内線になった。函館本線は今も北海道の大動脈であるが、栄光の幌内線の歴史は石炭産業の没落とともに閉じられた。

 三笠鉄道記念館は北海道鉄道発祥の地として1987年にオープンした。そこはテレビで見たことのある場所だった。蒸気機関車や気動車が屋外に展示されていた。そこを見るだけでも十分な気がしたが、もちろん鉄道記念館のなかに入った。

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 館内にもさまざまなものが展示されている。実物の蒸気機関車から時刻表、制服、鉄道部品、信号機など小物にいたるまですべてのパーツが揃えられていた。それほど興味が持てなかったけれど、鉄道模型はすばらしい出来栄えだった。

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 幾春別川沿いに石炭列車が走っていた。沿線に人々は多く住んでいた。まだ貧しかったけれど明るい活気があった。かっての幌内線の映像を見ることができたのは本当によかった。

 三笠市民会館経由で岩見沢までもどることにした。

 鉄道記念館15:16発 → 三笠市民会館15:24着

 三笠市民会館で北海道中央バス岩見沢駅行きへの乗り継ぎはスムーズだった。

 三笠市民会館15:29発 → 岩見沢16:04

 岩見沢駅にもどってきた。

 3日前岩見沢レールセンターに行ったが、他の2つの施設にも関心があった。1つは遠すぎて行けないのでバスの便を探すことさえしていなかった。万字線鉄道資料館である。万字線は、万字炭鉱から産出する石炭を運搬するために1914年に開通した鉄道である。志文駅と万字炭山駅の間に敷かれたが、1985年に廃線になった。

 もう1つは駅のすぐそばである。駅南口を走る東西に走る1条通を少し西に行ったところである。3日前に気付かなかったのが不思議なくらいだったが、そらち炭鉱の記憶マネジメントセンターはあまりに地味だった。石造りの建物を改装し開設された。通り過ごしてしまうような小ささで、そして古かった。しかし今日は休館日だった、火曜日なのに。

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 余った時間で岩見沢を歩いてみた。駅南口にあったアーケードは途切れていたが、南口の奥のほうにもアーケードはあった。岩見沢が賑わっていたとき中心部の道路にはすべてアーケードがあったのだろう。店が撤退し商店街が機能しなくなるにしたがってアーケードは徐々に取り外されていった、おそらく岩見沢とはそういう街である。

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 予定していた列車の1本前の列車に乗ることができた。

 岩見沢16:35発 → 札幌17:19

 札幌駅にもどった。海外を旅したときに首都にもどってきたときと同じ感じである。雨は止んでいた。

 旭川になかったヨドバシカメラは札幌駅北口の西側にあった。故障したカメラは横浜のヨドバシカメラで買ったものだ。
 
 壊れているようですねとスタッフは言った。その場でちょっと見てもらって直るレベルではないらしい。ポイントカードを見せ、5年保証の有効期間を確認してもらった。(カメラとパソコンには長期保証を付けている)。購入したのは2015年7月だった。保証が切れていればここで新しいカメラを買うが、3年7ヶ月を残している。まだ買い時ではない。横浜で修理をすることにした。

 札幌駅から20分ほど南に歩いた。途中赤レンガテラスを通った。狸小路商店街の近くのカプセル・イン札幌にチェックインした。

 ホテルの場所はすすきのの真ん中である。外に出て少し歩いてみた。

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「松のや」でロースカニコロッケ定食を食べた。とんかつの専門店である。入ってから気が付いた。松屋のグループ会社のようである。知らなかったのは私だけかもしれない。

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*写真はスマートフォンで撮影したものです。

🐑羊をめぐる冒険🐑 をめぐってみた。美深。

4日目 2016年9月5日  稚内 美深 旭川 

 なんとか4:00過ぎに起きることができた。5:00前にみんしゅく中山を出た。稚内駅まで徒歩5分である。

 稚内駅で最後の1枚を撮っておこう。2日前からシャッターを切るときに露出オーバーで画面が真っ白になってしまうカメラで。日は昇っていないうえに曇り空である。外は十分暗い。露出オーバーになるはずがない。

 一晩のうちに何かが進行していた。カメラのスイッチを入れても液晶画面は真っ黒だった。どうやっても反応しない。「真っ白」から「真っ黒」。このカメラどうかしている。

 まもなく出発である。改札はそんななかで始まった。

 1両編成の列車に乗った。稚内や音威子府や根室に住んでいる人が1両編成の列車に乗る可能性は極めて高いが、東京に住んでいる人でも1両編成の電車に乗ることはできる。都電荒川線である。

 稚内5:14発 → 美深8:18着 

 この列車に乗らない場合の次の普通列車は10:52発である。最終の普通列車は17:17発である。最終列車に乗った場合、名寄着が18:49で旭川着が23:39になる。この3本の列車を支えているのはまちがいなく「18きっぱー」だろう(青春18きっぷの使用者)。この3本の列車には地元民の2~3倍の「18きっぱー」が乗るはずである。稚内5:14発には8人の「18きっぱー」が乗った。

 さてカメラの状態は深刻である。液晶に何も写らないのだから。どこをどういじっても画面は真っ黒なままである。露出オーバーとは別種のトラブルである。

 私は勘違いをしていた。昨日撮った写真をパソコンのなかに取り込んだと思ってしまっていた。だからカメラにはデータのないSDカードが入っていると思っていたが、昨日撮った写真はSDカードのなかに残っていた。朝早くに1枚の写真をネットで送信したが、直接SDカードから送信したものだった。そしてSDカードのなかの写真を確認しないまま(画面を見ることができないのでカメラで確認できない)カメラのチェックを続け、そのとき昨日撮影した30枚ほどの写真を消してしまった。

 カメラの液晶画面は黒くなったうえに、写真30枚を失った。踏んだり蹴ったりである。スマートフォンで撮影するしかなくなった。

 美深駅で下車した。

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 美深観光案内所は開いていなかったが、地図とパンフレットは棚に置かれていた。地図はシンプルなものでわかりやすかった。町がシンプルでわかりやすいということなのだろうと思った。

 グーグルマップでは市街からやや離れたところに団地がいくつもあった。ひまわり団地、南団地、西団地、しらかば団地、つくし団地。他の町でもこんなものなのだろう。

 駅舎内でフリーWifiが使えた。調べたいことがあったので、町を歩く前にパソコンを開けネットにつないだ。駅の待合室にあるコンセントはありがたかった。

 私の座っているそばを人が通った。声を掛けられた。

 奥に部屋があるんですけど、使っていいですよ
 向こうですか?
 ええ
 ありがとうございます。あの~[村上春樹文庫]ってこの駅のどこかにありますか?
 その部屋がそうなんです
 えっ

 礼をいって、コンセントからアダプターを抜き、パソコンとリュックとリュックから出していたものを持ってその部屋に向かった。

 [BOOKS&GALLERY 村上春樹文庫]のドアを恐る恐る開けた。なかには誰もいなかった。🐑羊博士はもちろんいなかった。電灯はほの暗く、廊下の隅にはほこりがたまっていたというわけではなかった。古い紙の匂いと体臭があたりに漂っていたというわけでもなかった。つまりいるかホテルのようではなかった。

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 🐑『羊をめぐる冒険』の舞台が美深であること🐑をかいつまんで書いておこう。
 
 「僕」が列車で向かったのは札幌から260kmの場所である。
 塩狩峠を越える。
 日本で3番目の赤字路線に乗り換えた。

 地理的な意味合いでは上記の3点に絞られる。

 札幌から美深までは235.1km。美深から(廃線になった)美幸線で終点の仁宇布までは21.2km。合計256.3kmになる。

 その町は林業と木材加工が盛んである。美深には木材会社が多い。

 決定的なのは、『羊をめぐる冒険』のなかの「十二滝町」の存在である。確認されている美深の滝は16ヶ所ある。「雨霧の滝」「女神の滝」「深緑の滝」「激流の滝」「高広の滝」といった名称が付けられている。

 以上のような点から『羊をめぐる冒険』の舞台は美深であるといわれている。しかしそれは誰にもわからない。このような検証の対象になるというのは小説自体に舞台がどこなのかを知りたくなる要素がちりばめられているからである。

 美深町仁宇布には500頭の羊を放牧している松山農場がある。その農場が運営しているのが民宿ファームイン・トント。鼠に会うために「僕」が出かけていった「草原を隔てた正面にアメリカの田舎家風の古い木造の二階建て」のモデルだと言われている。

 美深観光協会は美深駅舎内に、2013年10月村上春樹の[BOOKS&GALLERY 村上春樹文庫]をオープンさせた。2年ほど前の時点で、村上春樹関連の観光客は年間100名ほどらしい。私が今いる場所である。

 美幸線が廃線になった今、美深駅から北海道道49号線を東に20km以上行けば仁宇布である。仁宇布の美幸線跡は現在トロッコが走っている。NPO法人トロッコ王国美深がコタン・カムイ駅を作り10kmほどをトロッコに乗れるようにした。5月から10月にかけて予約が必要な仁宇布トロッコ行きバス(おそらくタクシーだろう)が出ている。

 オーケーだ、ここまではよい。

 ファームイン・トントでは「村上春樹、草原朗読会」を何回か実施した。「ハルキストの出会いの場を作った」(主催者の弁)らしい。余計なことをする。

 ハルキストというネーミングも彼らの嗜好するところも嫌なのに、わざわざ高原に集まって朗読会なんて理解不能である。こういう場所に参加するやつの気がしれない(10人ほどが参加している写真を見たことがある)。これですっかり行く気をなくしてしまった。阿智村に星を見に行くほうがましである。

 2時間近く[BOOKS&GALLERY 村上春樹文庫]にいた。そのうちの1時間くらいで何冊かの本をぱらぱらとめくってみた。

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 美深を歩いてみた。

 宗谷本線は南北に走っており、美深駅のホームも南北にある。駅の西口に町はある。町はおおむね碁盤の目に近い。

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 駅前に旅館が2軒あった。駅から西のほうに500mほど歩いた。南北に走る名寄国道(国道40号)と交差した。この2本の通りが美深のメインである。店は主に名寄国道に沿ってある。

 小さい町である。ぱっとしない。

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 二宮美深堂という書店があった。おそらく町一番大きな本屋なのだろう。文芸書は多くなかった。

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 村上春樹がずらっと揃っていたわけではなかった。村上春樹の文庫本はわずかしかなかった。本棚に貼られている新聞記事が目にとまった。店主に断り写真を撮らせてもらった。

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 美深温泉は美深駅の北側10kmほどのところにあり道の駅もそこにある。名寄国道沿いのバス停から美深温泉行きのバスが1日8本出ていた。

 昼ご飯を食べようとしていた。途中に4軒の食堂があった。1軒には入ろうという気が起こらなかった。1軒は準備中で2軒は建物自体がなかった。

 びふかスーパーでハンバーグデミソースと愛別まいたけ天ぷらを買ってきて駅の待合室で食べた。「文庫」のなかで食べてもいいですよとさっき話した人が声が掛けてくれた。

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 列車が来るまでの時間を「村上春樹文庫」で旅日記を書いた。この日、合計で4時間くらいは「文庫」のなかにいた。閉館時刻は16:30。おそらくこの日この文庫を利用したのは私だけだろう。

 美深14:00発 → 名寄14:27着

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 名寄駅で乗り継ぎ列車は待機していた。

 名寄14:35発 → 旭川15:59着

 旭川駅から10分のホテルカンダにチェックインした。2014年1月に泊まったホテルである。カプセルルームを予約していたが、シングルに変更してもらえた。そうなることを半ば予想していた。ここのカプセルルームが閉鎖中で使われていないことを知っていた。

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 夜ご飯を食べようと外に出た。適当に歩いていると、西武旭川店が閉店するという大きな告知が目に留まった。

 “閉店まであと26日”

 なかに入ってみた。エレベーターのドアいっぱいに「41年間のご愛顧、誠にありがとうございました。/西武旭川店/最終閉店売りつくし/西武旭川店は2016年9月30日(金)をもちまして閉店いたします。」という告知があった。

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 発展を遂げたかに思える旭川駅周辺にも死角があったというべきである。西武旭川店は旭川の巨艦店である。

 百貨店の閉店セールに行ったことがない。旅のネタとして、閉店が迫っている西武旭川店の食堂フロアで食べてみることにした。食堂フロアは10階である。A館のエレベーターで8階まで昇りB館に移動しエスカレーターで10階に昇った。

 フロア全体が古びており客は2、3人しか歩いていなかった。食べてよいのかどうか躊躇したが、カレーハウス美辛亭に入った。客は私1人だけでなんとなくやる気のなさそうな人が海の幸カレーを運んできた。まずいというわけではなかったが、うまいとはいえなかった。

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*写真はスマートフォンで撮影したものです。

我々は誰一人、来年どこにいるかわからない。そうそのとおり。

3日目 2016年9月4日  稚内

 夏に別れを告げる冷たい雨が降っていた。車が道路の水をはねる音がときどき聞こえてきた。民宿なかやまの部屋。

 遅く起きて歯を磨き、テレビを付けてみた。SHISEIDOとSUZUKIのコマーシャルが流れたあと、『東野と岡村の旅猿9』夏の北海道の旅旭川編をやっていた。ゲストは優香である。3人がラーメンを食べていた。局は札幌テレビ(STV)である。

 11:10頃、上士幌町役場に電話を入れ、タウシュベツ橋について尋ねてみた。

 国鉄士幌線跡にはいくつかのアーチ橋が残っている。そのなかでタウシュベツ川に架かる橋は、糠平湖の水かさによって見え隠れする。半ば遺跡のようになっており、毎年、今年が見納めではないかといわれている幻の橋である。

 そこに行くためには森のなかの柵に掛かっている鍵をはずしてもらう必要がある。そのためツアーに参加したほうがよい。早朝にタウシュベツ橋だけを見に行くツアーがあるのだが、問題は糠平湖の水かさである。毎年7月からは水かさが増していて夏には水没していることが多い。稚内に行くことを決めてから水没していないことを期待していたが、今年は短期間に3つの台風が上陸した。

 水没しているだろうとは予想していたが、ぎりぎりまで待って確認したあとどうするのかを決めたいと思っていた。奇跡的に水没していないのなら、明日旭川に着いてバスで移動し、明後日の朝に行きたい。そうなることを考慮したスケジュールにしていた。

 結果は予想したとおりだった。今年は、7月に橋の一部は見えていたそうである。現在タウシュベツ橋は水没中である。インターナショナル・レスキューのサンダーバード4号を呼ぶわけにはいかない。

 8月に水没していなかった年もあったという例外だけを頼りにしている私の質問が常識を欠いたものであることを承知している。もともと7月くらいから水没し始める上に台風のあとに電話をしているのだ。常識的に考えて水没している。そういう非常識な相手に親切で丁寧な応対してくれた上士幌町役場には感謝している。

 これであきらめがついた。あきらめをつけるために電話したようなものである。撤退するときは理由が必要なのだ、自分を納得させるためだけの。

 旭川から糠平湖に行かないことが決まった。目的地は札幌になった。スケジュールに余裕ができた。

 12:00過ぎ、雨はほとんど止んだ。みんしゅく中山の周辺を歩いてみた。

 水没していないみんしゅく中山は沈没するにはよいホテルである。そういう雰囲気である。Wifiは問題ないし、一部の民宿にありがちな拘束感がない。ざっくばらんでさばけた雰囲気である。漫画『沈黙の艦隊』や『孔雀王』だってある。読み始める前には最終巻まで揃っているかどうかを確認しておく必要はある。

 北防波堤ドームは近かった。

 ホテルサハリンも近い。ホテルサハリンに泊まるかもしれないと思った、と昨夜Iさんに言われた。稚内の宿泊先を探しているとき、ホテルサハリンに心が動いたが、より安い民宿なかやまに決めた。

 稚内駅は稚内駅前バスターミナル、稚内市観光案内所、Tジョイ稚内、まちづくり稚内、セレクトベーカリーなどが入る複合施設になっている。こういう都会風の施設を造られるとJR北海道もおいそれと宗谷本線を廃線にするわけにはいかないだろう。

 観光案内所で尋ねてみた。サハリン航路は1ヶ月半だけ動いているらしい。期間は8月から9月中旬まで。高速船のような船で定員は少ない。急きょ実施が決まったので、知らない人は多いらしい。根室市の発表を注視していた私も知らなかった。総代理店の北海道サハリン航路株式会社は稚内市の会社であるが、運航会社の公開有限会社サハリン海洋汽船の所在地はホルムスクになっていた。

 施設内の「食事処ふじ田」で稚内丼(アワビ、タコ)を食べた。やや粗削り味な丼である。

 複合施設の1階のテーブルで旅日記を書いていた。IさんとT君がやって来た。

 稚内に入る前に、稚内で行くところをIさんと相談していた。お互いの行っていないところに行くというふうになったが、2人ともほとんどの場所には行っている。結局、Iさんの行っていない瀬戸邸になった。T君は行ったことがあった。

 瀬戸邸の案内人はユニークな女性だった。以前私を案内してくれた人ではなかった。最近T君を案内した人でもなかった。案内の内容は以前とまったく異なったのはT君も私も感じたことである。どこがどう違ったのかをうまく説明することができない。

 新駅舎内の「食事処ふじ田」は旧駅舎にもあったことを古い写真で発見した。

 北海道は昔、「北加伊道」と呼ばれていた。幕府の命で蝦夷を調査した松浦武四郎の話はおもしろかった。アイヌ語を基にして地名などに漢字が当てはめられていったが、「北加伊道」は政府に却下されたらしい。

 喫茶YOUに入った。なかはリニューアルされ、きれいになっていた。2014年6月にこの喫茶店に入りかけたことがあったが、満席だったので出てきた。

 話はもちろん昨日の続きである。稚内のこと、旅のこと、今後のこと。「今後のこと」≒「今後の旅のこと」である、もちろん。

 Iさんが言った。我々は誰一人、来年どこにいるかわからない。そうそのとおり。

 T君は17:00から仕事にもどらなければならない。喫茶YOUを出て、Iさんと稚内駅の2階でアイスクリームを食べた。

 18:00頃、Iさんと別れ1人でANAクラウンプラザホテルのレストラン「日本料理雲海」に入った。懐石がおいしいことと全体的に安いことなどをあらかじめ聞いていた。1時間ほど前に別れたT君がウエイターをやっていた。何も知らないふりをしてわざとらしく注文した。それは難しい所作である。

 音威子府蕎麦と海老の天ぷら。

 音威子府蕎麦は黒かったが、こういう味だったとは思わなかった。なんといっても23年前に食べたのは音威子府蕎麦の駅蕎麦である(音威子府の町のなかで、黒い蕎麦を食べることができるのは駅のなかの常盤軒だけである)。地味にうまかった。派手にうまい蕎麦があればの話だが。

 天ぷらもうまかった。

 19:00過ぎに民宿なかやまにもどった。

 一日中、カメラは安定しなかった。5回シャッターを切った場合の有効写真は1枚ぐらいだった。この日はほとんど出かけなかったので有効写真は30枚ほどにしかならなかった。

 さてお気づきの皆さまも多いと思うが、ここまで1枚の写真もアップしていない。

 この日に撮った写真を削除してしまった。削除したのは翌日の(=明日の)早朝の列車のなかである。おそらく明日の旅日記はその事情説明から始まるだろう。30枚のうちの1枚だけは送っていたのでネット上に残っていた。それは2016年9月4日に稚内にいたことを示す貴重な1枚となった。

 たかだか写真の削除である。痛恨の極みとは言いたくない。しかし別の言葉が見つからない。見つからない言葉を探す意味はない。


 下の写真はすべて過去のものである。

 1978年9月の稚内周辺。

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  1993年8月の稚内周辺。

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 2002年8月31日の稚内周辺。

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 2014年6月24日、25日の稚内周辺。

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宗谷本線を北へ!

2日目 2016年9月3日  旭川 士別 名寄 音威子府 稚内

 7:00過ぎにプラトンホテルをチェックアウトした。昨日とは異なる道を駅まで歩くことにした。

 1条通は駅に続く大通りである。選んだ道は正解だった。おもしろい建物があった。

 「キッコー二ホンしょうゆ」の建物があった。日本醤油株式会社が正式名である。キッコーマンのパクリではないのかという気がしないでもないが、同業に似たような名称は意外に多いのかもしれない。正面の均整のとれた縦の線がうつくしい。側面も素晴らしい。

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 金栄湯という銭湯があった。建物は平凡である。

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 ヤマト市場があった。入ってみたかったが、入り口に鍵がかかっていた。なかに人はいたのだが、今日は土曜日だった。ヤマト市場の側面は1軒家をいくつか貼り付けたようになっている。それは北海道の、安普請の建物のなかによくあるタイプである。これを様式と書いてしまっては北海道に失礼になるだろう。

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 旭川駅から1両編成の名寄行きに乗った。少し走ったところで、気動車の車窓は原野になった。旅の空は曇りである。

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 旭川8:08発 → 士別9:24着

 我々は旭川で列車を乗り継ぎ、北に向って塩狩峠を越えた。 『羊をめぐる冒険』(村上春樹)

 北海道に来るときにはいつも『羊をめぐる冒険』を持ってくる。5回ぐらいはそうしたはずである。今回も“いつも”である。たぶん6回目になるのだろう。札幌だけに来る場合は『ダンスダンスダンス』でもよいが、宗谷本線に乗る場合はもちろん『羊』がいい。
 
 コスモスの咲いている士別駅に観光案内所はなかったが、駅員が地図をくれた。地図はデフォルメされすぎていてバス路線を確認するのに役立ったが、街を歩くには適していなかった。士別でバスに乗る予定はなかった。

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 地図には、世界のめん羊館のある「羊と雲の丘」まで「さぼっちタクシー」が1日3便出ていることが記載されていた。5月頃にOさんが行ったところのようである。片道500円と安いのだが、一番早い帰りの便が次の列車の時刻を過ぎていた。

 駅舎を背にして左手前方に食堂「たぬきや」があった。そこから東に向かう道を歩いた。いぶき通りというらしい。はとや旅館、旅館まるいし、池田屋旅館など4軒の旅館が隣り合っていた。士別市生涯学習情報センターがあった。図書館が併設されていたが、10:00の開館時間には少し早かった。

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 途中、北側に折れ少し歩いた。少し広い通りと交差した。SHIBETSU STATION STREETという凝った案内板がいくつも、通りの高すぎる位置にあった。通りの名称をいつも気にしながら歩いている私以外には気がつかないだろう。

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 「絵音の館」という看板のある家があった。絵と音楽を教えている教室のようである。2016年を代表するスキャンダルの1つによって大迷惑を被っているかもしれない。

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 SHIBETSU STATION STREETにも数軒の旅館があった。

 つくも横丁という飲み屋街があった。トンネルのなかの飲み屋街である。新むつ旅館(八戸市小中野の元遊郭の旅館)付近を思い出した。そこにも似たような筒状の飲み屋街があるが、ここは安普請ながら建物の形態を取っている。

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 なかを通り抜けた。半分以上の店の入り口に貸店舗の案内が貼られていた。

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 飲み屋街の反対側は大通り(名寄国道)である。士別で一番大きな通りであることを近くにいた人に確認した。

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 大通り沿いのふれあい館に入ってみた。観光案内所だろうと思って入ったが、店(企業)だった。

 30数年前に企業したらしくセーターなどを販売していた。綿羊で有名な士別の特産品として横浜の高島屋などで販売したこともあるらしい。

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 なかにいた人と長い立ち話をすることになった。さりげなく士別案内をしてくれた。

 士別は羊の町であること、炭鉱はないこと、屯田兵の最後の入植地(屯田兵の北限)であること。

 そしてスポーツ系の宿泊客が多いことなどを聞いた。旅館の玄関にあった大量の運動靴の理由がわかった。

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 さらに東のほうに歩いた。士別は他の北海道の町と同じように碁盤の目に近いのでどこを歩いているのかがわかりやすい。

 碁盤の目をぐるぐる歩いた。士別の中心の大体を歩いたようである。

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 古そうな喫茶店「シルク」のドアを恐る恐る開けてみた。レトロ風ではなかった。古さが壁と椅子とカウンターに張り付いていた。地元のおじさんとおばさんが古ぼけたテーブルでコーヒーを飲みながら病気のことを話していた。ときが30年ほどさかのぼった気がした。

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 まだモーニングセットの時間帯だった。名古屋の2倍ほどの料金のモーニングセットには西瓜が付いてきた。ブルーベリージャムは手作りだろう。コーヒーは食後に出された。神経が細部に行き届いていた。

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 士別にWimaxの電波が飛んでいないわけではないはずだが、ポケットWifiはつながらなかった。時間がゆがんでいるのだろう。

 旅日記を書くことにした。古いことを書きたくなった。

 士別駅にもどった。宗谷本線の旅を続ける。

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 士別12:32発 → 名寄12:52着

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 士別から名寄までは20分である。名寄駅に入る手前の右手に名寄公園があった。北国博物館もその一角にある。蒸気機関車が野外展示されていた。ここに行く時間はないだろう。

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 駅を出たところにある駅前交流プラザ「よろーな」のなかに観光案内所が入っていた。縦横の線が阿弥陀くじのように交錯している道路で埋め尽くされている地図をもらった。

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 適当に歩くことにした。北海道の他の町と同じように碁盤の目になっている。

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 歩いている途中、使いにくい地図のなかに南広場「ひまわりらんど」を見つけた。

 何年も前から名寄のひまわり畑を見たいと思っていた。3ヶ所に分散して植えられているとはいえ500万本のひまわり畑は壮観だろう。2ヶ所で55万本の座間(神奈川県)ひまわり畑の10倍のスケールである。ただ名寄のひまわりは8月中旬で終わっていることを2、3日前にネットで確認してあった。それにひまわり畑の最寄り駅は名寄駅ではなかったはずだ。

 しかしもしかしたらひまわりはまだ残っていて、町のなかで名寄のひまわりを見ることができるかもしれない。途中から「ひまわりらんど」のほうに歩き始めた。

 北海道には大空町のひまわりが9月、10月に咲くのだが(開花期をずらして植えている)、オホーツク沿岸の網走郡である(女満別空港の近く)。

 余談である。東京都知事選の前、テレビで東国原英夫が話していた。2010年口蹄疫が襲った高鍋町(宮崎県)は牛の死骸を埋めたあとにひまわりを咲かせたらしい。その数なんと650万本。名寄を上回る。

 SAIJOという大きなショッピングセンターがあった。西3条南6丁目のバス停の近くである。西3条だからSAIJOなのだろうか。

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  SAIJOの近くに「ひまわりらんど」はあった。それは子育て支援センターだった。裏にあった広場にひまわりは1本もなかった。

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 出雲大社口駅で下車する人たちが相次いだことがある。そこから出雲大社は遠すぎる上に公共交通機関はなかった。クレームが発生したとき、当時の出雲市長で駅名の名付け親である岩國哲人が「ちゃんと調べてこい」と開き直った。わざわざ迷いそうな名称変更をしたうえでのことだから横暴である。しかし私の場合、ちゃんと調べてこなかった私に非がある。子育て支援センターの名称が「ひまわりらんど」というのはありうる名称である。

 岩國哲人が出雲市長から国会議員に転身したのを機にまぎらわしい出雲大社口駅は元の出雲神西駅に名称変更された。JR西日本はほっとしただろう。子育て支援センターの「ひまわりらんど」はこれからも「ひまわりらんど」として、名寄の子供たちをひまわりのように育ててほしい。

 碁盤の目を適当に歩いていたときそれは出現した。ぎおん通りである。名寄の歓楽街である。「やるじゃないか、名寄も」と思いながら、ぎおん通りで写真を撮り始めたときにそれは起こった。

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 この小さな出来事はその後の私の旅に食い込み惑わすようになることを私はまだ知らない(と書いていいのだろうか、ここを書いている時点は9月5日である)。

 写真を撮影した瞬間に画像がいきなり真っ白になった。何度やってもそうなる。SDカードやバッテリーを入れ直しても、メニュー画面で初期化をしてもうまくいかない。

 ぎおん通りの歩道で10分近く立った状態でカメラをいじっていた。

 ここで何を写しているのかと尋ねられた。あやしいヤツと思われたのだろう。カメラが故障したと伝えてみた。その人は、私のカメラを手に取り何やら始めたが、カメラ店を教えてくれた。

 それはSAIJOのなかにあった。さっき見たSAIJO。名寄でもっとも頼りになるSAIJO。

 ぎおん通りから徒歩2分である。広大なショッピングセンターSAIJOに入った。

 店員にカメラを渡してみたが、わからないようだった。そもそもこの人は親切ではなかった。露出がオーバーになっていることはまちがいないと伝えられた。それは私にもわかっていた。メーカーによってマニュアルは違うから、と言われた。よく知っている。

 カメラは4台ほど売られていた。

 SAIJOの入り口のところにあった椅子に座り、カメラを何度もチェックしてみた。チェックの最中に2枚だけがうまく写った。修正できたのだと思い、外に出てみた。建物を写すと真っ白になった。カメラは直っていなかった。再び、椅子に座ってあれこれやってみたが、うまくいかない。

 結局、SAIJOで40分近くいることになった。スマートフォンのカメラがあるが(パソコンにもカメラはある)、使う気になれない。ぎおん通りはおもしろい通りでもう少し見たいが、先のことを考え、他のカメラ店を探すことにした。

 歩きながら4、5人に尋ねてみた。

 私は士別の人間ではないので・・
 知らない
 SAIJOのなかにある

 まさか士別でカメラ店探しをすることになろうとは。マハーバリープラム(インド)でのパソコンのアダプター探しよりずっとましであることを思い出し、力強く歩いた。
 
 あきらめかけて駅のほうに歩いていたとき、2軒目のカメラ店を発見した。士別駅の近くだった。

 おじさんはとても親切に対応してくれた。何かの拍子に露出が狂ってしまったらしいと言った。

 バッテリーの入れ直し、SDカードの入れ直し、リセット、初期設定など1つ1つの作業を確認しながら、場合によっては元の設定にもどし、その都度、露出オーバーを調整しようとしてくれたが、うまくいかなかった。A(オート)からは調節できないので、M(マニュアル)かP(?)から修正するしかない。その手順もやってくれた。近くのものを接写した場合と望遠機能を使った場合、つまりレンズに集まる光が少ない場合だけが露出オーバーにならないということだけは確定した。

 列車の出発時刻が迫っていることを伝え、店を出た。修理代(手間賃)を払おうとしたが受け取らなかった。このカメラ店のおじさんは名寄のよい思い出になった。

 1993年の夏。名寄に来たことがあった。ホテルに1泊し駅前の食堂で食べた。カメラ店を探しながらそのときのホテルも探してみたが、それらしい場所には別のホテルが建っていた。写真を写すことはできなかった。1993年に入った食堂はどうやら現在の三星食堂らしい。店名が変わっているかもしれないし、建物も変わったかもしれない。同じ場所らしいところにあったのが三星食堂だということだけである。わざわざ50mほどの距離で撮影した、やれやれ。

 名寄駅に着いた。対抗列車が停まっていた。路線橋を渡ったときに1両編成の列車がやってきた。折り返しの音威子府行きである。

 町のなかですれ違っていた欧米系の女性と別のところですれ違った女性が乗った。他には旅人が数名乗った。

 名寄14:36発 → 音威子府15:38着

 旅人たちは車窓の写真をバシャバシャと撮っていた。シャッター音がわずらわしかった。

 不良のカメラを持ったまま音威子府駅に着いた。

 音威子府駅には天北線の展示があった。ほとんど以前と同じままの展示だと思われる。私は乗ったことがない。室内はなんとか撮影できた。

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 音威子府駅の駅蕎麦は常盤軒が営業をしていたが、閉店時刻は15:30だった。8分遅かった。ここで黒い蕎麦を食べようと思っていたが、間に合わなかった。

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 黒い蕎麦は音威子府駅のなかだけで食べることができる。周辺の食堂で黒い蕎麦を食べることはおそらくできないはずである。そもそも食堂を探すことができるのかわからない。

 宇津ノ谷集落(静岡市)のある蕎麦店の入り口に「本日、音威子府の蕎麦が入っています」という表示を見たことがあった。注文する前に、黒い蕎麦ですかと尋ねてみたが、そうではなかった。店員は音威子府の黒い蕎麦を知らなかった。音威子府に黒い蕎麦以外の(普通の)蕎麦があることをそこで知った。

 音威子府には2度来ている。2度目のときの駅舎と同じ駅舎を撮影した。下の写真は70mほど離れたところからの望遠である。

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 下の写真は2002年8月31日の音威子府駅。

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 露出を抑えればなんとか写せるのだから、接写か望遠か暗闇を写すしかない。カメラはアブノーマルな撮影しか許してくれない。

 今日の、ここまでの撮影枚数は150枚くらいである。カメラの故障をチェックするために200回くらいはシャッターを切っている。私のカメラ選びの基準は1回の充電での撮影枚数が多いことである。停電の多い国や発展途上国を旅する場合、Wifiの有無の前にホテルのコンセントに電気が流れているかどうかの心配をしなくてはならない。コンセントのない部屋に泊まったこともある(そういう場合はレセプションに充電してもらう)。つまり頻繁に充電できないことを想定したカメラ選びをしている。1回の充電で300~400枚の撮影ができるのは(1位)カシオと(2位)オリンパスしかない。2、3年に1度、この2つのメーカーのなかで買い替えているのだが、今回は役に立った。それでもバッテリーが今日1日持つかどうかは心配である。

 下の写真は40mほどのところから撮った天塩川の看板。

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 下の写真は50mほどのところから撮った道の駅。駅舎のなかになかったコンセントを探しに道の駅に入った。食堂は15:00で閉じていた。空いているのはトイレだけだった。

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 途中にあった地元のミニ・スーパーに50m、40mと近づきながら撮ってみた。7、8mの距離で撮影できた。

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 直ったのかもしれないと気をよくした次の1枚は真っ白だった。こういうのを200枚くらい撮った。

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 バッテリーの節約家だったはずのカシオ君は気むずかしい性格を持ったヤツに変貌していた。

 歩いているとき天塩川に出る道を見つけた。記憶は蘇った。1993年にこの土手を上がって天塩川を見たはずだ。2016年9月3日に同じことをやってみた。

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 駅の正面にはがらんとして人気のない小さなロータリーがあった。タクシー乗り場にはタクシーの姿はなく、ロータリーの真ん中には・・・・
 ・・・・
 商店街の先には殆ど何もなかった。広い道はゆるい坂になって川まで下り・・ 『羊をめぐる冒険』(村上春樹)


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 2002年8月31日の音威子府駅。上の写真と同じ場所。

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 1993年8月の音威子府駅。上の写真と同じ場所。

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 『羊をめぐる冒険』の舞台はどこなのだろう。この小説はその舞台を想像してみたくなる小説である。

 音威子府に最初に来たのは1993年8月である。その時点では『羊をめぐる冒険』を読んでいない。

 村上春樹を知ったのは群像新人賞のときである。有隣堂で「群像」を手に取ったときのことを覚えている。「また村上さんか」と思った。村上龍に続いて、という意味である。パラパラとめくった。片岡義男と同系統の作家だろうと思いまったく読まなかった。「大きな勘違いをしていた、それは完全なミステイクだった」。まちがっていたことに気が付いたのは10年くらいあとのことである。

 『羊をめぐる冒険』の舞台を音威子府だと思ったのは、書かれていた全体の感じからである。がらんとしたロータリー、さえない商店街、川がある・・・。何度読み返しても音威子府だと思う。それは私にとってはそうだったということである。

 『羊をめぐる冒険』の舞台は音威子府ではない。そういうことは村上春樹の研究者たちあるいはハルキストたちによって実証されている。舞台は美深町仁宇布である。それは確定ではないのだけれど、検証としてそうなってしまった。ここでも「大きな勘違いをしていた、それは完全なミステイクだった」。そのことを随分前に知ってしまった。

 しかしそれでもそれは私にとってどうでもいいことである。だから音威子府にやって来た。

 旅は新しい発見ばかりでないだろう。JRもANAも多くのメディアもそして旅行者までもが「旅は新しい何かを発見すること」と馬鹿のひとつ覚えを繰り返す。うざい、わずらわしい、聞き飽きた。

 あんた、旅で新しいことをいくつ見つけたの?
 いつも必ず見つけるのか?
 思い出すものは何もなかったのか?

 車窓は何かを思い出すために列車と自然が作った装置である。旅の半分は、過去を燃やす旅になっている。音威子府はそういう町である、私には。

 駅から正面に7、80mほどの北海道道391号の途中にあるふじや食堂は閉店していたが、その通りと交差する大きな通りに食堂があった。今日は営業していなかったが、その通りを東南方面にかなり歩いたところに別の食堂があること教えてもらった。音威子府ではそこしかない、と言われた。

 その店では蕎麦を出していますか?
 あるよ
 
 少し歩いてみたが、食堂らしきところは現れてこなかった。

 ミニ・スーパーにもどり、「北の国ベーカリー」の豆パンと明治アーモンドを買った。駅舎内で食べた豆パンは甘くてボリュウムたっぷりでうまかった。旅先でよく明治アーモンドを買う。買って車内で食べる。だから値段を知っているのだが、ほとんどは210~220円である。音威子府では198円だった。

 接写はOKである。

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 1両編成の発車時刻である。

 音威子府17:07発 → 稚内19:30着

 クマザサの藪と森を1両編成は北に走る。乗っているのは名寄から乗った旅人だけである。みんな2~4席を占領している。

 駅間の距離は極端に長く1両編成はなかなか停まらない。車窓のシラカバは黙殺される。

 1両編成が幌延駅に着いたとき、外はほぼ真っ暗になっていた。豊富駅はもっと真っ暗で、抜海駅の貧弱な灯りはホームをわずかに照らしていただけだった。北の果てにやってきた。

 途中、車窓に利尻島が見える場所がある。私は2度見ているが、今日は見えるわけがない。どこを走っているかもわからない。

 1両編成は稚内駅に着いた。2年3ヶ月ぶりの稚内である。

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 稚内の街は変わっていないだろう。街を歩いている人は少ないだろう。夏に利尻島や礼文島に行くフェリーは観光客であふれ、ノシャップ岬や宗谷岬に行くバスは混雑しているだろう。そういうことは変わらない。

 変わったことが1つある。国境の街ではなくなったことである。毎年6月中旬から9月中旬まで動いていたコルサコフ(サハリン)行きのフェリーは今年から運航されなくなった。5年という定められた運航予定期間の最終年が2015年の夏だった。安倍首相とプーチン大統領の仲はよいと言われており、政治的な意味で2016年以降も運航は延長になるのではないかと勝手に期待していたが、期待は期待でしかなかった。根室市は運航継続に向け努力をしている旨を今年の初めにHPに発表していたが、努力は実らなかった。

 2014年6月、北洋銀行稚内支店でルーブルを手に入れコルサコフ行きのハートランドフェリーに乗った。サハリンから間宮海峡を渡りバム鉄道でシベリアを西に向かった。長い旅に向けての出航の朝、民宿みんとの玄関で女将さんは、渡るんですねと言った。

 もう一度サハリンに渡ろうと思っていた。サハリン島の北の端まで行きたい。機会は失われてしまった、とりあえず今のところは、と書いておこう。

 稚内駅から5分のところにある民宿なかやまにチェックインした。

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 22:00過ぎ、ANAクラウンプラザホテルの仕事を終えたIさんがやってきた。T君をともなって。

 Iさんとはブドヴァ(モンテネグロ)とティラナ(アルバニア)で会った。今はリゾートバイトとして稚内に来ており、初対面のT君はその同僚である。

 さすが北海道の居酒屋である。ここ数年の間、東京の居酒屋ではホッケが少しずつ小さくなっていったが、稚内ではそれなりの大きさをキープしていた。我々はビールを飲みながら、いくつかの料理を注文した。料理が残ってしまったのは話をするのに忙しかったからである。食べている暇はなかった。Iさんとは2年振りの話が溜まっていた。2ヶ月くらいなら順序立てて話すことができるが、2年ともなるとそうはいかなくなってくる。

 Iさんの次の出没場所(勤務先)は決まっていた、もちろん。旅先ではなく勤務先として日本地図を埋める作業は着々と進んでいるようである。残り13県らしい。国獲り物語はまもなく終盤を迎える。稚内と次の出没先までの間の旅先も決まっていた、当然である。

 T君は中国にしか行ったことがないらしい。しかしその風貌と雰囲気はまるでアジアのバックパッカーである。かりに200の職業が選択枝としてあり、そのなかの1つに「旅人≒バックパッカー」があったなら、躊躇なく彼を「旅人≒バックパッカー」とするだろう。そういう雰囲気を持っている。

 来てみないとわからないことは多くある。稚内に来てわかったことがあった。

 音威子府の黒い蕎麦は稚内のクラウンプラザホテルで食べることができるようだ、17:30以降に。

 運航が停止になったはずのコルサコフ行きは小さな高速船が動くことになったらしい。ただし定員はぐっと少なくなったようである。

宗谷本線の旅が始まった!

1日目 2016年9月2日 札幌 岩見沢 美唄 旭川  

 羽田発のJAL595便で新千歳空港に着いた。

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  東京(羽田)9:15発 → 札幌(新千歳) 10:45着

 相変わらず新千歳空港の到着ロビーはぱっとしない。2年3ヶ月前、ブラジルW杯予選リーグの日本・ギリシャ戦で賑わっていたテレビ前の椅子に座っている人はいなかった。

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 青春18きっぷの2日目で札幌に向かう快速エアポート113号に乗った。車内は満席に近い。

 新千歳 11:15発 → 札幌 11:52着

 札幌駅に入る手前で「次は終着・札幌」というアナウンスがあった。JR東日本は「次は終点・東京」である。長野電鉄では「次は終着駅・長野」とアナウンスされる。

 札幌での乗り継ぎはスムーズだった。

 札幌12:05発 → 岩見沢12:47着

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 岩見沢から北に向かう列車の乗り継ぎがよくない。1時間以上待たなければならない。

 駅舎の1階にある観光案内所で岩見沢と三笠のパンフレットをもらった。駅の北側に岩見沢レールセンターがあるはずだが、パンフレットに載っていない。地図にその名称すらない。

 岩見沢は広大な駅である。駅の南北の出口を高架でつなぐ立派な連絡通路があった。岩見沢駅の周辺に駅の南北を横断する道路はないので、住民の貴重な交通路になっているのだろう。

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 かっての北海道の駅はどの駅も広い構内を持ちレールが張り巡らされていた。今、そういう駅を見ることはできない。どの駅のレールも取り払われてしまった。砂川駅にあった上砂川支線の離れたホームへの長い路線橋もなくなり、岩見沢駅のような連絡通路が完成してしまった。

 うろ覚えであるが、映画『駅ステーション』で根津甚八が逃げたヤードは留萌駅構内である。そういう駅はもうどこにもないが、岩見沢駅だけはかろうじて今でもその面影を残している。岩見沢駅は捨てがたい駅になっていた。

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 北口の広場の向こうに重厚感のあるレンガの建物があった。岩見沢レールセンターらしい。本来は観光資源になってよいレベルの外観であるが、そうしていないのはここが現役で使われているからなのだろう。入り口に敷地内に入りたい人は許可を取るようにという注意書きがあった。

 事務所の戸を開けて尋ねてみた。敷地内に入ることは禁止されているという回答だった。駐車場に入りたいだけだと伝えたが、却下された。

 レールセンターでは北海道内各地で使用されるレールの加工を一手に引き受けている。青函トンネルのロングレールの製造もここで行われた。8月終盤の台風10号による鉄道の被害は甚大で、線路の冠水や橋梁流出などで石北本線、釧網線、根室本線の一部は不通になっている。函館本線の特急「スーパーカムイ」は動いていたが、特急「オホーツク」は運休になっていた。復旧のためのレールがここに発注されているのかもしれない。

 事務所は旧北海道炭礦鉄道の岩見沢工場材修場を使用しており、近代化産業遺産および準鉄道記念物の指定を受けている。

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 外観だけを写真に撮り、駅にもどった。

 連絡通路を渡って南口に出た。

 駅舎を背にして右手に岩見沢市コミュニティープラザと一体化したバスターミナルがあった。岩見沢は初めて来た街であるが、3日後ぐらいにもう一度来ることになる。三笠へのバスの時刻表をもらっただけで出てきた。

 街を歩くのは今度にして昼ご飯を食べることにした。駅舎を背にして左手の奥にアーケードが残っていた。その近くにあった西谷食堂に入った。

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 おばさんが2人で店を切り盛りしていた。沖縄の食堂のような座敷があった。

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 開花丼を注文した。豚肉とたまねぎを煮て卵でとじた甘めの丼である。

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 駅にもどった。

 岩見沢14:00発 → 美唄14:16着

 美唄は初めての街である。

 駅前は暑かった。急に暑くなった感じである。今日の最高気温は27℃となっていたのだけれど。

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 1903年、当時の石狩石炭株式会社によって軽便鉄道が敷設された。後に三菱合資会社の管理下におかれ美唄鉄道になった。三菱鉱業美唄鉄道である。美唄から常盤台までの10.6kmの短い路線がこの地にあった。途中の東明駅には駅舎と蒸気機関車が残っているはずである。

 駐輪場の場所に美唄鉄道の広大なヤードがあったはずである。おそらく美唄市街に美唄鉄道の跡を探すことはできない。下の写真の北側にあたる場所である(まちがってその写真を削除してしまった)。

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 美唄には東明公園(前述の東明駅の近くかもしれない)、宮島沼、青の洞窟温泉などがあるらしいが、どれも遠そうだ。

 暑い街に出てみた。

 中央通のほうに行かずに、駅前広場を南に歩いてみた。遠くにほんの少し怪しげな気配の一角が見えたからである。

 古い建物と古い店があった。やや怪しげというレベルである。

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 西のほうの中央国道を渡ったところに怪しげなアーチが見えた。150mほど先である。

 300m先の怪しげな気配を察知できなければ、街歩きはうまくいかない。随分前に小名浜(福島県いわき市)のあやしげな一画に気が付いていながら行かなかったことがあった。そこに行くために10年ほどかかってしまった。

 そこはやや怪しげではなかった。ディープ度ランキングは一気に10段階中の8に跳ね上がった。歩き始めて15分で美唄のコアな場所を発見した。

 そこはかっての美唄の繁華街であり遊興街だった場所なのだろう。美唄炭鉱は美唄の人口が9万人を超えていた1950年代が最盛期だった。荒削りな坑夫たちで賑わっていたのかもしれない。この場所もその時期に最盛期を迎えたのだろう。1972年に美唄炭鉱は閉山し美唄鉄道も廃線になった。廃坑にともなってこの場所も徐々に衰退していったはずである。そして今では限られた人だけが寄り付く場所になった。

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 屋台村もできていた。

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 大通西1南2交差点の北洋銀行から西に延びているのが駅前通りである。どんどん西に歩いていく。美唄の中心地のようである。2階が通りにはみ出している建物が連なっていた。建物の2階がアーケードのようになっており雪よけの役目を果たしている。

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 コアビバイがあった。大きなショッピングセンターである。外装はくたびれた雰囲気であるが、店内は一度リニューアルされたようで古くはない。

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 コアビバイの西側まで歩き、北のほうに曲がった。

 駅正面からまっすぐ西に延びる通りに出た。

 美唄市役所があった。

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 道路をはさんで東側は中央公園になっていた。

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 公園の東に空知稲荷神社と空知神社があった。

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 空知神社の北側は昭和通りである。

 空知稲荷神社の南側にあった美唄市郷土歴史館に入ってみた。予想したとおりの館内展示だった。美唄の自然のコーナーに興味はなかったが、屯田兵から開拓時代の農業の様子、石炭の発掘、大正、昭和の町並みなどについて展示されていた。

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 美唄市郷土歴史館はこじんまりした規模の歴史館だった。館を出たとき予定していた列車の1本前の列車が間に合いそうな時間だった。

 暑いなかを急ぎ足で駅にもどった。ホームに降りてすぐに列車が入って来た。

 美唄15:56発 → 旭川17:02着

 車窓は暗かった。旭川に入る手前で雨になった。

 2年9ヶ月前、薄っすらと雪の積もった旭川駅の変貌に驚いた。衝撃を受けたといったほうがいいかもしれない。旭川は整頓された碁盤の目の街である。路地はないので店は表通りに進出することになる。夜のネオンがひときわ輝く街である。

 大規模な投資をした旭川駅には地下がない。駅ビルを背にして左手にイオンがありスターバックスコーヒーが入っている。駅前は、縦横の線が抑制的に交錯し近代的な感じがする。

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 夜のなりかけている旭川の繁華街を歩いてみた。通りが広いので買い物をするには楽しい街だが、駅前の一画を離れると店は一気に少なくなった。ホテルはそれなりに点在しているようである。

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 インド料理を見つけたので近づいていく途中に「旭川ラーメン大賞受賞」というノボリの店を見つけた。正確には「第三回旭川ラーメン大賞新人(店)賞」を受賞したのであって、大賞を受賞ではなかったことを席についたときに知った。注文したのは「醤油ラーメンあっさり」。あとから入ってきた5人ほどがみんな同じメニューを注文したので名物になっているのだろう。ちぢれた麺がスープをうまくすくい上げ麺といっしょに口にはいってくる、うまかった。

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 ラーメン店の「まつ田」を出たときはまたぽつりぽつりと雨が降っていたが、傘をさすほどではなかった。

 プラトンホテルにチェックインした。近くには旭川赤十字病院と星雲小学校がある。駅から20分ほどの立地はかなり遠い。

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 久しぶりの旅で疲れていた。ベッドに入るとすぐに寝入った。

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北海道へのプロローグ “あの頃”

0日目 2016年9月1日 

 そう“あの頃”は、函館を過ぎたところで車窓に現れたサイロに感動したものだった。ところが、札幌から道東や道北に向かう北の大地には、函館を出た辺りで安易に感動してしまったことをバカらしくさせるほど雄大な風景が広がっていた。

 “あの頃”の鉄路はまだ悪名高き日本国有鉄道だった。しかし悪名には同情すべき歴史と背景があった。日本国有鉄道は政治に利用された国営組織だった。

 戦時中はひたすら戦争に協力をさせられた。1941年8月に公布された金属回収令に従って、不要不急線としてレールを撤去させられた。開戦前にこの法律を制定していた政府の用意周到さに驚く。国内の資源の枯渇は政府も軍部も予測していた。

 戦後は復員兵を大量に雇用しなければならなかった。一時期職員は65万人ほどに膨れ上がった。戦後の日本国有鉄道は失業対策に多大な貢献をした。この組織は社会不安を取り除くという大きな役割を果たした。

 1950年代から60年代にかけて、資本家と労働者は対立すべきものだった。カール・マルクスの空の下で労使双方はお互いの使命を全うしただけである。労働者の労働条件は悪かったが、権利と主張は今よりも強かった。私たちが消費者であり生活者であると同時に株主になることもあるが、雇用の保証は危うくて正社員と派遣とアルバイトが隣り合っている就労環境にあるという現在の(個人の)ポジションはまだ出現していなかった。

 適当だといってもいいようなダイヤグラムが列島の各地で実施されていた。たとえばターミナル駅の1駅先の駅に行くために平気で3時間ほど待たせることがあった(今でもあるけれど)。乗客用の座席に座っていた車掌はそれなりにはいた。

 それでも日本国有鉄道は孤独ではなかった。電電公社(現NTTグループ)や日本専売公社(現JT)などの「三公社五現業」組は、「お客様は神様です」という言葉が行きわたりつつあった時代に「サービスの欠如」を体現していた組織であった。しかし列車の発着時間の正確さについては当時から世界の鉄道のなかで一頭地を抜いていたことは記しておく必要がある。たとえそれが日本国有鉄道固有の特質ではなく国民性に由来するものであったとしても。

 2009年7月19日時点で労働組合はまだ残っていた。JR鶴見駅の近くにあった国鉄労働組合の事務所。

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 モータリゼーションによって、路線網は年々縮小されていった。この辺りから危機感は広がっていくが、日本国有鉄道は列島にまだ網を張り巡らせていた。毛細血管への旅にはバスが必要だったが、日本国有鉄道はまちがいなく日本の端っこにまで旅人を連れていってくれた。

 1978年の湧網線。中湧別駅から網走駅までの89.8kmの路線は1987年に廃線になっている。

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 最初に北海道を旅したとき、興浜南線も羽幌線も動いていた。稚内に行くとき宗谷本線で行くか天北線で行くかを迷った。天北線に乗っておくべきだった。北海道を鉄道で周るチャンスは東海道本線に乗る1000分の1もなかったことを“あの頃”はまだ気づいていなかった。名寄本線にも瀬棚線にも乗ることがないまま、北の地方交通線はいつの間にか消え去っていた。

 下の写真は2002年8月30日の宗谷本線塩狩駅。宗谷本線には3度目の乗車で、稚内に向かった。

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 今日あったものが明日あるとは限らない。それは旅をしていていつも感じることであるが、北海道の場合、その数は目立って多い。

 民営化の際に確定した膨大な借金はJR3社(東日本、西日本、東海)だけが支払っているわけではない。国民の税金からも支払われていたことを平成の「民」は忘れてしまった。「民」と書いたのは揶揄である。「市民」なら税金がどのように使われているかをもう少し監視しているだろう。「市民」という言葉はそういうふうに使われる、少なくとも欧州においては。東京オリンピック・パラリンピックの準備期間において「都民」が「市民」の隊列に加わることができるのかをみんな見ている。

 JRになってからも路線網はひっそりと縮小していった。

 2014年5月には江差線の木古内駅・江差駅間が廃線になった。そして2016年3月には江差線の五稜郭駅・木古内駅間も消えた。

 江差線の、2つの区間の廃線の理由は異なる。

 2014年1月11日の江差は吹雪だった。

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 そう遠くない未来に夕張支線(石勝線)と留萌本線は廃線になるだろう。廃線になる理由は江差線の木古内駅・江差駅間が廃線になったのと同じ理由である。過疎化が進み沿線人口が極端に少なくなり利用者がいなくなったことによる廃線である。寿命がやってきたということだ。

 2005年10月31日の夕張支線の清水沢駅。

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 2014年1月9日の石勝線、夕張支線の新夕張駅。

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 2014年6月20日の留萌本線の増毛駅。映画「駅・ステーション」(監督・降旗康男/主演・高倉健)、映画「魚影の群れ」(主演/緒形拳,夏目雅子)のロケ地である。

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 一方で、江差線の五稜郭駅・木古内駅間が廃線になったのは北海道新幹線の開業によるものである。同時に「道南いさりび鉄道」が誕生した。こちらは人為的な手術によっての消滅(運営主体の変更)である。

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 データを掲載しておく。

 多くの鉄道路線が消えていった北海道であるが、2013年現在の北海道の鉄道路線営業キロ数は2,567.2km(内訳/JR2,499.8km、地下鉄8.0km、路面電車19.4km)で全国トップである。

 2010年5月30日の函館市電。

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 2位の東京都は1,050.7km(内訳/JR新幹線34.8km、JR在来線283.7km、私鉄363.9km、地下鉄292.7km、路面電車17.2km、モノレールなど58.5km)である。

 2つのデータは北海道がいかに広大であるかということと東京の鉄道網の発達が世界に並ぶものがないことを証明している。

 北海道旅客鉄道株式会社(=JR北海道)で相次いだ車両事故はこの路線キロの長さと無関係ではない。寒冷地における長大路線の保全はJR北海道の恒常的で慢性的なアキレス腱である。収益性がまったく期待できない地方交通線をさっさと廃止しないと企業として存続できない。

 一方で、北方領土と関係する根室(、網走、稚内)の地域基盤を支え国土保全をしなければならない国家としての日本政府は、鉄路存続を要望しているはずである。そうするためのもっとも現実的な方法はJR北海道をJR東日本と合併させることだろう。もっともJR東日本は合併の条件として北海道の線区を函館、室蘭、苫小牧、札幌、小樽、旭川を結ぶ幹線周辺に縮小することを要求するだろう。そうでなければJR東日本管内の気仙沼線などのBRT化の説明がつかない。

 事故が起こったときに事故調査委員をJR北海道に派遣して終わらせるだけでは同じことを繰り返すだけである。首都圏の私鉄グループなどと提携させるなどしてJR北海道がホテル業などで東京に進出していくサポートを政府は行うべきである。

 2010年1月7日撮影。年末年始の根室市役所(おそらく郵便局でも)では年賀状に北方領土スタンプを押すことができる。

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 私はJR北海道の行く末をけっこう本気で心配している。

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 さて。

 消えていったのは北海道の地方交通線だけではない。信越本線、東北本線、鹿児島本線、北陸本線などの列島を貫く幹線の末端部も消えていった。消滅に手を貸したのは地方が切望した新幹線である。

 幹線を分断して堂々と走っているのは、意味不明の名称を持つ「しなの鉄道」「青い森鉄道」「IGRいわて銀河鉄道」「肥薩おれんじ鉄道」「IRいしかわ鉄道」「あいの風とやま鉄道」「えちごトキメキ鉄道」「道南いさりび鉄道」の第三セクターの鉄道群である。林修はこれらの名称を正確に(平仮名、片仮名、漢字を使い分けて)書けるのだろうか。

 はっきり書いておこう。これらの鉄道群は旅人の「敵」である。しなの鉄道だけが存在していたときは無視することができた。それにしなの鉄道の名称だけはシンプルだった。しかし彼らの鉄道網への侵食はまるでウイルスのようであり、もはや看過できないところまで鉄道網をむしばんでいる。旅人はそのことに声をあげるべきである。これ以上幹線の衰退と疲弊を許さないと声高に叫ぼう、ドナルド・トランプのように。

 関西ルートが未だに確定していない北陸新幹線は、関西から新潟、山形、秋田への旅を事実上消滅させたといっていい。直江津を中心とした新潟県西部は、奇妙な歪曲をする路線の先にある東京の商圏に組み入れられてしまった。いずれ大阪の商圏にも新たに組み入れられることになっている。今後、新潟市は県都として地盤沈下していくだろう。ローカル線に乗って新潟なんぞに買い物に行くものか。

 大阪から青森に至るルートは日本海縦貫線と呼ばれていたことがある。電車特急「白鳥」やブルートレインの「トワイライトエクスプレス」「日本海」などが走っていたが、細切れにされた路線の列車ダイヤは理解不能なものになってしまった。

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 2週間ほど前に稚内に行くことを決めた。飛行機で行くことになるだろうと思いながら、鉄道とフェリーでの可能性を一応チェックしてみた。

 鉄道で行く場合、多くの人は北海道新幹線で行く。それは2016年3月以降のブームであるが、私の頭のなかにあったのは「北海道&東日本パス」(期間内の7日間連続使用)と「青春18きっぷ」(期間内の任意の5日分使用)である。

 結果はわかっていた。1年に1回くらいはシミュレーションをしている。そして同じ結果を確認している。一応、下に書いてみる。

 横浜駅を6:40に出ると13本の列車を乗り継いでその日の22:00過ぎに青森駅に着く。上野・東京ラインの開設は東北・北海道方面への交通をほんの少しだけ便利にしたようであるが、大きな改善にはなっていない。根本的な障害はもちろん「青い森鉄道」「IGRいわて銀河鉄道」である。青森港からは深夜の函館行きフェリーが動いていたが、それに乗船して函館発の始発列車をつかまえても、札幌着は2日目の正午辺りになった。もちろん普通列車に乗るという前提である。その日稚内にたどり着ける列車はすでになかった。3日目の札幌9:35発の列車に乗ると何本かを乗り継いで19:30に稚内に着く。これが最短である。

 1978年、青函連絡船から見た函館港。

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 1982年2月、青森港に停泊している青函連絡船。青函連絡船は1988年に廃止された。

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 大洗(茨城県)発のフェリー、新潟発のフェリーに乗っても似たようなものである。

 稚内に行くことを決めてから4、5日ほどの間、ジェットスターやバニラエアのセールを待ってみた。待った甲斐はなかった。セールの案内はあったが、搭乗期間が9月初旬を設定したものではなかった。仕方がない、海外用にとっておいたJALのマイルを使うことにした。稚内空港へのANA便があるが、ANAのマイルは必要マイル数を満たしていなかった。

 2014年6月20日の成田空港。下の写真はバニラエアの札幌行き。

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 北海道に鉄道で行ったのは3回しかない。最初に行った1978年は21日間有効の周遊券で周った。急行「いわて」(たぶんそういう名称だった)に乗って盛岡、青森経由で函館に入った。「いわて」は昼間急行である。あの頃は、常磐線を経由する上野発の盛岡行き列車があった。2度目は1993年(だったと思う)、青森行き「津軽」に乗った。3度目は2010年、青森を旅したときについでに函館に寄ってみた。青函トンネルを特急「スーパー白鳥」で抜けた。

 かって北海道旅行は鉄道で入るのが主流だった。みんな入口の函館から奥まで足を伸ばした。奥まで足を延ばせたということは、日本国有鉄道は廃線を進めながらも、まだ多くの地方交通線を残していたということである。それは北海道内に普通列車がそれなりに走っていたことを意味する。私は湧網線にも標津線にも日本一の赤字ローカル線である広尾線にも乗ることができた。

 2006年10月30日には標津線の廃線跡をレンタカーで周った。奥行臼駅の木造駅舎、詰所、線路が廃止時のまま保存されていた。文句のつけようがない。

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 2006年10月30日の標津線上武佐駅跡。ここは映画『遥かなる山の呼び声』(監督・山田洋次/主演・高倉健)で、逃亡中の高倉健が兄と会った場所。そのシーンをはっきり覚えている。高倉健の乗馬シーンがすばらしかった。

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 1978年の広尾線愛国駅。後ろに写っている車が古すぎる。

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 1990年代後半からは1年に1度のペースで北海道に行き始めた。すべて飛行機を利用した。その結果、北海道を分断する旅になってしまった。北海道の旅はエリアごとの旅になっていった。釧路空港に降り道東を周る、旭川空港か稚内空港に降り、道北を周るといった具合に、である。私のなかでの北海道も分断されていった。

  2006年10月31日の中標津空港。

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 2014年1月6日の釧路空港。

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 もっとつながっていた。“あの頃”の北海道は一塊りだった。つながるための鉄道網が北の大地に残っていただけではない。

 北海道に入る動脈は活気があった。上野駅地上ホームは心臓のポンプのように毎夜「津軽」「十和田」「八甲田」を青森に送り出していた。「あけぼの」も「鳥海」も「はくつる」も夜目を割いて関東平野を駆け抜けていった。
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