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日本細見紀行 

日本各地の旅日記
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独立国、大阪。陽が暮れかけた新世界を歩いてみた。

1日目  2015年7月20日  大阪(新世界)    

 今日を旅の初日としておこう。橋本駅から乗った南海電車が新今宮駅に着いたのは17:00前だった。駅とあびこ筋の間にあるホテル群の2つ3つが新しくなっていた。

 汚れた空気はあいかわらず街を蔽っていたが、その密度は以前より稀薄になった気がした。1980年代ぐらいまで一種のすごさを醸し出していた街が行き場を失った労働者たちの住み家であることに今も変わりはないが、その労働者に覇気がなくなってから、街の印象は薄められた。彼らの毒気は大阪の空に昇華していった。それは日本が不況に突入した時期であり、経済成長を底辺で支えた日雇い労働者たちが福祉の受給者に変わっていった時期と合致する。かってこの街の核にあったものは、全国の他の地域と変わらない高度成長という、ぎらぎらとした無自覚な向上心だった。

 その後つまり90年代以降、東京が国際化と情報化の刃を手にグローバリズムに参戦していったのとは異なり、街は衰退に向かった。その意味でも釜ヶ崎は東京を除く全国の地方と軌を一にする。ここは生身の人間が吐き出した分泌物が無造作に堆積しただけの街だった。

 街の印象を変えたのはそこらじゅうを歩いている外国人たちだ。旅行者である彼らは、「行ったらあかん」と何度も親に注意を受けながら育った浪速っ子が持つような不安も恐怖心も抱いていないように思われる。がやがや、すたすた、ぱきぱき、わいわいと歩いている。もちろん彼らが歩くのは観光地である。だから厳密にいうと、そこらじゅうを歩いているわけではない。アンタッチャブルな界隈に彼らはいない。彼らの持つガイドブックには新世界の案内ページはあっても、新今宮駅から三角公園辺りまでのエリア、あるいは飛田新地の案内はないだろう。

 彼らが舞い降りた街はファンキーでパンクな感じがする。街は変わるのだ。

 ここに来たのは3年ぶりぐらいだろう。ブログを書いている以上、念のために、過去の写真の撮影日を調べてみた。西成の写真は5年前のものがもっとも新しいものだった。そんなはずはないと思いさらに調べ直してみた。関西国際空港からフィリピンに向かう前に立ち寄ったはずであることを思い出し、海外旅行の写真フォルダを調べてみた。この前歩いたのは1年9ヶ月前だった。そのときは天下茶屋駅から乗った南海電車を萩ノ茶屋駅で降りて、新今宮駅辺りまでを歩いた。

 http://asiancafe9999.blog.fc2.com/blog-category-4.html 

 予約してあったビジネスホテル来山(らいざん)南館は阪堺電軌阪堺線の東側にある。この路面電車は昭和の風貌こそ脱ぎ捨てたが、南海電鉄の経営を離れたあと、よく持ちこたえている。地方私鉄の場合、鉄道会社の経営努力以外に、廃線を宣言されては困る自治体からの補助が期待できるが、都市部の鉄道の場合、地下化や高架化などの大掛かりな設備投資でない限り、天から降ってくる金は期待できない。

 車両にラッピングを施し、広告収入を得るというのはどこの鉄道でもやっている。長い編成の電車の全車両に統一されたラッピングを施すのはデザイン的に成功していることが少なくないが、1両の路面電車を広告で飾った場合はほとんどが失敗である。それは阪堺電軌も例外ではない。もっとも広告の目的は商品が認知され販売に結び付くことだ。目的が達成されていれば、デザインの良し悪しを論ずる必要はないかもしれない。

 この線路の東側と西側ではホテルの印象が異なる。西側の宿泊施設には労働者がわりと多く泊まっているが、東側には海外からのバックパッカーが多い。宿泊料金は東側のほうが少し高いはずだ。 

 ビジネスホテル来山南館は韓国人と中国人が多かった。外国人の宿泊客数は日本人の数を上回るだろう。3畳和室に2泊して4,800円。全部屋でWIFIが使える。宿泊先の情報化は外国人の、つまり国際化のおかげである。

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 外に出てみた。あびこ筋を天王寺のほうに歩いた。地下鉄御堂筋線動物園前駅から南に続く動物園前一番街のアーケード入り口周辺は閑散としていた。今日が連休であるからなのだろう。何度か歩いたことのある通りだが、いつもはもっと賑わっている。商店街の奥には飛田新地がある。

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 あびこ筋の北側のジャンジャン横丁に入った。新世界の入口である。ここも人が多くはなかった。少ない日本人を補てんしているのは外国人観光客だ。

 串焼きの店が増えている気がしたが、おそらく錯覚だろう。串焼き店は以前から多かった。パチンコ屋、麻雀屋、ゲームセンターは現代の遊興産業であるが、ここには古典的遊興産業がある。将棋の大将、碁の三桂クラブの前では足を止めてしまう。なかを覗いてみるというのは毎度のことである。こここそが新世界の象徴だ。串焼き店が2、3軒ぐらいつぶれても何の問題もないが、大将や三桂クラブがなくなるとなればマスコミが取材にやってくるだろう。

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 通りの壁にはジャンジャン横丁の古い写真が飾られていた。ジャンジャン横丁美術館と呼ばれている。このネーミングは新世界に似つかわしくない。

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 下の1枚は2009年4月に撮影したものだ。写真が替わったかどうかはわからないが、このときのキャッチコピーはどうやら”あのときキミは若かった”であるらしい。

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 世界的傾向といっていいのだろう。恋人たちが鍵を掛ける場所があった。誓いの鍵“新・世界の中心で愛を叫ぶ!”というパクリのネーミングはこの場所の名称として悪くない。本家、松崎(伊豆)の“世界の中心で愛をさけぶ”のほうはすっかり色あせているというのに。

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 下の1枚は、2012年6月に松崎(伊豆)で撮影したものである。

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 串焼き店の店頭にはビリケン像がある。ここまで多くの店にビリケンがあるのは、新世界の「売り」として意図的にビリケンを扱っているからだ。ビリケンは通天閣の公認キャラクターになっている。大阪の新世界でこれほど愛されるとは、生みの親であるシカゴのビリケンカンパニーは想像もしなかっただろう。ビリケンが日本に入ってきたのは明治時代である。当時の日本には多くのビリケンはあったというのが私の勝手な推測であるが、大阪にだけ残ったというのは、ビリケン像の持つ何かが大阪とフィットしたということだ。

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 今年の4月、境港(鳥取)でゲゲゲの鬼太郎とキティちゃんをコラボさせたグッズを見つけた。キャラクターの独立性を保つためにあまりこういうことをしないほうがいいと私は思っている(どうでもいいことだ)。まさかの発見というのは旅先でよくあることだ。まさかビリケンとキティちゃんがコラボしていようとは。もちろん大阪限定モデルである。

 通天閣の下を通り、阪堺線の恵比寿駅に着いた。ここは地下鉄恵比寿町との乗り替え駅でもある。途中にはおなじみのスーパー玉出があった。

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 阪堺線の線路に沿って新今宮駅前までの1駅分を歩いた。この辺りも2、3回は歩いたことがあった。普通の街であるが、おっちゃんたちはところどころの道端にいた。

 阪堺線に沿って新今宮駅前から北天下茶屋駅まで歩いたことがあった(2009年12月)。南海電鉄萩ノ茶屋駅からアーケードのある萩ノ茶屋本通商店街を東に抜けてきたところに高架になっている今池駅がある。その次の今船駅から北天下茶屋駅までの間は民家のなかを歩くことになる。それはとても大阪の下町らしいたたずまいの街並みだった。

 下の4枚の写真は2009年12月に撮影したものだ。阪堺線にはこんな家並みが続いていた。

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 新今宮駅から難波方面に歩くと今宮戎駅がある。ここにはスーパーレトロな駅舎がある。そこから汐見橋のほうまで歩いてもいい。もちろん三角公園のほうに行くこともできる。

 歩くルートは無数にあるし7月の陽はまだ沈んでいなかったが、なぜか疲れていた。北天下茶屋にも行かず今宮戎のほうにも歩かないで、ビジネスホテル来山南館にもどった。1時間ほどの散歩だった。
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おがさわら丸、復路で八丈島寄港! さるびあ丸で本土にもどる。 

9日目  2015年6月23日  八丈島  竹芝桟橋

 7:30過ぎに起きた。まだ少し眠い。太鼓の音が聞えた。八丈太鼓らしい。底土港のほうから聞こえてきた。

 少しあとで港のほうに行ってみた。白い船が底土港を出ていこうとしていた。

 おがさわら丸ではないのか。

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 ハッチ―・ジョーズ・ホステルの前にリュックを背負った1組の男女がいた。護神交差点のほうに歩いていった。スーツケースを持った男がタクシーを拾ってどこかに行った。どちらもさっきの船から降りてきたようだった。

 8:30、ハッチー・ジョーズ・ホステルをチェックアウトした。ダイビングショップにあるレセプションを覗いたが、誰もいなかったので、そのまま港湾ターミナルに向かった。

 東京・竹芝桟橋までのチケットを買った。2等和室で8,380円。窓口で、さっきの白い船のことを尋ねてみた。

 おがさわら丸だった。八丈太鼓の音が聞こえたとき、すぐにハッチ―・ジョーズ・ホステルを出ればよかった。

 1年に1度だけ東京からやってくるはずのおがさわら丸は八丈島底土港には入港しなかった。わざわざおがさわら丸に乗船して八丈島で下船する人もいるらしい。2015年6月19日にそれを試みた人がいたとしたら、その人は小笠原まで連れていかれてしまったわけだ。それはそれでいいではないかと思うが・・・、いやそんなことはどうでもいい。

 問題は、八丈島民の思いが裏切られたことだろう。私は1年に何度も旅に出るが、多くの人はそうではない。ずっと楽しみにしていた知床や十和田に2泊3日の旅をして、一生の思い出を作る人はいるだろう。

 小笠原行きを予定していた梁山泊のスタッフは私が入店した17日の深夜、営業を終えたあとに用意しておいた臨時休業の張り紙を入り口に貼ったのだろう。休業期間は6月18日~23日となっていた。小笠原諸島を楽しんだあと、さっき入港したおがさわら丸で八丈島にもどってくる予定だったのだ、6月23日の朝に。

 白い船体はひっそりと目立たずに底土港に入港し、出港していった。

 9:25、港湾ターミナル内にさるびあ丸への乗船案内が流れた。30人ほどが乗船した。

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 12:30、御蔵島港に入港した。1人が下船し15、6人が乗船した。1週間前に降りた港なのに、遠い昔に来た感じだった。

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 船内に蛍の光が流れ、さるびあ丸は出航した。

 13:30、三宅島に入港した。2010年の三宅島もこんな風景だった。風景というのは目に焼き付くものだ。多くのことを忘れているはずなのに、多くのことを思い出した気がした。6人が下船し50人以上が乗船した。

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 船内に蛍の光が流れ、さるびあ丸は出航した。

 14:40頃、食事をするためにレストランに行った。レストランは常時開いているのではなかった。昼の時間帯は12:30―14:30で、次は夜の時間帯を待たなければならないらしかった。自動販売機で買ったカップヌードルを食べた。

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 同じスペースに若いママと2人の子供がいた。子供が遊びにきた。旅日記を書きながら、相手をした。

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 さるびあ丸は夕暮れの浦賀水道に入っていった。横須賀火力発電所はそこが東京湾の入り口であることを示す海のランドマークである。さるびあ丸は12ノットに減速した。東京湾では航行のスピードに制限があるらしい。

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 レインボーブリッジを潜った頃には雨になっていた。8日前の22:30過ぎ、東京の灯は暗かったが、今日はまだ夜が早い。湾岸には色とりどりの灯があった。

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 さるびあ丸が竹芝桟橋に着いたのは定刻の19:50だった。

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 今回の旅程を記しておく。

 宿泊先の予約をせずに上陸するわけにはいかない。だから島旅の場合、計画を立てることになるが、予定が延びることを考慮し、わざと最短のスケジュールを組んでいた。6泊7日(船内1泊、御蔵島1泊、八丈島3泊、青ヶ島1泊)の旅程にしていたが、御蔵島のイン・アウト、青ヶ島のイン・アウトの4つの行程のどこかでスケジュールを延期せざるを得ないと予想していた。

 青ヶ島行きが1日延期になった。週4便しかないあおがしま丸の日程の都合上で、青ヶ島滞在が1日延びた。最終的には8泊9日(船内1泊、御蔵島1泊、八丈島4泊、青ヶ島2泊)となった。

 この時期においての2日間の延期は上出来だ。よかったね、という青ヶ島からの声が聞こえてきそうだ。1週間青ヶ島から出られないこともあるのだから。

 8泊9日の旅は以下の通りである。

 6月15日(月) 竹芝桟橋22:30発           (船内泊)
 6月16日(火) 御蔵島  5:55着           (御蔵島泊)ゲストハウスMITOMI 
 6月17日(水) 御蔵島  6:00発 八丈島 8:50着 (八丈島泊)ハッチー・ジョーズ・ホステル  
 6月18日(木) 八丈島                    (八丈島泊)ハッチー・ジョーズ・ホステル  
 6月19日(金) 八丈島                    (八丈島泊)ハッチー・ジョーズ・ホステル  
 6月20日(土) 八丈島  8:50発 青ヶ島11:50着  (青ヶ島泊)民宿マツミ莊  
 6月21日(日) 青ヶ島                   (青ヶ島泊)民宿マツミ莊
 6月22日(月) 青ヶ島 13:10発 八丈島16:10着 (八丈島泊)ハッチー・ジョーズ・ホステル  
 6月23日(火) 八丈島  9:40発 竹芝桟橋20:45着

わりと人気の青ヶ島。SHELLYの泊まった部屋に泊まった。

8日目  2015年6月22日  青ヶ島  八丈島

 カーテンが薄すぎる。早朝、部屋に光が入ってきた。だいじょうぶ、今日は晴れるようだ。あおがしま丸はやってくるだろう。安心してまた眠った。

 8:00前に朝ご飯を食べた。

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 暑い1日になりそうだった。20分ほど集落を歩いて部屋にもどった。ぼんやりと過ごした。旅日記はまったく進まなかった。

 10:30頃、5食分を含めた2泊分の宿泊費15,200円を支払った。11:30に車で港まで送ると言われた。

 警視総監を乗せたヘリコプターがやって来るのは12:15だ。これはなかなか得ることのできない情報である。昨日乗せてもらった車を運転していたお爺さんも、夜ご飯をいっしょに食べた留学生や仕事で宿泊している人も知らなかった。2013年12月の南大東島で、極秘にやってきた嵐の情報を得ていながら、見ることができなかったのを残念に思っている。今回は追ってみたい。

 ドラマ「踊る大捜査線」で、室井管理官(柳葉敏郎)が警視庁のヘリで降りてきて、青島俊作(織田裕二)がお台場にまだ残っていた原っぱで待つというシーンがあった。2人が2回目か3回目に会ったシーンだった。最終回、「今度、きりたんぽでも食おう」と言った室井に、青島は「ヘリで迎えに来てください」と返す。会って間もなかった頃のことを2人が覚えていたことを示すシーンで、視聴者にあのときのヘリを思い出させるようなセリフだった。

 警視庁のヘリを見にいくことができないかをご主人に尋ねてみた。

 帰れなくなるよ 

 あおがしま丸の出航時間は13:10なのだが、チケット売り場が開いている時間は限られていて、早く閉まってしまうらしい。警視総監が島に降り立ったのを確認したあと、速攻で三宝港に送ってもらうプランは消えた。

 警視総監からメダルをもらっているよ
 えっ

 見せてもらった2つのメダルは警視総監から送られたものだった。天皇陛下を迎えた式典に参加した写真も見せてもらった。

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 ご主人のことをいろいろ聞くことになった。名前は佐々木宏さん。

 2日前の6月20日の旅日記に次のように書いた「1817年(文化14年)、佐々木次郎太夫伊信が青ヶ島の名主とり、青ヶ島の見分を実施し、復興計画を立案した」。

 佐々木宏さん と 佐々木次郎太夫伊信

 同じ佐々木姓である。2日前警察官は言っていた「島の人の多くは親戚なので・・・」

 これについて調べてみた。2013年9月2日に選挙があった。村長選挙は12年ぶり、村議会選挙は8年ぶりだった。つまり前回(あるいは前々回)が無投票当選だったということだ。

 当選者の名前(姓)は以下の通りである。

 村長 菊地利光 
 村議員の当選は6名。うち菊地姓が3名、佐々木姓が2名、広江姓が1名であった。

 「島の人の多くは親戚」でまちがいないようだ。広江姓の人は青ヶ島出身ではなかった。

 そのときの有権者数は138人で投票率は76.09%。6番目の当選者の票数は13票で、8票で落選という結果であった。村議員はそれぞれ29歳、30歳、44歳、53歳、54歳、67歳で、平均年齢は46.16歳である。

 2000年以降の村長、村議会選挙の投票率は75%~85%。都市部とは異次元の投票率の高さである。これでは誰が誰に投票するのかがわかってしまう。気楽に一票を入れるというわけにはいかない。島民にとってはやりにくい選挙であるといっていいだろう。

 佐々木宏さんつまりご主人は、天明の大噴火のあとの39年間、八丈島に避難した島民が青ヶ島にもどったときの立役者である佐々木次郎太夫伊信の末裔だった。

 また1989年(平成元年)から3期12年の間、青ヶ島の村長だった人である。

 離島新興に力を尽くした人だった。学校の新築、平成流し坂トンネルの建設、インターネットの普及など、現在の青ヶ島の多くを作った人だった。都知事に関する話、皇室に関する話、伊豆諸島に関する話などを聞かせてもらった。

 ご主人はまた、青ヶ島にやってきた多くの芸能人を案内していた。

 多くの芸能人を一挙に送り込んだのは、テレビ朝日「いきなり!黄金伝説。」である。2013年12月26日の「2013芸能人サバイバル対象6時間SP東京都断崖絶壁の火山島2泊3日」で、ローラ、SHELLY、菊地凛子、いとうあさこ、濱口優(よゐこ)、有野晋哉(よゐこ)らが青ヶ島にやってきた。

 たまたま、ローラとSHELLYがシンクロ元日本代表の木村真野、紗野姉妹といっしょに青ヶ島にいるところをテレビで観ていた。

 その番組内で、(故)今井雅之、タカアンドトシ、チュートリアル、坂上忍らは青ヶ島に行く予定であったが、飛行機や環住丸(2013年当時航行していた船)の欠航で青ヶ島に渡ることができず、八丈島などでキャンプを張ったようだ(実際のところはよくわからなかった)。

 私が2泊した部屋にSHELLYが泊まったらしい。ご主人は、SHELLY部屋と呼んでいた。

 ほとんど同じ時期の2013年11月5日放送のテレビ東京「ありえへん∞世界、99%行った事ない!? 観たら必ず行きたくなる島SP」では、硫黄島(鹿児島県)と青ヶ島が取り上げられたらしい。青ヶ島は無番地である。番組を観ていないが、島名と相手の氏名を書けば、郵便が届くことなどが紹介されたのだろう。

 青ヶ島は隠れたブームなのかもしれない。兎原シイタの「島カレ」という漫画は、青ヶ島が舞台である。「島カレ」のなかでは、男ヶ島となっているらしい。父親の仕事の事情で絶海の孤島にやってきた普通の女子高生である花が主人公。私が知っているのはそこだけである。漫画家はビジネス宿中里に泊まったようだ。

 12:00前に、留学生2人と私はご主人の車で民宿マツミ莊を出た。

 三宝港で八丈島までのチケットを買った。2日前の6月21日に同じ船で青ヶ島にやってきた人が全員揃った。今日の乗客は、留学生2人組、Iさん夫婦、女性2人組、女性4人組に私を加えた11人だけだろうと思っていたら、島民らしい数人が加わった。

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 やってきたあおがしま丸から何人かが下船し、八丈島に向かう乗客が乗り込んだ。

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 あおがしま丸が島を離れていく。しばらくデッキで、離れていく青ヶ島を見ていた。

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 船室にもどって旅日記を書いた。横になったとき寝てしまった。

 遅れて出航したあおがしま丸は16:00過ぎに八丈島に着いた。八丈島の底土港でIさんと留学生2人組と別れた。彼らは東京にもどるためタクシーで八丈島空港に向かった。別れ際に、Iさんが採取した昆虫を見せてもらった。

 ハッチ―・ジョーズ・ホステルにチェックインした。スタッフは私が青ヶ島に行ったことを覚えていた。

 どうでしたか?と尋ねられた。よかったと返した、もちろん。

 護神交差点まで歩いた。梁山泊の臨時休業の案内は入り口に貼られたままだった。17:00前ではどの食堂も開いていなかったが、交差点を越えたところの宝来軒は営業中だった。食堂の一角で衣類が売られていた。

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 明日葉ラーメンを注文した。麺に明日葉が含まれているだけでなく、具としても明日葉が使われていた。

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 ハッチ―・ジョーズ・ホステルの宿泊客は今夜も私1人である。

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(付記)

 6月には海外に行こうと思っていた。4月以降で、円が(1ドル=)118円台にもどしたときにドルとユーロを買おうと思っていた。ほんの一時期、(1ドル=)118円台になったが、ぼやぼやしているうちに買いそびれてしまった。その後円安は加速し、あっという間に125円台になってしまった。それですっかり行く気が失せてしまった。そうこうしているうちに5月が終わりかけ、FIFA女子ワールドカップが迫ってきた。6月の海外旅を止める2つ目の理由が見つかった。

 今日は7月6日である。4時間後に決勝戦が行われる。運命の一戦である。スイス戦で骨折した安藤梓は一昨日、試合会場のあるバンクーバーに入った。安藤梓が青ヶ島小中学校の一日校長先生としてやって来たのは、2013年7月11日のことである。体育の授業でサッカーをやったらしい。背番号7はビジネス宿中里に宿泊していた。

青ヶ島の二重火山の間を歩いてみた。

7日目  2015年6月21日  青ヶ島

 朝ご飯を食べたあと、部屋でテレビを観ながらぐずぐずしていた。

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 東邦航空の東京愛ランドシャトル12便、つまり八丈島行きのヘリコプターが朝、出発であることをふいに思い出した。慌てて出発時刻を確かめた。ぐずぐずしているわけにはいかなかった。民宿マツミ莊を飛び出した。

 ヘリポートに向かって歩いている途中、バリバリバリと空気を切り裂く音が聞こえてきた。海からやってきたヘリコプターは50mほど先のヘリポートに降りていったが、着陸シーンを見ることはできなかった。

 ヘリポートには、昨日話をした警察官がいた。民宿マツミ莊のご主人も来ていた。ヘリポートに来るのなら車に乗せもらえばよかった。ヘリコプターから降りてきた何人かのなかに2人の学生がいた。2人は民宿マツミ莊の車に乗った。

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 9:45、ヘリコプターは客を乗せて八丈島に向けて飛び立った。ヘリコプターの離陸シーンは格好いい。

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 集落を少し歩いたあと、島の中央部をめざすことにした。島の東側を南のほうに向けて歩いた。1本道なので迷うことはない。

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 左手に名主屋敷跡のほうに降りていく道があった。あとで寄ることになるだろうが、無視して歩いた。右手に、急きょ作ってみましたといった感じの清受寺があった。脇に大里神社に続く道があった。この道も無視して先に進んだ。

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 道路脇の草木の間にあまり見かけない蝶が飛んでいた。道にカミキリ虫がいた。

 集落を出て1.5kmぐらい歩いたところから、急な下り坂になった。その先に平成流し坂トンネルの入り口が見えた。入り口の手前には、旧道だと思えるつづら折りに下に降りる道があった。

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 二重火山の内側のほうにある木々の周りでカナブンが飛んでいた。数の多さは異常だった。昨日、歩いているとき2匹のカナブンの直撃を受けていた。1回目は顔に2回目は体に当たってきた。うまくいけば未確認飛行物体の写真になるかもしれないと空中に向けて10枚ほど撮ってみたが、衝撃の写真をモノにすることはできなかった。

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 10:30頃。このまま歩き続ければ、島の中央部である池之沢地区を通り丸山の麓ぐらいまでは行けそうだ。しかしそこまでだろう。今日は民宿マツミ莊で昼ご飯を用意してもらっている。一度、もどって出直すことにした。

 昼までにはまだ少し時間があったので、さっき通過した名主屋敷跡には寄ってみることにした。集落から300mほどの地点までもどったところで右の道に入った。そこは坂になっていた。途中から人が1人通れるほどの、狭く苔むした坂の道になった。外輪山の外側つまり海側に降りてゆく道である。道は海まで続くのかと思われたが途中に玉石を重ねた石垣のある場所があった。

 そこが名主屋敷跡らしい。木々に覆われて全体が湿った場所だった。名主の名前を2人知っている。天明の大噴火のあとの39年間に活躍した三九郎と佐々木次郎太夫伊信である。どちらの屋敷跡かはわからない。あるいは別の名主跡なのかもしれない。首相官邸のように、名主屋敷には歴代の名主が住んでいた可能性もある。

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 11:30頃、民宿マツミ莊にもどった。

 昼ご飯はカレーだった。今朝のヘリコプターで着いた2人組がテレビを観ながら先に食べていた。早稲田大学と神戸大学に留学している香港の学生たちだった。2人は友人同士である。神戸大学の学生は流暢に日本語を話し、早稲田大学の学生は流暢とはいえないが、私が話すことは大体わかるようだった。

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 星を見るためにやって来た、と彼らは言った。冬には満天の夜空を見ることができるだろうけれど、雨の季節ではむずかしいだろう。この旅の6日目に当たる昨日、ようやく空に青が現れたが、今日は曇っている。

 1週間ほど前、ネット上で篠原ともえの書いた文章を見つけていた。そこに青ヶ島の星のことが書かれていた。文章は「東京都青ヶ島村は私の母の故郷で大好きなおばあちゃんが住んでいます。わたしが初めて青ヶ島に行ったのは、7歳の頃。家族で飛行機と船を乗り継ぎ、夏休みに毎年恒例の牛祭りに遊びに行きました」と始まっていた。タイトルは「星の箱船・青ヶ島」だった。

 2010年には青ヶ島でライブを開催したらしい。次のように書かれていた。

 ライブ前日に青ヶ島で撮影した星の映像の中、歌いました。星空の映像を投影した瞬間に島のみなさんから歓声が上がった時は、とても嬉しかったです!

 昼ご飯のあと、外に出た。午前中と同じルートで内輪山のなかに向けて歩いた。昼前に引き返したところまで歩いた。

 平成流し坂トンネルの手前に車が停まっていた。車の外にいたのは、昨日あおがしま丸でいっしょにやってきたIさん(名前を知ったのは翌日である)。昆虫の研究をしている人である。

 午前中に歩いたとき、昆虫の写真を何枚か撮っていたので尋ねてみた。昆虫の名前を教えてもらったが、忘れてしまった。旅日記を書くに際してもう一度調べた。

 道路をはっていたのはゴマダラカミキリだった。蝶はヒメアカタテハという種類だった。蝶が羽根を開いたときに写真を撮るのは意外とむずかしい。カナブンの名前はわからなかった。

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 カナブンについては思わぬ情報に触れることになった。昨日青ヶ島村役場でもらった広報あおがしまの最新号は、もちろんネット上で見ることができた。さらに古い号を見ていたとき、思わぬ発見をした。平成26年8月15日発行、第289号、広報あおがしまに「かなぶん駆除大会」の記載があった。捕まえた数のランキングが載っていた。1位の人はギネスブックに載るのではないか。

 1位 ○○○○さん 16,400匹 
 2位 ××××さん   2,600匹
 3位 △△△△さん  1,500匹
 ・・・・・・・・・

 青ヶ島でカナブンは大量発生している。カナブンは野菜の葉を食うカナブンは害虫扱いになっていて、中学生以下の子供がカナブンを捕まえて牛祭りの会場に持っていくと1匹2円(10匹単位で受け付け)もらえるらしい。

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 篠原ともえの記事にも書かれてあった牛祭りとは、毎年夏に行われる青ヶ島最大のイベントである。前夜祭と合わせて2日間、毎年8月に行われる。和牛共進会、品評会(園芸、手芸品、農林水産物、手芸品など)、島踊り、環往太鼓、相撲(ちびっこ、子供、大人)などが行われる。牛祭りに参加するために島に帰ってくる人も多く、祭りを見にくる旅行者もいるようだ。

 平成流し坂トンネルを抜けて行くと遠回りになる。トンネルの手前にあったつづら折りの急な坂道を降りた。車が通れるほどの道幅はあるが、車の通った形跡はほとんどないので、道路の中央部は苔むしていた。池之沢に向かう島民は車でトンネルを潜るので、ここを歩くことはない。歩くとしたらレンタカーを利用しない旅行者だろう。

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 池之沢地区に入った。池之沢自動車修理工場の前を通り、外輪山の内側を歩いていく。途中で左折し、丸山のほうに向かうところで留学生2人組に会った。彼らは丸山に登ったようだ。かなりきつかったらしい。

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 途中で分かれる道があった。その辺りは地図と異なる感じがしたが、適当に歩いていくと、池之沢キャンプ場に出た。道をまちがえたわけではなかった。いくつかの施設がこの辺りにあった。

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 丸山への道を登った。坂はゆるやかではないが、十分に歩ける道だった。丸山山頂は211m。登山というほどではない。

 坂の上で、丸山一周遊歩道に入ったようだ。右は御富士様、左は尾根道という案内板があった。時計回りに、つまり御富士様の方向に歩いた。道は細く草も生えているが、十分歩ける。御蔵島や八丈富士と比べると楽なものだ。

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 5分ほど歩くと展望広場に出た。そこは内輪山と外輪山の間にある池之沢地区を見渡せる高台であったが、広場というのは嘘である。まったく広くない。狭いこと極まりない。

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 丸山(内輪山)と外輪山の間にある池之沢キャンプ場、青ヶ島ふれあいサウナ、青ヶ島製塩事務所などが見えた。

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 丸山周遊道路の入り口から展望広場までは一周の1/8ぐらいの距離である。

 さらに時計回りに歩いていく。ここからは大変だった。留学生たちが言っていたとおり、歩くのは大変だった。道は人が1人通れるだけの幅しかなかった。草の背丈は高く、横からはみ出てきた細い竹や木の枝が進路をふさいでいた。小さくうねりながらどんどん下に降りていく。

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 いったいどこまで降りるのだというくらい降りていったところで、草にあふれていた道は終わった。そこが案内板に、休憩所2と書かれていた場所のようだ。そこからは2、3人が通れるほどに道幅は広がった。草は刈られていた。おそらく7月から始まる観光シーズンに向けて丸山周遊道路を整備したのだと思われる。もう少しあとに青ヶ島に上陸したなら、丸山周遊道路入り口から休憩所2までも草は刈られ、歩きやすくなっているのかもしれない。

 山歩きで一番嫌なのはアップダウンである。せっかく登ったのに、またダウンさせられ、高さをもどすためにアップをさせられるぐらい嫌なことはない。しかし道が整備されていたので、あまり苦労することなく登り坂を歩けた。丸山周遊道路の案内板のところまでもどり、池之沢キャンプ場のほうに降りていった。

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 昨日、船でいっしょだった女性2人組が露天のテーブルで食事をしていた。キャンプをしたようだ。

 青ヶ島ふれないサウナがあった。閉鎖されていると民宿マツミ莊のご主人に聞いていた。2015年5月25日、レジオネラ属菌が検出されたという張り紙が入り口にあった。再開に関する記載はなかった。

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 奥のほうに青ヶ島製塩事務所があった。ひんぎゃの塩がここで作られているはずだ。「ひんぎゃ」は島言葉である。火山からの蒸気が吹き出ている火山噴気孔を「ひんぎゃ」という。事務所の前に立ったとき、たまたま人が出てきた。見学させてもらえるかどうかを尋ねてみた。髪の毛や衣服に付着しているゴミが混入する可能性があるので、今は見学を受け付けていないと丁寧に断られてしまった。地熱を利用すること、1か月かけて結晶化させることが青ヶ島製塩事務所のHPに書かれていた。

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 周辺をぶらぶらして、といっても何もすることはない。少しの間、東屋で休み集落にもどることにした。

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 池之沢自動車工場の手前まで来たとき、うしろからやってきた車が止まってくれた。ありがたかった。つづら折りの道を登るのは嫌だと思っていた。車はつづら折りの道ではなく平成流し坂トンネルを走った。

 乗せてくれたのは、青ヶ島出身ではないけれどずっと島に住んでいるお爺さんだった。畑仕事で池之沢に来ていたらしい。島はいいよ、と話してくれた。

 集落にもどる途中にある大里神社に行こうと思っていた。東台所神社よりきつい坂があるとIさんが言っていた神社である。車に乗せてもらったことですっかり忘れてしまった。降ろしてもらったのは民宿マツミ莊の前だ。大里神社はそこから、来た方向に500mほどもどり、急な玉石の階段を登ったところにある。車で送ってもらったあとで、もどる気はなくなっていた。

 夜ご飯の席には、留学生2人の他に仕事で島を来ている人がいた。伊豆諸島の島々を定期的に移動して仕事をしているようだ。民宿マツミ莊を青ヶ島の定宿にしているらしい。ご主人とは何年も前からの知り合いである。

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 民宿で3度の食事をしたことで、腹がいっぱいだ。それは予想していたことであった。もんじという飲み屋に行こうと思っていたが、止めた。

 小雨が降ってきた。明日、まちがいなく船は出るとご主人は言っていたが、大丈夫だろうか。

コンテナで乗船! いざ青ヶ島へ!

6日目  2015年6月20日  八丈島  青ヶ島

 何が何でも行きたいという強い思いがあったわけではない。ただ思いは消えなかった。それが15年ほど前からだとしたら、イチローがシアトルに移籍するぐらいの頃からということになる。さまざまなサイトでイチローの記事に触れる1%ぐらいは青ヶ島関連のHPを見たかもしれない。

 八丈島のさらに南にある小笠原諸島は世界遺産に登録される前から華やかな雰囲気があった。それは絶海の島としての魅力で、リゾートとしての価値を含んだものだった。上陸に時間がかかることが、逆に人気の理由にもなっていた。それに比べれば、青ヶ島は誰にも知られず、地味な存在だった。八丈島の裏庭にひっそりと隠れるようにいつもそこにいた。地味な8番バッター、そんな感じだった。

 東京都のなかでは、青ヶ島は最も行きにくい場所である。日本全国の行きにくいランキングでも、20位くらいには入る気がする。

 飛行機で八丈島に着き、東邦航空のヘリコプターに乗るのがもっとも早く行く方法である。羽田空港から八丈島空港へは、かって1日6、7便(うろ覚え)のフライトがあったはずだが、現在は1日3便となった。運行距離だけを考えると他路線に比べ割高である羽田・八丈島便であるが、東海汽船との料金比較をすると飛行機は有利なように思える。船と飛行機の料金差は大きくはない。羽田・八丈島間のシェアについては、ANAは東海汽船に勝っているように思うが、そういうなかでの減便に次ぐ減便である。それは八丈島の人気がなくなっていることを意味している。

 グローバル化を着実に推し進めているANAの経営全体からすると重要ではないこの路線はそれでも生き残るだろう。羽田空港の使用を円滑にしておくための東京都への配慮であり、保険だと私は密かに考えているが、どうだろう。青島幸男のときは組みしやすかったかもしれないが、石原慎太郎、猪瀬直樹、舛添要一と強烈な論客でやり手である都知事がここ3代、続いている。彼らにへそを曲げられると面倒なことになるに決まっている。のと里山空港(石川県)ほどの支援を地元から得られるはずはないとわかっていても、今後も週3便ぐらいは残さなければならないだろう。東京都も5年に一度くらいは東京十一島への旅行者に補助金を出すこともあるし。

 7:00過ぎ、HPで運航状況の確認をした。あおがしま丸は動くようだ。なぜか出航時刻が変更されていた。もともと土曜日(今日)は9:50発であるが、8:50発になっていた。

 7:30頃、民宿マツミ莊に電話を入れた。昨日、キャンセルした民宿である。今日、あおがしま丸が出航することがわかっているのなら、昨日の予約を今日にずらしてもらえばいいだけなのだが、今日の予定は今朝になるまでわからなかったので、昨日の時点では一度キャンセルにしていた。

 部屋は空いていた。それはなんとなくわかっていたことではあった。昨日はヘリコプターも飛ばなかったので、青ヶ島を出た人も入った人もいない。島の人口は動いていない。昨日予約した部屋が今日空いている可能性は高かった。それでも、もともと今日の予約がいっぱいだということもあるので安心はできなかった。

 7:50、チェックアウトをしようとしたが、隣のダイビングショップのなかにあるレセプションには誰もいなかった。ショップの入り口は開いていたし、なかでは音楽が流れていたので、スタッフはちょっと外に出ているのだろう。10分ほど待ったが、誰も来ないので勝手にチェックアウトした。

 あおがしま丸の出航時刻はネットで確認した8:50発ではなく、8:30発だと港湾ターミナルのなかに掲示されていた。尋ねてみると、8:30は乗船時刻らしい。

 6月の青ヶ島までの運賃は2,660円。5月が2,550円であるのはわかるとして、旅行シーズンとなる7月のほうが2,620円と値下がりするのはなぜなのだろう。単なる燃油サーチャージの問題なのだろうか。

 さっき私が尋ねた人が追いかけてきて、出発時刻の修正が伝えられた。8:30が出航時刻というのが正しいらしい。最初に出航時刻が9:50から8:50に変更になっていた理由は、昨日の金曜日の欠航により積めなかった貨物を今日は積み込むからということであったが、いまいち内容を理解できなかった。そのあと8:30になった理由は、午後に波が荒くなる可能性があるので早いうちに出航してしまおうと判断したということだった。これは理解できた。

 ハッチー・ジョーズ・ホステルに電話を掛け、チェックアウトしたことを伝えた。6月22日の宿泊を予約しておいた。

 港湾ターミナルを出たところで港湾の関係者と話をした。

 昨日おが丸(おがさわら丸)は入港しなかったんですよね(私)
 ここだけの話、おが丸は接岸できたかもしれないんだよね(港湾関係者)
 そうなんですか!
 船長の判断だから 船長は絶対だからね
 ですよね
 おが丸はさ (港に)こういうふうに入れるんだよ そうすると(港を)出るときに、(船をこう)反転させなきゃならない 船長はそれを無理だと考えたんだろう なんとかなったとは思うよ
 ・・・・
 かわいそうなことをしたよ みんな楽しみにしていたのに

 上の会話を書いていいのかどうか迷った。おがさわら丸の船長の批判っぽくなっている。誰がそういうふうに喋ったんだとなるかもしれない。しかしおがさわら丸は八丈島の人たちに愛されていた。「おがさわら丸、八丈島寄港」への私のオマージュとして書いておく。

 おがさわら丸! 来年こそは八丈へ

 青ヶ島に行く人は、夫婦1組、若い2人の女性、若い4人の女性(水商売らしい)、私。総勢9人である。港湾ターミナルを出た9人はみんな、あおがしま丸の接岸状況を見守っていた。

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 あおがしま丸は岸壁に横付けしたものの、船体は2、3mほどの上下動を繰り返していた。船首の部分が沈むと船尾が浮き、またその反対になる。空は青色を見せているが、波はまだ十分に荒い。10分ほど待っても船の揺れがおさまることはなく、接岸したまま、あおがしま丸は船首と船尾の上下動を繰り返していた。

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 埠頭から船にブリッジを掛け乗船させることはできないと判断したようだ。作業車でコンテナが運ばれた。

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 コンテナで乗船することになった。青ヶ島の三宝港では以前、鳥かごで乗船していたはずだが、とっくになくなっている。八丈島の底土港で、コンテナ乗船するなんて聞いたことがなかった。それほど波は荒い。

 コンテナはクレーンの前に置かれた。コンテナに乗り込む。みんな興奮している。女性4人組は興奮を抑えきれなくて、わあーとかすげぇと叫んでいた。これでこそ1日待ったかいがあったというものだ。

 コンテナの内側の四方には手をつかむところがある。それにつかまって振り落とされないように準備した。コンテナの扉のところには港の作業員が立った。コンテナはクレーンで持ち上げられ、あっという間に船上に降ろされた。

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 南・北大東島での乗船・下船で鳥かごのなかに4回入った。今日はコンテナなので外は見えなかったが、十分満足できた。
 
 出航は8:50過ぎとなった。20分ほどデッキにいた。海から眺めた八丈島の緑はうつくしかった。

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 船酔いをしたことが何度かあった。ホニアラ・ツラギ間(ソロモン諸島)、ペナン島・ランカウイ島間(マレーシア)、下田・神津島間では船酔いで吐いた。あおがしま丸は揺れた。乗船中まっすぐ歩くことがむずかしいこともあったが、出航の30分前に飲んだ酔い止めの薬は効いたようだ。最後まで酔うことはなかった。やることがないので旅日記を書いた。

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 11:00過ぎ頃から青ヶ島が見えてきた。島に近づくにつれ、平地がないことがはっきりしてきた。断崖絶壁の島である。港を造るのは大変だっただろう。

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 波は荒く、接岸には船員も三宝港の作業員も全力でロープを引いたりした。あおがしま丸の接岸は島最大のイベントである。岸壁に付けられている接岸クッションはボロボロだった。接岸の際、船体の側面が何百回何千回も激しく岸壁に当たった証拠である。

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 埠頭から掛けられたブリッジを渡って下船した。

 三宝港はコンクリートがむき出しの港だ。コンクリートのオブジェというより未完成の宇宙基地のようだ。山の斜面が崩れ落ちないようにコンクリートで固められていた。

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 埠頭を少し歩いたところで宿泊先の出迎えの人たちが待っていた。1組の夫婦、女性2人組、女性4人組、私はそれぞれ異なる民宿を予約していたようだ。

 民宿マツミ莊の車に乗った。

 三宝港は島の南西部、集落は北東部にある。三宝港を出た車は青宝トンネルを抜けた。トンネルの出口は外輪山を抜けた島の内側である。青ヶ島は島の周辺が外輪山になっており、外輪山の外側はそのまま海に落ちている。

 車は外輪山の内側にある道路を半周し、島の東のほうからつづら折りの道を登り始めた。途中の平成流し坂トンネルを抜け、少し走ると集落に入った。集落に全島民が住んでいる。

 車のなかでご主人と話をした。

 1週間は帰れないよ(←どうやら決まり文句らしい)
 やはりそうですか
 ・・・・・・
 なんでこんな何もない島に来たの? 
 なんとなく 前から来たかったので
 昆虫とか花とかに興味があるとか?
 いえまったく
 ・・・・・・

 (女性4人組が乗っている車が前を走っていた。その車を指して)
 運転しているのは親戚なんだけれど 乗っているのは八丈島のスナックで働いている子たちだ
 (やはり)

 民宿マツミ莊が一番港に近いらしい。それは集落の端のほうにあることを意味した。

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 2階の部屋から海が見えた。

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 集落のある一帯を西郷・休戸郷(にしごう・やすんどごう)というらしい。部屋で少し休んだあと、歩いてみた。民宿マツミ莊の近くに警察の駐在所だった。街を歩くとき、美術館、博物館を除いた公共施設は旅の見どころではないが、島の公共施設はすべて見学の対象だ。警察の駐在所、学校、郵便局、役場、ヘリポートなど。信号機も民宿や商店も見学の対象になる。

 青ヶ島村役場、青ヶ島小中学校、青ヶ島村立図書館・武道館、青ヶ島村「おじゃれセンター」がほとんど同じ場所に集まっていた。土曜日なのに開いていた村役場で「広報あおがしま」の6月15日号をもらった。どの市町村でも月ごとに発行している広報紙だ。2015年6月1日現在、世帯数109、人口は170人(男94人、女76人)らしい。

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 あるブログに、仮に青ヶ島に200人の中国人が移住したら、という設定があった。村長が中国人、村議会の過半数を中国人が握ることは容易である。ある日突然、村議会で、青ヶ島村の独立が承認される。『沈黙の艦隊』のやまとのように。中国が、独立国「青ヶ島」を承認したら・・・。中国は国連の常任理事国であるので、それなりにやっかいなことになるだろう。この設定には、外国人に地方参政権を与えた場合の問題点が隠されている。

 別の角度から似たような設定をしてみよう。原子力発電所は人口の少ないところを狙って建設された。仮に1基の原子力発電所ごとに10億円が地元に還元されるとすると、人口2,000人の村では1人当たり50万円という計算になる。200人の村では1人当たり500万円。人口が200人程度になった村は周辺の市町村の反対を押し切って原子力発電所を誘致し、もらった金を住民で山分けし、そのあと村を解散する。住民は当座の資金として500万円を持ち日本各地に散ってしまうというシナリオはどうだろう。村の人口はゼロになるのだから、村長はいないし村議会もなくなる。村が消滅し原子力発電所は残る。日本の人口が8,000万人程度になれば、こういうことが可能になるかもしれない。

 人口が少ないということ自体がさまざまな問題を発生させる。

 青ヶ島村「おじゃれセンター」は医療・保健・福祉施設が一体となった総合施設だ。島民の憩いの場になっているというこの建物に入ってみたが、誰もいなかった。青ヶ島小中学校のすぐ下の道路があり、立派な体育館があった。

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 やよい莊という廃業したらしい民宿があった。

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 神子ノ浦展望公園に行ってみた。海を見渡せたが、海を見渡す場所はほうぼうにある。ここは島なのだ。雨続きのこの旅で初めて見た明るい空と青い海だった。

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 集落の真ん中にもどり、北のほうに続く坂を降り、そして登った。墓の近くにヘリポートがあった。草と竹と木をかき分けながらヘリポートの奥に入っていった。まったく手入れされていない金毘羅神社があった。

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 水を飲みたかった。商店を探しながら青ヶ島役場の周辺までもどった。2人の女子中学生と1人の男子小学生が何やら話をしていた。

 あんた、連れていってあげなさいよ、と女子中学生が言った。さりげない上下関係あるいは姉弟関係の犠牲になった小学生が飲み物を売っている店に私を案内してくれた。

 島で唯一の商店だった。十一屋(といちや)酒店。店の前に猫がいた。飲み物、生鮮食品、菓子類、生活雑貨が一通り置いてあった。以前、商店はもう1軒あったそうだが、廃業したらしい。

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 水のボトルを買って、大凸部(おおとんぶ)をめざした。郵便局の横を通り、坂を登っていく。もんじという飲み屋らしきものがあったが、廃業している気配だ。たまたま近くを通った人に尋ねてみた。営業していると教えてくれた。

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 舗装されていた道はやがて中央が苔むした道になり、道幅は狭くなり、最後には山道になった。

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 草が生い茂る山道を登っていく。2方向に分かれるところがあった。左手は誰かが意図的に道をふさいだように細い竹が重なっており、右側の道は草があまりに生い茂り歩けなかった。

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 大凸部は青ヶ島の外輪山の一角であるらしいのだが、そこに行くことはできなかった。道をまちがえた可能性は高い。少しもどったところに、東台所神社の案内が出ていたので、階段を登っていった。階段はあまりに急な傾斜になっていた。階段に使われている石は角がない丸石でそこに苔が生えているので滑りやすかった。真ん中より上の急な部分では手を使いながら四つん這いで登らなければならなかった。

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 階段を登ったところに東台所神社があった。悲恋の末、島人7人を殺した浅之助という人を祀っているらしい。

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 東台所神社から外輪山の尾根を歩いて、尾山展望公園をめざした。大凸部への山道よりはるかに歩きやすかった。

 今までに見たことのない風景が外輪山の内側に展開していた。外輪山のなかがくぼんでいて、そのくぼみから山が隆起している。いわゆる内輪山である。内輪山は、天明の大噴火をした丸山(別名=お富士様)である。

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 尾山展望公園からも同じ風景が見えた。青ヶ島にやってくる人はこの風景を見にくる。やわらなか丸山の形状はチョコレート・ヒル(フィリピン・ボホール島)のようだ。火山島という点では、サントリー二島(別名テラ/ギリシャ)の海に沈んだ火口を想起してしまう。

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 1780年(安永9年)からの噴火活動が1785年(天明5年)になって激しくなったので、島民は八丈島に避難した。これが天明の大噴火である。

 そのときの言い伝えを記載してみる。八丈島から出された3痩の船に全島民を乗せることはできなかった。船端に取りすがった人の手をやむを得ず鉈で切り落としたともいう。3艘の船に乗ったのは島民108人と流人1人だったらしい。130~140人を救うことはできなかった。彼らは噴火が続く青ヶ島で死亡したとみられている。当時の船の規模や性能を考慮すれば、青ヶ島への接岸の難しさは今の数倍は優にあっただろう。

 天明の大噴火のあった1785年(天明5年)の将軍名を調べてみた。10代徳川家治だった。よく知らない将軍だった。3痩の救援船を出したのは八丈島役所で、将軍と幕府が直接指示を出したといったようなことはなかっただろう。しかし八丈島役所が勝手に動けるくらいに、江戸幕府の官僚機構は機能し、それなりの権限委譲はあったというのは私の解釈である。

 2000年の噴火によって三宅島の全島民が避難したときのことは私の記憶にまだある。救助すべき人数が少なかったのは幸いであったが、救助する側される側ともにみせた、口之永良部島での救出の速さと手際のよさは太平洋プレートの上に住む私たちの国に蓄積されたノウハウの結実である。

 天明の大噴火のあと青ヶ島は無人島となったが、1824年(文政7年)に旧青ヶ島島民は全員八丈島に帰還したと資料にあった。これは驚かざるを得ない。39年後の帰還である。39年という年月は、青ヶ島島民の八丈島での生活基盤ができあがっていることを意味するだろう。江戸時代の平均寿命は45年とあった。青ヶ島脱出から帰還までの過程について触れてみよう。
 
 八丈島への移住のあとの1789年(寛政元年)、名主である三九郎は青ヶ島の見分を行っている。噴火はすでにおさまっていた。飲料水が利用できるかどうかはわからなかったが、噴火による危険はないと判断されたらしい。住居と水のない島に全員をもどすわけにはいかないが、少人数なら島にもどることが可能だと考えられた。同じ年、復興開発費として257両2分銀6匁が幕府から支給されたとの記録があった。当時の、この金額がどの程度の価値を持つのかわからない。20人が青ヶ島に渡り、最終的には12人が青ヶ島の復興に従事したらしい。

 1817年(文化14年)、佐々木次郎太夫伊信が青ヶ島の名主となり、青ヶ島の見分を実施し、復興計画を立案した。1818年(文政元年)、彼の指導により、帰島計画が進められた。全島民が青ヶ島にもどったのは、つまり環往が達成されたのは、それから7年後の1824年(文政7年)である。

 天明の大噴火のあとの39年間、青ヶ島と八丈島で行われていたことは、今の日本の被災地で行われていたことと何一つ変わらなかった。

 あおがしま丸が就航する前の船の名前は、環住丸である。

 当時の航行のむずかしさを物語る事例も列挙しておこう。1796年(寛政8年)八丈島から青ヶ島に向かった船は漂流して上房総半島に漂着した。1797年(寛政9年)、鳥島に漂着した野村長平の一行が青ヶ島にたどり着くという記録があった。同年、八丈島に到着した2名から青ヶ島の現状を聞いた三九郎ら14人が青ヶ島へ向かったが、船が漂流して14人が死亡した。1799年(寛政11年)青ヶ島に向かった33人は漂流して紀州に流された。

 今日、私は青ヶ島から八丈島を見た。江戸時代の船は、晴れた日に見える場所に着くことができていない。青ヶ島周辺の海の歴史は漂流の歴史でもあった。

 気になったので伊能忠敬の地図を調べてみた。時代が重なるからである。伊能忠敬が足を運んでいないところはあるが、たとえば蝦夷(北海道)ではシャマ二(様似)、ホロイズミ(えりも)、クスリ(釧路)、アツケシ(厚岸)、ネモロ(根室)に足を運んでいた。島では、家島諸島(播磨灘、小豆島の東)を皮切りに瀬戸内海の島々、隠岐諸島、種子島・屋久島、壱岐(対馬はすでに『元禄対馬国絵図』があった)、九十九島などを測量している。伊豆諸島では、当時の有人島ではないはずの式根島を測量していたが、どうやら青ヶ島には足を踏み入れていないようだった。八丈島の地図の精巧さに比べ、青ヶ島の地図はかなり雑な感じがした。

 青ヶ島に帰還した島民は内輪山の周辺(池之沢地区)には住まなかった。

 外輪山の尾根から内輪山のほうに降りる道はない。今日はここまでにして山を降りていった。

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 坂の途中は、つまり山の斜面はコンクリートで固められ、薄緑色のペイントがされている。一見、スキーのゲレンデである。これは雨の集水施設だ。青ヶ島の地形は急峻で、降った雨はすぐに海に流れ落ちてしまう。

 民宿マツミ莊の近くの駐在所の掲示板を清掃している人がいた。尋ねてみた。

 もしかして警察官ですか
 そうです 掃除の最中なのでこんな格好をしています
 今日来たばかりの旅行者なのですが、島では事件はあるんですか
 ないですね 島の人の多くは親戚です もめごとがあって仲裁をするようなことはあっても事件化はしないです
 なるほど
 でも外から来る人は無鉄砲な人も多く困ることはあります
 農業をやったことがないのに島で農業ができると思い込んで来る人や民宿の予約をしていないのにやって来る人なんかもいます
 それは無謀すぎですよね 
 ・・・・・・・・・・
 警視庁の方なんですよね
 そうです 白バイに乗っていました
 すごいですね 島への赴任の希望を出されたのですか
 そうです 妻と子供x人を連れてきました
 いつまでこちらに
 たぶんX月で異動になります 実は、明後日警視総監が来るんですよ 制服じゃなくこんな格好で今清掃中なんです

 話をした警察官はまだ若かった。なかなか格好よく仕事熱心な人だった。警視総監が来るのだから、清掃するのは当たり前だろうし、エピソードとして記載しても特に問題はないだろう。他のことも話してくれたが、終始、旅行者への配慮はされていた。

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 民宿マツミ莊にもどったときまだ日は暮れていなかった。仕事で宿泊している人が2人宿泊しているようだ。

 夜ご飯のあと、おそらく1軒しかない飲み屋(もんじ)に行こうかどうか迷った。でも今日は止めておこう。明日もある。

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