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日本細見紀行 

日本各地の旅日記
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冬枯れの弱い日差しの横浜を歩く。

2013年12月22日  横浜(寿町 真金町 横浜橋商店街 黄金町 日ノ出町)

 横浜人形の家のあかいくつ劇場で「星のKIOKU」を観た。若い友人が出演した。困難な道をくぐり抜けることができれば、新しい女優が誕生するかもしれない。

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 会場を出たときは12:00過ぎだった。この時間帯に山下公園のそばにいることはそうあることではない。このまま自宅にもどるのはもったいないので横浜をうろつくことにする。

 横浜中華街を抜けていく。人がどっと繰り出していた。年末の中華街は寒さに負けない人たちで溢れていた。しかし中華街の案内を私のブログでする必要はないだろう。

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 関内のマクドナルドで休む。休日のマクドナルドは人が多すぎて好きではない。そのなかで、鶴ヶ峰店、天王町駅前店、三河島駅前店は何度か行ったことがあり気に入っていたが、閉店になってしまった。これらの店によく行っていた理由は、客が少なく店内がうるさくなかったからだ。それは同時に店がつぶれた理由でもある。私にはマクドナルドのスクラップ店を見つける能力がある。関内南口店は頑張って持ちこたえてほしい。

 寿町に向かう。脇道に銀杏の葉が舞っている。どこから吹き流れてきたのだろうと辺りを見回したが、どうやら扇町2丁目交差点の通りの銀杏並木からだった。ファミリーマートの横を入っていくと寿町だ。ひさびさではある。

 確実に以前よりおもしろくなくなっているが、NPO法人さなぎたちが経営するさなぎ食堂は健在だった。このNPO法人は夜に周辺をパトロールしたり、衣服などを集め地域の人たちに配っている。このNPOが出している「さなぎたち」を読めば、寿町の今がわかる。学生ボランテイアもここにやってくる。

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 すぐ近くにある横浜ホステルビレッジは多くの外国人が泊まりにくる。女子高校生なども研修で泊まっていく。寿町に100以上ある宿泊施設のほとんどがいわゆるドヤが発展した形態であるのに対し、横浜ホステルビレッジだけは明らかにバックパッカー系である。山谷のカンガルーホテルや東京バックパッカーズホテルと同じカテゴリーに入れていいだろう。

 寿労働センターの横を通り、奥にある飲み屋街を歩く。昔、怖い感じがした寿町もすっかり牙を抜かれた。意味もなく道路で酒を飲んだりしている人もいるが、危険な感じはない。冬枯れの午後の日差しのように弱くなってしまった。寿町に入ってからここまでにあった自動販売機の飲料はすべて100円だったが、途中で50円の飲料を見つけた。

 不老町の横浜総合高校の横を抜ける。ポーラのクリニックも健在だ。ある医師が寿町に住む労働者のために開業したクリニックだ。

 大通り公園を南西のほうに10分ほど歩く。この公園の下を市営地下鉄が走っている。真金町が見えてくると横浜橋商店街だ。横浜橋商店街に入らずに、その手前の通りに入る。この辺りは永真遊郭のあった場所である。

 横浜に最初にできたのは港崎(みよさき)遊郭だ。今は横浜公園になっているといっても多くの人はわからない。横浜公園は横浜スタジアムのある場所だ。港崎遊郭は吉田新田(現在の伊勢佐木町2丁目)、高島町遊郭(現在の高島町7丁目)と移転を繰り返した。いずれも火事が原因である。そして真金町で永真遊郭となり1958年の赤線廃止まで続いた。

 真金町は現在もごくかすかに怪しげな感じがしないわけではない。その匂いを嗅ごうと思えば嗅げないことはない。しかし有り体にいって普通の町である。10年ほど前にタイ料理店が2、3店できてからバンコクっぽい雰囲気を醸し出していた。何人かの人にここはバンコクっぽいと話した記憶があるが、今はもうそういう感じはない。

 この通りにある金刀比羅大鷲神社は横浜開港時に讃岐国の金刀比羅大権現(こんぴらさん)を勧請した神社である。神社は遊郭とともに引越しを繰り返し真金町にやってきた。つまり横浜の遊郭とともにあった神社である。

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 金刀比羅大鷲神社の近所に寿東部連合町内会館という表札のある建物を見つけた。この辺りは寿町の西側になるのに、どうしてこういう名前になっているのだろう。
 
 町内会の看板などに旧地名が残っていることがある。2009年、横須賀の皆ヶ作カフェ街を訪ねたとき、皆ヶ作町内会の掲示板を見つけたことがあった。皆ヶ作の地名はすでになく、田浦となっていたにもかかわらず、である。横須賀の柏木田遊郭跡を訪ねたときも、旧福助ホテルの近くに柏木田町内会の建物があった。同じように柏木田の地名はすでになく、そこの地名は上町である。

 さらに進むが、直進できない。鍵型になっている。ときどき遊郭跡にはこういう場所がある。直進できないところを右に曲がれば、横浜橋市場だ。そこは横浜橋商店街の路地の1つにあたる。そこを抜ければ、横浜橋商店街の出口近くである。南側の出口から出て、よこはまばし入口の交差点を渡る。

 そこから小さな三吉橋通り商店街が始まる。この商店街はレトロであるといっていいだろう。鮮魚店、米店、果実店、居酒屋釜山など十数軒の店があるだけだ。三吉演芸場があり、劇団花車などが公演を行っている。その先は八幡町通り商栄会という名称が電柱の掲示にあるが、半ば解散しているといっていいだろう。開いている店は3分の1ぐらいではないだろうか。残っている店の品揃えは十分ではなく、とくにパン屋はレトロだ。

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 その先は住宅街になっている。以前その先まで歩き、丘の上のほうまで行ったが何もなかったので、今日はこの辺りで引き返す。横浜橋商店街にもどる。この商店街の特長は惣菜屋が多いということだろう。端から端まで歩けば、10店近くの店が惣菜を出している。おいしい惣菜を求めてスーパーに行くよりはここに来たほうがいいかもしれない。飲食系のチェーン店がないことを今回気づいた。すき家も吉野家も松屋もCoCo壱番屋はない。もちろんファミリーレストランもない。不二家もなかった気がする。よそ者が知らない店ばかりということだ。

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 横浜橋商店街を抜けて、鎌倉街道(国道16号)を渡り、関内駅から続く伊勢佐木町の商店街を通る。大岡川を渡れば、黄金町だ。10年ぐらい前までは、歩くだけで黄金町交番の警官に声をかけられたものだが、今はもうそういうことはない。京浜急行線の高架下は数年前に様変わりしている。

 それは劇的な変貌である。いわゆる置屋街のあった高架下は、小さく区切られた、小奇麗な、おしゃれな、透明感のある店々に変わっていった。変貌は明らかに行政主導だ。そのせいか、新しいくせにまったく活気が感じられない。もうかっていないのではないか。再開発は果たしたが、活気がもどったとはいえないだろう。
 
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 以前、この周辺の環境浄化推進協議会の作った小冊子を読んだことがあった。伊勢佐木町や日ノ出町や丘陵部(野毛山公園辺り)が区分けされ、防犯上のあぶないところが徹底的にあぶり出されていた。人通りが少ない、見通しが悪い、管理が行き届いていない、高いブロック塀があるなどが念入りに調査されていた。それらは子供たちが調査したものらしかった。町内パトロールの巡回なども書かれていたように思う。そのとき私はその小冊子をかなり読み込んだが、町内会館の数の多さには驚いた。小冊子から感じたのは、新しい町を作るという住民の強い意識だった。地図には拠点施設が網羅され、道路幅なども分類されていたように思う。

 柳美里の書いた「黄金町」は完膚なきまでに否定されていた。

 黄金町駅から京浜急行に乗ってもよかったが、日ノ出町まで歩いてみる。

 日ノ出町交差点には浜劇というストリップ劇場がある。坂を上がったところには野毛山動物園と横浜市中央図書館がある。図書館の1階はごった返しているが、4階の社会科学や自然科学の図書のあるところまで人は上がってこないので、かなり空いている。そこにある広めの読書机は独立しているので早朝に入館し席を確保すれば、静かに本を読める。昼頃には荷物を置いたまま日ノ出町交差点まで降りていき、インド料理屋でカレーを食べて、もどってくる。膨大な書架から読みたい本を探すのは手間がかかるが、書籍名をメモに書いて渡せば、まるでコンシエルジュのように10冊でも20冊でも読みたい本を持ってきてくれる。このサービスは中央図書館だけで、自宅近くの旭図書館ではやってくれない。だからときどきは中央図書館に来ていた時期もあったが、遠い昔になってしまった。日ノ出町駅から京浜急行の電車に乗って横浜駅に出た。
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帰るだけの日。

14日目 2013年12月16日  那覇

 3日前にANAのサイトで確認をすると、ANA128便は13:40発だった。10月後半にマイレージで予約していた。こんな中途半端な時間のフライトを予約するなんて、いかに適当にやっていたのかがわかる。残り4日を過ぎていたので、インターネット上でその日の時間をずらすことはできなかった。何時に帰ってもいいので、そのことを特に気にしているわけではない。

 10:00前にチェックアウトをし、国際通りを歩く。中央市場通りに入り、牧志公設市場を覗く。まだ人は繰り出してはいなかった。桜坂通りから希望ヶ丘公園に入る。ここには猫が数匹いるはずだが、今日は見かけない。桜坂通りの奥のほうには、古い住宅街のなかにスナックがある。その辺りを歩き、壺屋やむちん通りのほうに入っていくが、抜けるのを止める。中央市場通りにもどり土産を買う。紅いもタルトを買うときは、お菓子のポルシェのにしてくれという注文をもらっている。世の中にはうるさいやつがいる。 

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 スターバックスでコーヒーを飲む。美栄橋駅からゆいレールで那覇空港駅に向かう。

 昨日(日曜日)の昼過ぎ、那覇空港行きのゆいレールには大きな荷物を持った人たちが多く乗っていた。帰る人たちだ。雨が降っていたことも重なり、夕暮れの国際通りの人は多くはなかった。そういうこともあり、今日の那覇空港は空いているだろうと思ったら、ANAチェックインカウンターの前は人であふれていた。

 しかしANA128便は空いていた。客席は4分の1ぐらいしか埋まっていなかった。機内で飲み物が配られたことがちょっと新鮮だった。機内で飲み物が配られたのはいつだろうと記憶を辿ってみると、2月の那覇行きのJAL便だった。その前はいつだったのだろうと考えるが、思い出せない。あきらめる。人はこうやって記憶を失っていくのだろう。

 15:50頃、羽田空港着をもって、旅を終える。

長い午後のゆいレール。住宅街の駅で途中下車。

13日目 2013年12月15日  那覇

 12月10日以降、那覇のどこに行くのかがこの旅のちょっとしたテーマになっている。狭い部屋にいるのは嫌だ。だから外出するのだが、外に出た以上、どこかに行かなければならない。外に出て困るのはどこにも行けないこと。目的なく歩き続けること。それは疲労を溜めるだけだ。

 交錯する2つか3つの意識は軟着陸点を見つけた。10:30頃、ホテルを出る。この微妙な時間の選択は適切であるように思う。朝ではあるが昼に近い。まずは食事だろう。遅く起きてしまったからブランチになったわけではないことを誰にでもなく断っておく。朝である時間帯での昼ご飯は、1日を短くするが、午後を長くする。同じ時間にたいしての新しい認識は心を新しいものにする可能性がある。

 ゆいレールの車内では、次の駅名をアナウンスする前に音楽が流れる。音楽は駅によって異なるというのを数日前に教えてもらった。教えてくれたのはゆいレール初の(元)女性運転手だ。今、旦那とバリ島にいる。

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 ゆいレールに乗ってみることにする。今まで何回も乗ったが、乗る駅はほとんど決まっている。今日は乗降したことのない駅を中心に乗り降りしてみる。長い午後の過ごし方として適切であるように思う。ゆいレール途中下車の旅を支援してくれるのは、600円の1日乗車券だ。強力な戦力である。

 旭橋駅から那覇空港行きに乗り、壺川駅で降りてみる。曇り空は風景の全体を薄灰色にする。国場川は灰青色だ。対岸には奥武山陸上競技場やセルラースタジアム那覇がある。原色は目に飛び込んでこない。ファミリーマートの黄緑色が鮮やかに網膜に残る。那覇には一気にファミリーマートが増えた。駅前を少し歩いたが、おもしろそうなところはないようだ。

 奥武山公園駅で降りる。この駅に初めて降りたのは2011年だ。この周辺はペリーが上陸した地点で、ペリーの名前が付いた店がある。2011年、私はそういう店を探していた。駅周辺に、ペリーもち屋、ペリー内科小児科医院、ペリー歯科クリニックの3軒を見つけることができた。ペリーの名前が付いたのはこの3軒しかないと思い込んで引き上げたのだが、帰ってからヤフーマップでペリー幼稚園をいとも簡単に発見した。次に那覇に行ったからといって、ペリー幼稚園を見に行く気にはならなかった。

 セルラースタジアム那覇に行くにはこの駅が1番近い。高い位置にあるホームから見た黄色いビルと黄緑色のビル周辺を歩いてみる。そちらのほうは住宅が密集している。この奥はおもしろくなかったわけではないが、普通の住宅街の範疇に入る。サンタの人形が煙突のないマンションを登っていたり、三菱ルームエアコン霧ヶ峰の看板が色あせていたり、宇鏡水自治会掲示板に貼ってあった交通安全ポスターのアニメがレトロだったり。だから何なのだ、という誰かの声を聞く前に次に行く。

 3番目は小禄駅だ。駅を降りたところに大きなショッピングモールがある。とても賑わっていた。なかにはスターバックスコーヒーやロッテリアやミスタードーナツなどが入っていた。ミスタードーナツで休憩するが、落ち着かなかった。ゆいレールのスピードは遅い。コンクリートの線路をゴムタイヤで進むからだ。遠くからやってくるかわいい車両を見てから、駅の階段を上がっても乗車に間に合う。

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 4番目が赤嶺駅。那覇空港駅の1つ手前の駅だ。数年前にレンタカーを借りたとき、この駅まで送ってもらった。そのときはここから那覇のホテルに向かった。駅周辺にはマクドナルドといくつかの店がある。空港側の緑地には海上自衛隊那覇航空基地と航空自衛隊那覇基地とがある。こういうふうに2つ並べられると、日本の航空兵力は航空自衛隊だけでなく、海上自衛隊にもあることを改めて知らされる。ブログを書く際に陸上自衛隊も検索してみたが、1番目に陸上自衛隊木更津飛行場が上がってきた。そういうものらしい。その緑地の辺りから大勢の人が歩いてくる。イベントがあったようだ。エアフェスタ2013が開催されたらしい。航空ショーがあったということだ。こういう情報があれば、行ってもよかったかもしれない。

 ゆいレールのホームには大勢の人がいた。航空ショーを見てきた人たちのようだ。あとからホームに上がってくる人もいた。こんなに人がいて乗れるのかなと心配そうに話していた家族がいた。ゆいレールは2両編成だよね、前は3両あったのにね、そんな会話もされていた。多くの人であふれるホームに立ったとき、乗れるかどうかの心配を何人もの人が口にしている。それはホームにいる人の多くが心配しているということだ。

 ホームにいた人は全員乗車できた。沖縄の人は本当に乗れないことの心配をしていたのだ。ホームのラッシュというものに慣れていないらしい。気になったので、パソコンのなかの過去の写真をチェックしてみたが、ゆいレールの3両編成はなかった。インターネットで調べてみると、ホームは3両編成に対応できるようになっているらしいが、どうやら3両にしたことはないようだ。

 こういうときのゆいレールの運転手は大変だ。次の駅の案内アナウンスは自動音声で流されるのだが、運転手はしょっちゅう肉声のアナウンスを入れている「扉の近くに立ち止まらないでください」「奥のほうにお詰めください」「まだまだ奥に入れます」。定時出発のため、乗客の降り乗りをスピーディにしなければならない。駅間距離は短いしスピードは出ないので、遅れたしまった場合、回復は難しいのだろう。

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 ここから終点の那覇空港方面には向かわないで、反対側の首里駅行きに乗る。観光客が降りる旭橋駅からおもろ町駅の間の駅で降りるつもりはない。古島駅を通過するとゆいレールは首里に向けてどんどん登っていく。下を走る道路もかなりの上り坂になっている。終点の首里駅まで行かず、1つ手前の儀保駅で降りる。大活躍する1日乗車券。MYさんとIさんが昨日、この駅で降り住宅街で迷ったらしい。琉球古来すば御殿山の沖縄そばをおすすめだと言っていた。降りて10分ほどで歩くのを止める。駅周辺には何もない。
 
 那覇空港駅行きに乗り、市立病院前駅で降りる。駅がデパートに直結するのは都市部ではよくあることで、改札口がデパートの入口になっていたりする。ここは改札口が病院入口になっている。ゆいレールは地上の上に駅がありその上にホームとレールがある。全体が高くて、乗り降りは少しきつい。どの駅にもエレベーターが設置されているが、乗る場所によっては階段を使用しなくてはならない。病院直行の入口はとても便利だ。この駅のエレベーターには中2階があり、それは道路上で止まる。地上階が1階に当たる。そこは閑散としていた。客待ちをしているタクシーが人を乗せるのに何本のゆいレールを待たなければならないだろう。

 隣の古島駅で降りる。儀保駅から市立病院前駅を経由し古島駅までの間の線路が1番おもしろい。この区間でゆいレールはぐんと下るのだ。見晴らしがとてもよい。しかも最後のところでぐっと左折する。疲れてはいないが、駅での乗り降りにはいい加減飽きている。駅を降りても、住宅街ばかりなので、そのなかに分け入っていく気がしない。ここまで私が乗り降りしたゆいレールの駅は7つだ。ゆいレール15の駅のなかで、私が降りた駅はつまらない駅ランキングに入るところばかりだ。

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 ただゆいレールはとても気持ちがいい。高いところを走る。那覇の建物の最上階あたりを通るようになるので、車窓の展望がいいのだ。東京の日暮里舎人ライナーはこれに近い。

 おもろ町駅を通過し、最後に安里駅で降りる。郊外から都心に帰ってきた感じがする。ここは国際通りの東の端だ。ホテルが多くある場所だ。しかし今の那覇はどこでもホテルだらけだ。国際通りを遠くまで見通せるのが、ここのよいところかも知れない。

 国際通りにある、昭和38年創業の沖縄そば専門店、街角で沖縄そばを食べる。味については書かない。雨がぽつぽつ降ってきた。スターバックスに入って休憩する。コンセントはおそらく2つしかないが、その席には座れなかった。19:30頃、店を出る。

*記事内容と写真の撮影場所は必ずしも合致しません。

死にかかっている吉原。生きている栄町。

12日目 2013年12月14日  コザ  那覇

死にかかっている吉原。生きている栄町。

 9:00過ぎ、国道330号をひたすら歩いて、コザ十字路をめざす。このルートは下り坂になっているが、途中国道脇の道路に入ったりしたので、30分ほどかかってコザ十字路に着いた。

 先に吉原に行く。吉原の名前は、もちろん東京の吉原からきている。つまり色町だ。置屋街である。真栄原と並ぶ沖縄最強のディープゾーンだ。真栄原は平坦な場所に比較的整然と店が並んでいる。韓国の置屋街も多くはそうだ。吉原は坂の両側と上のほうに展開する。その分、吉原のほうが探索気分は高まる。坂の上に向かって歩いていくのがどきどきする。

 10年ぐらい前は、昼過ぎに行っても坂の上の店から、足を組んだ女が手招きしていた。そういうときはそこまでまっすぐ登っていけない。横の道に入り、姿を消す。面舵いっぱいで魚雷の弾道を避けた駆逐艦の艦長の気分だ。しかし女のソナーは美里1丁目の全域に探信音を放っているだろう。女は完ぺきな海図を持っている。どの道をどう曲がれば何秒後にどこに出てくるくらいは熟知している。これは情報戦であり、完全アウェイで最初に探知されると一挙に不利になる。

 さらにやっかいなのは、曲がったその先のガラス戸のなかの女とも視線が合うことだ。まさかの時間にやってくる男は2番目の女にとっても不意打ちなのだろう。とまどいは双方にあるが、とまどったあとの体制の立て直しのスピードは負ける。不意の遭遇時における戦力の差は立て直しのスピードの差であり、それは経験値に比例する。出会い頭は可能なかぎり避けたい。しかしところどころで張られている水雷の網を無傷で抜けることは難しい。

 つまりだ。この種の探索は相当気を使う。こちらにとっては神経戦でもある。読者にはそれを理解しておいてほしい。

 日本の売春防止法は1955年に発令している。沖縄は本土復帰に合わせて、日本の法律が適応されることになったのだが、10年間の猶予が認められた。もちろんその10年はとっくに過ぎている。それが残っているのが、吉原や真栄原なのだ。もちろん沖縄だけではない。大阪をはじめとして全国各地にそういう場所はあった。見学として歩くことさえ、はばかられる場所だ。 

 2年前、普天間基地を徒歩で一周したとき、真栄原に寄った。普天間基地を一周するとき、真栄原は避けられない。そこは3回ほど行った場所なのに、真栄原の場所がわからなかった。理由は真栄原社交街という文字があるアーチがなくなっていたからだ。人に尋ねるわけには行かないので、自力で探そうとしたがなかなか見つけられなかった。結果的に見つけることはできたのだが、真栄原の命脈は尽きていた。営業しているのかどうかわからない2、3店舗を除いて、ドアや窓は封鎖され、貸店舗などの表示があった。そこは終わった場所だった。行政が再生のプランを立案し、警察がその気で動けば、こういう場所は一気に瓦解する。横浜の黄金町はその典型であるが、真栄原に差し伸べる再生プランはなかった。

 昨日、吉原を見に行ったMさんが言っていた通りだった。多くの建物に貸物件の紙が貼られている。吉原も断末魔を迎えている。BM、少女林、松竹、カフェ家族、スナックシャネル、笑福、バー夜車、N・Y、欄Ⅱ、だあ~りん、ときわ、スナック紅花。これらの看板の一部は健在で、一部はすでに色あせている。営業しているのかどうかは夜でないとわかりにくい。それでも2年前に見た真栄原ほどではない。まだ息はある。坂の下に止まったままのタクシーがあった。帰ろうと坂を降りたとき、停まっていたタクシーとは別のタクシーが2台、私を追い抜いていった。

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 吉原に行って、銀天街に寄らないことは考えられない。ディープコザは胡屋交差点にではなく、コザ十字路の2ヶ所に展開する。吉原と銀天街だ。

 銀天街はごく狭い地域だけが生きている。ちょっとした食堂と惣菜屋である。3年ほど前、バングラデシュのリキシャが置いてある案内所のようなところがオープンした。そこは地元の高齢者のための買い出しなどのサービスを引き受けていた。しかし今回も含め、3回連続、その場所を探すことができていない。たまたま行った時間に閉まっているということもあり得るが、廃業していることも考えられる。やや活発な惣菜屋付近と活性化という言葉を10年以上も前にどこかに捨ててきた銀天街をぐるぐる回る。

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 那覇歩きはいつものコースを辿るだけだ。コザはそれ以上に行く場所が決まっている。昨日からここまでのコザ滞在で今回新しく行った場所はない。この他に、コザには諸見百閒通りがある。コリンザから10分ほど歩いたところにある、八重島特飲街があった地域には「ニューコザ」の建物の看板跡だけが残っている。そこは今年の2月に行ってみた。白人街と呼ばれた地域は、昨日歩いたゲート通りにバーが数軒あるだけだ。コザ十字路近くの黒人街もほとんど確認できなくなっている。

 コザ十字路から胡屋十字路までの距離は約2キロ。今朝歩いたようにこの区間は歩ける距離なのだが、コザ十字路からの場合、かなりの登り坂になる。何回か坂を登って胡屋十字路に行ったことはあるが、ここ2、3回はバスに乗っている。今日もバスに乗り、胡屋十字路で降りる。

 何もすることはないのだが、コザミュージックタウン音市場のスタンドでコーヒーを買い、テーブルでKOZA Wi-FiがWIFIにつなぎながら旅日記を書く。小さなことだが、今年の2月より便利になっている。この方向でいいと思うから継続し、発展させてもらいたい。

 映画「涙そうそう」のロケ地は、そのときはまだ建設されていなかったコザミュージックタウン音市場の周辺に散っている。撮影中に妻夫木聡はデイゴホテルに宿泊していた。この映画は沖縄へのオマージュだった。コザだけはない。那覇の農連市場、平和通り商店街、牧志、桜坂、それに伊是名島、北谷、奥武島など沖縄各地のさりげなくうつくしい風景が映し出されていた。沖縄の旅は、自分の古いアルバムをめくる旅でもある。

 沖縄市観光協会で180ページぐらいある、沖縄バスルートマップスケジュールという180ページぐらいの小冊子をもらう。沖縄の全バスの時刻表が乗っているかもしれない。発行元は社団法人沖縄県バス協会となっている。

 もう1度、一番街を歩き始めるが、10分ほどで止めてしまった。那覇に向かうことにする。14:00頃、胡屋バス停から那覇バスターミナル行きに乗る。コザから那覇までバスの本数は10本以上あるので、待たなくても乗れる。
 
 松尾バス停で降り、昨日チェックアウトしたグレイス那覇に向かう。同じ部屋をあてがわれたが、今回は2,500円×2泊である。1時間半ほど部屋で休む。

 17:00過ぎにホテルを出る。県庁前通りからハーバービュー通りを東に進み、那覇高校前を通過。開南せせらぎ通りに入り、11日にも通った開南交差点を通過する。今日は大平通りには入らない。

 この大平通りはヤフーマップでは水上店舗第四街区4となっていた。地図上では、ここから水上店舗第三街区、ガーブ川中央商店街、睦橋商店街と続き国際通りに出る。つまり新天地市場本通りは水上店舗第三街区に当たる。おもしろいと思うのは、ヤフーマップの睦橋商店街は、市場中央通りとむつみ橋通りの真ん中にあるということだ。確証は持てないのだが、ガーブ川は2つの通りの間の下を流れていると思われる。
 
 ひめゆり通りに入る。ここには神里原社交街があった。那覇の社交街を特定するのは難しくはないが、簡単なわけでもない。この場所に初めて来たのは2011年だった。理由は、この場所を特定するのに時間がかかったからだ。名前は2009年ぐらいに知っていたが、場所がよくわからなかったということだ。ピンクの建物が目印だ。ここも11日に通過しているのだが、神原中学校横のトックリキワタという木に気を取られて書き忘れてしまった。周辺は家が取り壊されていて、駐車場になり、ほとんど残っていない。かろうじて間に合ったというべきか、もっと早く来るべきだったと思うべきなのかはわからない。ときどき旅は時間との勝負になる。昨日そこにあったものが今日あるとは限らない。旅は早い者勝ちでもある。暗くなり始めたひめゆり通りを歩き続け、安里駅に着いた。

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 17:45、栄町市場と栄町社交街の中間地点ぐらいにある遊処栄楽に着く。ご主人の石原さんと話をする。泡波の大瓶が置いてあったので尋ねると30,000円らしい。波照間島で、小瓶を2,700円ぐらいで買ったと言ったら、大体そんなものらしい。地元では安く卸していても、石垣島では6,000円だと言う。

 Hさん、Iさん、MYさん、Oさん、Sさん(アルファベット順)がやってくる。みんな旅仲間だ。この栄楽は民謡酒場なのだが、三線を触らせてくれる。ここは三線を習い始めたIさんの希望で予約した。Iさんにとってよい思い出になったようだ。Iさんの旦那であるMYさんは十九の春を唄った。SさんとOさんはときどき会うが、Hさんとはひさしぶりで話ができた。

 旅のタイプやスタイルが異なるので、話は多岐に渡る。さて何を話したのだろうと振り返ると、あれも話したこれも話したとなる。細部は覚えていない。バリ島でゴルフをしたことをひさしぶりに思い出したが、それは私には珍しく数人で旅したからだ。その件で話をし損ねたことをあとで思い出した。そのときはバリ島の現地チームを相手にサッカーもしていたのだ。しかし詳細についてはあまり話をしたくはない。

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 帰りに栄町の夜を歩く。見かけたドミトリー宿は建物が古いくせに高かった。いやそんなことはどうでもいい。栄町には3度来たことがあり、11日にも来ている。そのすべては昼だった。私は知らなかった。死んだと勝手に思っていた栄町は生きていた。ややくたびれた昼の風景はどこかに追いやられていた。半開きの戸口の奥から2人の女が通りを見ていた。誘うでもなくただ座っていただけだったが、そこには不思議な吸引力があった。そこを陽気に通り過ぎることができたのは、私ではなく私たちだったからだ。オリオンビールと泡盛も何らかのかたちで関与をしていたはずだが、その金額ならともかく酩酊の明細についてはわからない。ましてここは沖縄なのだ。

やってみるさ~。起業家たちのコザ。

11日目 2013年12月13日  那覇  コザ

 7:00過ぎに起床。朝から旅日記を書く。9:20にチェックアウト。外は傘を差している人と差していない人が半々ぐらいだ。傘を差さないで歩き始めるが、途中で雨足が強くなる。慌てて傘を差すが、雨足はさらに強くなった。スコールだ。折りたたみの小さい傘ではほとんど役に立たない。靴のなかに水が染み込んでくる。通りを歩く人はいない。みんな建物の軒先に避難している。避難したのは沖縄かりゆし琉球ホテルなは。ロビーの一角でコーヒーを飲んで一息つく。

 11:10頃、ホテルを出る。雨は小降りになっていた。バスターミナル2階のみつ食堂は満席だった。こんなに人気がある店だったのか。昼ご飯はあきらめ、近くのコンビニでおにぎりを買う。
 
 11:30頃、屋慶名行きのバスに乗る。道路はかなり混んでいて、那覇を抜けるのに時間がかかった。途中の道路もそれほどスムーズに進んだわけではない。大謝名から真栄原経由で、いつもより15分ほど余計に時間がかかっている。バス内でおにぎりを食べる。

 道路幅が広がり、両側に背の低いビルが林立し始めるとコザだ。前回来たのは10ヶ月ほど前だ。懐かしさはない。また来たなという感じだ。胡屋バス停で降りる。コザミュージックタウン音市場に入って驚いた。いつ来ても閑散としていたが、賑わっている。いや正確に書いておかなければいけないだろう、閑散としているコザミュージックタウン音市場にしては、まあまま賑わっているといったところだ。

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 13:00頃、赤坂ホテルに向かう。ここは何年も前に泊まったことのあるクラウンホテルのすぐ近くにある。クラウンホテルは、おじいとおばあが経営している素朴なホテルだ。デイゴホテルと並び、気に入っているホテルの1つだが、今回の旅はホテル料金を最安値で乗り切りたい。

 赤坂ホテルは悪くない。見栄えはちょっとあやしい感じがしないでもないが、フロント付近はバックパッカー宿の雰囲気を少しだけ醸し出している。部屋は満足できる。1泊3,500円だ。小さい場末のホテルといっても、やはりコザのホテルである。那覇のビジネス系のホテルとは異なり部屋には余裕がある。

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 ホテルを出て少し歩き、国道330号線を渡る。街歩きスタートである。まず中央パークアベニューをコリンザのほうに向かう。いつものコースを歩いているだけなのだが、コザには驚かされる。新しい店ができているのだ。

 そもそもコザは廃れた感じのする街だ。アーケードのある銀天街や一番街はその象徴だが、中央パークアベニューも例外ではない。しかし毎回来るごとに新しい店が出ている。特に今回はそう思った。

 コザはスクラップアンドビルドが進む街だ。多くの店が撤退していったが、その都度いくつかの店が出店している。普通、廃れた感じのするコザで新しく商売をするのは難しい、と考える。しかしそう考えないで、いやそう考えた上でなおかつ、やってみようとする人が多いということなのだろう。

 コザは起業家精神にあふれる街なのかもしれない。起業をする際に慎重であることは必要だ。リスクがあるのなら、それを回避するためにリスクマネジメントを発揮し、リスクを軽減していく。あるいはビジネス自体をやめてしまうのが起業のセオリーだ。だから実際はそうしているのかもしれない。そうしておいた上でも、結果として撤退していかなければならないことはある。長い目でみれば、そのほうが多いだろう。
 
 慎重な起業は存在する。慎重すぎる起業というのも存在する。そして慎重ではない起業というのも存在する。コザに多いのがどのタイプなのかはわからないし、起業に必要な個人的な意志と用意周到さなどそもそも計りようなどない。おしなべてコザの起業はこうなのだと定義付けをすることにも意味はない。

 判断が早いという言い方はできる。やってみた、うまくいかない、すぐにやめる。良い点は、大怪我をしないということだ。傷が浅いので再生までの時間は短い。

 懲りない面々であるという言い方ができるかもしれない。この言い方は語弊を含む。1回の失敗であきらめない、ちょっとしたことでへこたれないタイプが次のチャレンジを可能にする。

 コザは変わり続けることができるからこそのコザなのだ。だから経済が順調だとは思えないコザで、次々と店が誕生しているという事実に旅人は驚く。

 今年の9月にコザ一番街は「THE空き店舗内覧会」を行った。空き店舗を公開し、なかを見てもらい、そこで開業したいという人を募集しようというものだ。起業する人には店舗改装などにかかる費用の半分以下(最高1,000,000円)の補助があるらしい。写真を見た限りでは、内側がきれいな物件もあれば、物が残っているので片付けが必要な物件もあった。

 行政のサポートは実施されつつある。この地域は無料のKOZA Wi-Fiが利用できるようになった。30分で接続できなくなるのはちょっとせこい気がしないでもないが、再接続できるので問題はない。この前来たとき試験運転していた中心市街地循環バスは、今年の4月から本格運転していた。一方で車での買い物客を誘致するための駐車場マップはかなり以前から配布されている。起業のサポートはすでに実施段階に入っている。それ以上は行政の出る幕ではない。

 一方でNPO系の店や施設が増えている。ゆんたくまちやは映画ポスターが展示してあった。それで観光客の関心を引こうとしているのは、夕張(北海道)や青梅(東京)と同じ発想だ。ポスターはおそらく50年代のものに特化している。それは何かを考慮してのことかもしれない。店の奥はカフェになっていて、地元の人も立ち寄れるようになっている。琉球職業能力開発学院は、民間の教育サービスのスクールなのかどうか判別がつかなかった。ファミリーサポート・ジョブカフェ(沖縄市ファミリーサポートセンター)というところも新しくできたようだ。

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 こういう半ば公共的な施設が必要なのかどうかは疑問である。コザミュージックタウン音市場を始め、コザBOX、FMコザ、コザ・インフォメーションセンター、ヒルストリートなど同じような施設がコザにはかなりあるのだ。コザは住民にたいしても旅人にたいしても昔から、それなりに手厚いだろうと思えるサービスをしてきている。
 
 コザのニューヨークレストランは何年も前に廃業している。Aサインバーのある有名店だった。1度食事をしたことがあったが、それっきりになっていた。いつ廃業したのかはわからない。閉じられた店の奥を覗き込んだことが3度あった。誰も使わなくなった暗い店内に椅子などが乱雑に置いてあり、ピンボールのマシンがあった。今回、驚いたのは、ドア横の看板だけがロサンゼルスレストランに変わっていたことだ。悪い冗談かと思った。夜、インターネットで検索すると引っかかってきた。

 あるコミュニテイとRBCビジョンが共同で制作した地域コンテンツムービーのタイトルがロサンゼルスレストランだ。東京から来た男が廃業したロサンゼルスレストラン(実在したニューヨークレストランがモデル)を復活させようとする物語で、3分×5話で完結している。「平成23年度中心市街地域活性化事業 商業活性化地域連携モデル事業」からの助成金を制作費の一部にしているらしい。2分の予告編を観た。全編を観ていないので本来、論評はできないし、助成金とやらの出所も知らない。しかしあえてリスクを承知で書いてやる。

 まったく行政とは阿呆の集まりだ。ムービーを勝手に作るのは自由だ。それは趣味だ。趣味のテーマがコザの復活に関係するのなら、助成金を出すのか。このムービーが何を呼び起こすのか。これは起業家とは何の関わりもないことだ。こんなものに助成金を出すのなら、ゲート通りのタトゥーの店に、長年そこで営業していることへの感謝状でも送ってやれ。

 さっきリスクを承知でと書いたが、まったく取るべきリスクがあるのかね。

 行政がどれだけビジネスの周辺を掘り起こしても、再生の核となるのは起業家だ。常に天から金が降ってくる行政に、金の効果的な使い方は身に付かない。起業家は自分のこととして金を使う。その過程で雇用を創出し、商品やサービスを提供し、金を流通させる。行政は当然のこととして税金を徴収する。この「当然のこととして」の意識が、行政が進歩しない理由そのものだ。

 起業家の生き方とその実践の過程で練り上げられる思考と手法は周囲のモデルとなるだろう。それこそが周囲を鼓舞するのだ。それができれば、コザの小さな4番バッターたちが、オレンジレンジほど有名である必要はない。

 コザのおもしろさはまちがいなく、あとから現れるチャレンジャーの存在だ。そういうコザに期待しているというわけではない。私が期待してもしなくても何の関係もない。ただ、コザの商店街に突然出現している店を見てきた。衰退しているだけの町はすぐにわかる。コザは、衰退のなかでも、それにあがない続け、新しいものを出せる街だ。私はコザのがらんどうのような感じが好きだ。同時に、角を曲がったところに突然出現する奇抜な店はコザのもう1つの魅力であると思っている。

 巨大商業施設コリンザは、キーテナントがことごとく撤退した。ビッグワン(デイスカウントストア)が撤退し、ベスト電器が撤退し(電池を買ったことがある)、コールセンターが規模を縮小した。ハローワークや沖縄市民小劇場あしびなーが入っているが、商業施設としては失敗である。

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 コザミュージックタウン音市場は当初、失敗感が漂っていたように思う。目の前の歩道橋を撤去したのは正解だろうが、なぜこんな役に立ちそうもないものを造ったのだろうというのが最初の感想だ。しかしもしかしたら少しずつ地域に馴染んできているのではないか。

 揶揄した書き方をすると、高齢者は1階に置かれた椅子を休憩場所として使っている。ほとんど誰も行かない3階に置かれた数個のテーブルは女子高生の放課後のおしゃべりの場となっている。そこはコザのエアポケットでもある。つまり人はかなり自然発生的に集まりつつあるのだ。

 2階のJAはお引き取りいただこう。店舗が空いているからといって、業種にかかわらずテナントを決めるという馬鹿なことは、テナントがある程度集まった今はもう止めたほうがいい。1階のすき屋は店舗スペースを半分か3分の1にしていただこう。全国統一のチェーン店において、コザにだけ合う商品開発はとうてい無理である。つまり、満席になるはずがないすき屋の広大なスペースは無駄だ。おそらく今まで、施設側は広いスペースをまず店舗で埋め、次に人で埋めることだけに専念してきたはずだ。これからはスペースごとの人の密度を高めるための工夫が必要だろう。そこにコザ・オリジナリティを追求しないでどうする。打てる4番候補が周囲にひしめいているというのに、肝心の基幹施設を今のレベルに留めていいはずがない。それはやる気のある、そして懲りない面々に失礼というものだ。ここはまだスタートしたばかりだ。コザの中心として周りを引っ張っていかなければならないのはこれからなのだ。

 街の変貌は那覇の国際通りでももちろんあるが、店舗単位での変遷にあまり興味はない。国際通りにあった覆面レスラー中心のプロレス団体はどうなったのだ。ドン・キホーテやジュンク堂の前はどうなっていたのだろう。見てきたはずなのに、まったく覚えていない。おそらくそれらは私にとってどうでもいいことなのだろう。

 ただ那覇全体の変貌に興味がないわけではない。最初に行ったときの那覇は汚かった。国際通りは暑いだけだった。国際通りにあった歩道橋の上で、ここはいったいどういう街なのだろうと思ったことを覚えている。むせかえるような雑踏のなかで、どっちに行けばいいのだと迷っていた。

 一昨日に見たガーブ川中央商店街組合の「なつかしのまちぐゎー展」は、那覇の変貌をよく表したものだった。それは私の体験したことのない那覇だった。私はそこで古い白黒写真を眺めながら、私のなかのどこか深い部分に向かってそろりそろりとエレベーターを降ろしているような感覚でいた。

 中央パークアベニューから1番街やサンシティを通り、ゲート通りに出る。そこから嘉手納基地のほうに歩く。この辺の店は派手だ。途中のゴヤ市場はあいかわらず寂しげな感じだ。古い看板は近くの天ぷら屋の大きな看板に負けている。カフェは2、3軒あるが、店の多くは米兵向けの服や帽子を売っている。ほとんどの店は大きな看板を掲げ、派手な店舗造りをしている。

 高速道路の下をくぐり、嘉手納基地の玄関前まで行く。ここまで入るのは自由なはずなのだが、写真を撮っていると、米兵が寄ってきた。日本語で、高速道路の下から基地側は写真撮影が禁止されていると言われた。撮りたければ広報を通してくれということだ。目の前でデジカメの写真を2枚消去したのだが、まだ1枚残っている。それをブログに載せるかどうか考えながら、来た道をもどっていく。右手にクラウンホテルが見える。ここはまだ泊まったことがない。

 コザミュージックタウン音市場にもどり、休憩する。店でコーヒーを買い、テーブル席に座って飲む。旅人をゆっくりさせる場所をありがとう。もうすぐクリスマスか。ここを応援してやるか。

 そのあと中の町社交街のほうを歩く。ネオンがぽつぽつ点いている。雨が冷たい。夜がコザをつつもうとしている。

 17:50前に、コザミュージックタウン音市場にもどり、Mさんと会う。Mさんが2度行ったことがあるというおでん小町に行く。ここは沖縄おでんの専門の店で、メニューはおでんしかない。おでんの定番メニューに加え、てびちなども食べる。出汁はてびちから取るようで、それがここのおでんの味の基本になっているようだ。てびちは忘年会などの注文もきており、その準備が忙しいらしい。
 
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 そのあと胡屋十字路近くのRed Kitchen & Cafeに入る。コロナ、ブラジリアンピザ、ポテト。おでんの味が吹き飛ぶメニューだ。注文したものは少ないが、量が多く食べきれなかった。客は、私たちとあとから入ってきた人だけだ。店は流行っていないのか、それとも私たちの来る時間が早すぎるのかわからない。もともとブラジリアン系統の店らしいが、タイ料理などのメニューもあるし、泡盛を飲むこともできる。

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 Mさんとはコザや沖縄を旅したときの話などをした。韓国、旅全般、ブログの話もした。共感できること、見解が一致することは多い。ところどころで感じ方が微妙に異なるところもある。しかし共感できる部分も含めて、もしかしたらそれは大したことではないかもしれない。お互い旅好きで、コザで会うことができるということがとても貴重なことなのだ。

 沖縄県営鉄道の話もした。与那原駅が修復することを教えてくれたのはMさんだ。彼が言う「沖縄に山手線の電車が走ったら、どうしますか?」。そんなことは想像していなかった。それだけは駄目だ。あんまりだ。いくら何でもひど過ぎる。きっと私は沖縄山手線を避けて、沖縄を旅するだろう。

南城。2つのグスクと1つの島。

10日目 2013年12月12日  那覇  南城(奥武島)

 沖縄の食堂やカフェは朝が遅い。食堂は仕方がないが、9:00に開いているカフェが少ない。カフェを探しながら歩いていると那覇バスターミナルに着いてしまった。開いている可能性は低いが、2階のみつ食堂に行ってみる。やはり開いていない。ここは知る人ぞ知る食堂だ。
 
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 沖縄には4つのバス会社がある。琉球バス交通、沖縄バス、那覇バス、東陽バスだ。沖縄のバス旅は楽しい。なぜ楽しいのかよくわからないが、とにかく楽しい。鉄道がないので、バスターミナルが起点になるのだが、町のどこにあるのかよくわからない。探し当てるのが大変である。鉄道が発達している日本ではバスが鉄道とリンクする。その際、主は鉄道で、バスは従だが、沖縄だけはそうではない。バスを乗りこなすと、ちょっと沖縄通になった気分がする。沖縄に鉄道ができるのはもちろん反対ではないが、那覇から名護やコザに行くバスは全廃になる可能性がある。それは残念なことだ。

 バス旅は日本の毛細血管への旅である。どこに連れて行かれるのかわからない。3泊4日で屋久島に行こうとしたとき、鹿児島港でフェリーが3日間欠航になったことがあった。どうすることもできない。鹿児島に1泊し、薩摩半島の旅に切り替えた。廃線になった鹿児島交通の路線に沿ってバス旅をした。最後には枕崎に着いた。このとき以来、バス旅が好きになった。

 那覇バスターミナルの最大の欠点は、総合案内がないことだ。場合によっては4つのバス会社を回ることになる。とりあえず最初に目についたバス会社に入って行き先を伝えれば、しっかり案内をしてくれるのだけれど、少しやりにくい。最近、那覇バスが那覇の定期観光バスを運用し始めた。バスターミナルの1階に降りたとき、その案内所が目に付いたので、そこに入ってみる。南城市に行きたいと伝えると、琉球バスで行けると教えてくれた。琉球バス交通の事務所に入る。まず糸数城跡の近くにある南城市役所辺りで降りて、そのあと奥武島に向かいたいと伝える。
 
 51番か53番バスで行けると言われた。両方のバスが南城市役所には行くが、どちらかのバスは奥武島には行かないらしい。どちらのバスが行かないのかを教えてくれたのに忘れてしまった。先に南城市役所に行くのでどちらに乗ってもよい。9:09発のバスに乗る。バスは国場までは与那原行きと同じルートを通る。沖縄のバスは複雑でコザに行くのに、与那原経由というバスもある。国場までは沖縄県営鉄道与那原線とほぼ似たようなルートを辿る。

 国場までは那覇の郊外路線という感じで、ファミリーレストラン、コンビニ、スーパー、店が並んでいるが、それ以降は住宅を中心とした平凡な郊外の風景になる。

 40分くらい乗って、玉城中学校前で降りる。隣に南城市役所があるようだが、市街地ではない。平凡な田舎だ。市役所とは反対方向の坂を登っていく。途中の案内板に、糸数城跡と玉城城跡とが同じ方向で記載されていた。玉城城跡があるとは知らなかった。地図で確認する。少し離れたところに玉城城跡はあった。とりあえず糸数城跡に行って、そのあとどうするかを考える。

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 玉城小学校の近くにオウルガーデンというカフェがあるようなので行ってみる。朝、何も食べていないのでコーヒーを飲みたい。周辺はカフェなどあろうはずがないという場所なのだが、それはあった。しかし予想した通り、閉まっていた。

 坂を登り、山の上のほうをめざす。沖縄の城(グスク)は見晴らしのいい高台にあることが多い。途中、海の見えるところを通る。30分ほど歩いて、糸数城跡に着く。途中に井戸のようなところがあった。そこは御獄っぽかった。

 道路から300メートルほど入った山の頂上に糸数城跡はあった。太平洋と東シナ海が見えた。ここは玉城の出城だったらしい。糸数城跡は単純な石を置いただけの城だ。本土の城壁のように石を加工し、石組みの隙間を無くして積み上げるということをしていない。そうしている部分もあるようだが、城壁の強度はあまりなさそうだ。城内で中国の陶磁器の出土があったそうだが、沖縄では当然ありうることだ。1台の車が止まっていたが、誰にも出会わなかった。

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 糸数城跡に入っていくところに南部観光総合案内所があるので、寄ってみる。なぜこんな山の上の何もないところに観光案内所があるのか疑問だったが、大型バスが4台止まっていた。見学を終えたらしい高校生の集団が帰ってきた。彼らが何を見に行ったのかを案内所の人に尋ねてみると、近くに糸数アブチラガマがあるらしい。アブとは深い縦の洞窟、チラとは崖、ガマとは崖やくぼみのことである。 
 
 沖縄戦では自然の洞窟が避難の場所になった。場合によっては作戦陣地や野戦病院にもなった。そこは最初、糸数地区の避難指定壕だったらしいが、戦場の南下で南風原陸軍病院の分室となった。軍医や看護婦、ひめゆり部隊が配属され600人以上の負傷兵がいたそうだ。南部撤退命令後、負傷兵と住民の雑居状態となった。米軍の攻撃を受けながらも生き残り、最後には投降勧告に応じたらしい。8月22日、終戦から1週間が経っていた。

予約をしないと中に入れないらしい。つまり今日は入れないということだ。

 南部観光総合案内センターから30分ほど歩いて、玉城中学校前にもどる。15分ほど待つと、10:26発のバスが5分ほど遅れてきた。3分ほど乗ると海が見えてきた。海の近くまできていたのだ。海は道路の近くではない。山の中腹の国道331号をバスは走る。途中で奥武島が見えた。玉城バス停で降りる。

 沖縄を旅して迷うのは地名の読み方だ。玉城中学校前の玉城は「たましろ」と読む。しかし今降りた玉城バス停の玉城は「たまぐすく」だ。豊見城は「とみしろ」と読む場所と「とみぐすく」と読む場所がある。別に読み方を統一してほしいとは思わない。

 バス停の近くに誰もいない。地図で大体の方向を確かめ、玉城城跡のほうに向かおうとすると、山を登るようになる。どんどん登る。住宅はところどころにあるのだが、人はいない。その住宅も途切れがちになってくる。途中、山の上のほうから車が降りてきた。道を尋ねたいといったしぐさをしてみると、止まってくれた。玉城城跡はもっと山の上だという。登っていって右に曲がるとゴルフ場がある。その右側にあるらしい。

 言われた通りに登る。登りきったところに鉄塔があり、片側1車線の道路が走っていた。ここはグスクロードと呼ばれる道路で、糸数城跡から歩けば、途中には根石グスク、百十踏場の墓などの史跡を見ることができるが、糸数城跡から歩くのは遠すぎる。
  
 グスクロードを東のほうに歩くと、ゴルフ場が見え、道路をはさんだ反対側に玉城城跡はあった。ここも車が1台止まっていたが、誰もいなかった。

 玉城城跡も見晴らしのよい城だった。城に入るときに円状の入口をくぐるのだが、それは自然岩をくり抜いたものらしい。糸数城跡よりも少し小さい。アマミキヨが築いたとされるが、築城の年や歴代の城主もよくわかっていないらしい。玉城は3つの郭からなっているが、一の郭しか残っていない。二の郭、三の郭の城壁は米軍の基地の骨材用として持ち去られたらしい。帰り際に南部観光総合案内センターで見た高校生を乗せたバスがやってきた。

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 さっきの玉城バス停にもどりたいのだが、地図を見ると、ルートはもう1つあった。グスクロードを東に歩いて途中の細い道を降りるルートだ。少し近そうなので、そのルートで歩いてみる。しかしこれは失敗だった。おそらく下に降りるだろうと思われた細い道は封鎖されていた。そのまま歩き続けるが、下に降りる道はない。かなり歩いたところでようやく下に行く道を見つけた。

 その道を降りていく。少し降りただけのところで国道331号にぶつかった。本当はもっと下まで降りなければいけないはずだったのだが、国道が上まで登ってきているらしい。そこは百名だった。

 百名の町を歩く。バスターミナルはあった。百名行きのバスを見たことはあったので、どんなところなのだろうかとは思っていたが、何の変哲もない町だった。奥武島とは反対の方向に歩いたわけだ。バスターミナルから奥武島に行くバスに乗るとなると1時間以上待たなければならない。仮にそのバスに乗ったとしても、降りるのは奥武入口のバス停なので、奥武島まではさらに20分ほど歩かなければならない。結局、奥武島まで歩いて行くことにする。

 国道331号に沿って延々歩く。20分ほど歩いてさっきバスを降りた玉城のバス停を通過する。玉城城跡からここに降りて来たかったのだ。20分以上かけて登った坂を降りるだけなので10分ほどで着くと思われたが、40分近くかけて着いたことになる。ようやく奥武島が見える。ここからもただひたすら歩くだけである。国道331号はくねくね曲がっているので遠回りになる。奥武島までできる限り直線で行きたいので、途中、一気に下に向けて降りる場所を探す。それらしいところがあったので、そこを降りる。海側まで出ると、あとは海岸に沿って歩くだけだ。奥武島がだんだん近くなってくる。橋を渡って、奥武島に入る。玉城城跡を出てから1時間半かかった。12:50だった。

 橋の近くは、なかよし食堂、みなとストアーなどの鮮魚店が並ぶ。奥武島海産物食堂という名前も入口もレトロな店に入る。魚フライの定食を食べる。料理を運んでくれた人はベッキーに似た美人だった。

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 島を一周する。周遊道路は約2キロの、小さい島だ。見所は竜宮神と電線のない電柱ぐらいだ。竜宮神は島の南東部にある奇岩だ。ハーリー(海神祭)の際には漕ぎ手全員がここで安全祈願をするらしい。ハーリーは爬竜船を漕ぎ競う祭りのことで、安全祈願のために行われる。それは沖縄の各地で行われる。橋の近くにハーリーの際に使う爬竜船を置いてあるところがあった。電線のない電柱は、台風で壊されたと思われる。一周するのに1時間もかからなかった。橋までもどってきて、島のなかに入るが、おもしろそうなところはあまりない。奥武観音堂には遭難した中国人を助けたお礼として送られた観音像があるらしいが、入れなかった。

 橋を渡り20分ほど歩いて、奥武入口に着く。沖縄には海中道路で結ばれた島がある。いわゆる離島ではない島で、奥武島もその1つだ。離島でないので当然行きやすいのだが、この奥武島だけは行ったことがなかった。気にはかかっていたが、特に行きたいわけではなかったので、ずっと放っておいたままだった。しかしこれですべての離島でない島に行ったことになる。

 16:04のバスに乗り、那覇に向かう。那覇に入ったとき、まだ日は暮れていなかったので、与儀小学校前で降りる。昨日歩いた与儀市場通りの奥を歩いてみたかった。昨日歩いた通りに入り、その奥のほうまで行ってみるが、おもしろそうな場所ではなかった。

 一端、与儀公園にもどり、安里方面に歩き、マクドナルドに入った。ここで旅日記を書く。ここはWIFIは準備されていないが、持ってきたポケットWIFIのWiMAXは使える。コンセントを2つ専有しても特に問題はない。

 30分ほど歩き、ホテル近くまでもどる。ゆくい処アンマーで夜ご飯。オリオンビール、ミミガー、ジーマーミ豆腐。19:30頃に、グレイス那覇にもどる。

那覇の街歩き。犬を連れた〔志村けん〕に遭遇。

9日目 2013年12月11日  那覇

 起きたのは9:30。ちょっと寝すぎだが、早起きできる感じではなかった。昨夜は遅くまで、沖縄県営鉄道の路線を地図でなぞったりしていた。調べてみても線路跡はごく一部しか残っていないようだ。嘉手納線に沿ったところの大部分はバスとレンタカーで通ったことがあった。与那原線の4割くらいは歩いているし、残りはバスで通過している。田舎を走っていた糸満線がおもしろそうだ。つまりそういうことをしていて寝るのが遅くなった。

 沖映通りのバーガーキングまで歩いて、朝ご飯。10:30の時点でコーヒーを飲んでいるということは、今日の遠出は無理そうだ。どこに行こうか迷っている。昨日のテーマは今日のテーマだ。持ち越されただけだった。

 バーガーキングそばの那覇市観光案内所に行ってみる。なかにあった資料で唯一おもしろそうだと思ったのは、南城市MAPだった。南城市は那覇の南東にある。安座真港から久高島に行ったことがある。久高島が南城市に属していたことを今、知った。あざまサンサンビーチも斎場御嶽も南城市に属していた。それらは海岸線に沿っているが、内陸側には行ったことがない。行こうかどうかの思案をする。時間が惜しいので、那覇市観光案内所を出て、地図を大きく開きながら国際通りを那覇バスターミナルの方向に歩いていく。しかしこんなことをしてもまともな旅はできないと思い、南城市行きをあきらめることにする。明日にしよう。

 思考は振り出しにもどる。何をやっているんだ。今日も那覇にいるしかなくなった。久しぶりに栄町に行ってみる。国際通りを牧志まで行き、ゆいレールに沿って歩けば、ひめゆり通りに入りまもなく安里駅だ。安里を牛耳っているのはスーパーりうぼうだ。しかしそれは安里の一等地を占めているというだけで、安里は栄町社交街と栄町市場の2つで語られるべき町だ。

 栄町社交街は文字通り社交街のあった場所で、それは今でもある。アーチもある。ここはスナックなどの小さい飲み屋が多い。旅館も少しある。適度に住宅が混じっているので、スナックや飲み屋が古くなってくるとよけいに場末感が出てくる。昼間にここを通るのは普通の人たちだが、おそらく夜もあまり変わらないだろう。ゆいレールやバスから安里で降りた人たちが奥のほうの自宅にもどるのだろう。もちろん社交街なので、ここまで飲みにくる人もいるのだろうが、それほどあやしい場所だとは思わない。

 戦後の闇市の雰囲気は栄町市場に残っている。食堂、八百屋、惣菜屋などの個人商店が軒を連ねる。市場の通りはもちろん広くない。そのほうが、適度な賑やかさを演出することができる。ここには3回来ている。前回が5、6年前であるはずだが、うまく確認できない。そのとき、ここはもう朽ち果てるしかないだろうと感じるほどの寂れ方だったが、かなり持ち直したようだ。

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 栄町からひめゆり通りを西に歩く。吉野家を過ぎ、マクドナルドを過ぎ、与儀公園まで歩く。こちらのマクドナルドは国際通りのほうと違い、広いし、コンセントは充分あるし、いつも空いている(こういう情報をあまり出したくない)。とても快適なのだ。

 与儀公園は桜の名所で毎年2月上旬には桜祭りが行われる。与儀公園のなかをガーブ川が流れる。川はひめゆり通りの反対側にある神原中学校の横を通っている。神原中学の横に咲いているのはまさかの桜はないか。今は12月だ。ひめゆり通りを反対側に渡り、桜と思える木のところまで行く。それは遠目には桜っぽく見えたが、桜ではなかった。校門のところにトックリキワタという木であることの説明があった。元はブラジルやアルゼンチン産の木であるらしく、今は神原中学校のシンボルにしているらしい。

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 与儀公園の近くの与儀市場通りを歩く。ここには沖縄の古い家屋が残っている。それらのほとんどは何らかの改修をしているが、屋根は琉球赤瓦を使っている。与儀市場通りはやや機能を失った商店街になってしまっているが、左右両側にいくつか通りがあるので入ってみると古い家屋を見つけることができる。この辺りは民家のなかに古いスナックが点在している。民家も古いのでレトロ度は高い。与儀市場通りの名前は介護施設の看板にだけ残っている。
 
 与儀公園から開南交差点までの開南本通りは昔、仏壇通りと呼ばれていたところだ。今、仏壇を扱う店が何軒あるのかを数えてみる。2013年12月11日時点で7軒残っている。暇な人間というのはこういうことをしてしまう。仏壇通りといえば浅草が有名だが、飯山(長野県)にもある。飯山よりは店が残っているようだ。この開南本通りは与儀公園の側から見ると普通の通りだが、開南交差点側から見るとうらぶれた感じがする。

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 農連市場に入っていく。もうお約束のコースである。毎回来ているので新鮮さはまるでない。まるでないが、写真だけは撮る。過去に撮ったところと同じようなところを撮っているはずだ。2日後にやってくるMさんに、また農連市場ですかと言われそうだ。そうだから仕方がない。今回は行きたい場所を見つけられないのだ。最近の沖縄の若者は農連市場を知らないとどこかで読んだ。

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 農連市場を出れば、大平商店街(大平通り)に入るしかない。そうするしかないのだ、このルートでは。この商店街で売られている弁当や惣菜などは安い。その割に中身は豊富である。豊食堂は健在だった。cafeうさみという店ができていた。コーヒーは150円だが、マクドナルドも100円なので安いとはいえない。

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 短い大平商店街を抜けると、すぐに新天地市場本通りだ。ここも短い。そこから市場中央通りに入る。第一牧志公設市場の近くに琉球銀行があり、そこからかりゆし通りが分かれる。ここのガーブ川中央商店街組合が商店街の2階で「なつかしのまちぐゎー展」をやっている。これだけは沖縄に来る前に、沖縄タイムズの記事として読んでいた。つまり来ようと思って来たところである。

 今年の2月から3月にかけては「あんやたん 懐かしのマチグヮー写真展」がひやみかちマチグヮー館展示場で行われていた。写真展の開かれていた日と私の沖縄滞在の日程が合わなかったので、見ることはできなかった。Mさんが展示されてあった写真を撮影して送ってくれていたので、この旅日記を書きながら確認していくと、一部は同じ写真が使われているようだ。

 1962年からガーブ川を掘り下げ、地下水路とした。その上に建物を建てガーブ川中央商店街としたのだ。まず驚いたのは2階の変貌である。1階は店が並んでいるので変えるのは難しいが、2階は何も使っていなかった。一部ではあるが、リニューアルしてきれいになっている。以前、トイレを使わせてもらったことがあり、2階の様子は知っている。商店街を2階から撮影するにはよかったが、汚い場所だった。トイレもきれいになっていた。

 ボンネットバス、三輪トラック、牛車がいっしょに写っている国際通りの写真があった。ガーブ川の改修工事の写真があった。車が右側通行だったときの写真と左側通行になったときの写真が並べられていた。右を走っていた車が左に変わる瞬間を見ようと交差点に集まった人たちを写した写真があった。

 昔のガーブ川周辺はスラムといってもいいような場所だった。そんな写真が展示されていた。ほとんどが白黒写真だ。沖縄タイムズが写真を提供しているが、ほしい人は1点3,000円で買えるらしい。営業を最終目的とした協力なのだ。

 戦後すぐの沖縄は貧しかった。日本全体が貧しかったが、特に沖縄は貧しかった。それがよく表れた写真展だった。

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 昨日閉まっていたウララは開いていた。沖縄本を集めている古本屋だ。奥の本棚の場所は裸電球がある。当然、わざとそうしているのだろう。ここは店員の女性がいつもパソコンで何かをしている。

 市場中央通りに撮影クルーがいた。その先に〔志村けん〕が犬を連れて歩いていた。「天才!志村どうぶつ園」の撮影らしい。〔嵐〕を見ることはできなかったが、〔志村けん〕をいとも簡単に見ることはできた。何の感慨もわかなかった。そこから50メートルほど国際通りのほうに歩いたところで別のテレビクルーが何かの撮影をしていた。ザキヤマ(アンタッチャブル・山崎弘也)に似た男が商店を訪問して何かを話していたが、ザキヤマではなかった。

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 国際通りに出てしまった。今日の徒歩旅は終わりだ。スターバックスでコーヒーを飲む。グレイス那覇にもどるときに通る県庁前通りにはホテルが2つある。そのうちのホテルロコアナハの前にはバスを待つ人たちが長い行列をなしていた。今日は平日だった。曜日の感覚がなくなっている。

 ホテルチュラ琉球の近くのゆくい処アンマーの味で夜ご飯。ビール、てびち、島豆腐チャンプル。20:00頃、グレイス那覇にもどる。

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何をしていいかわからない那覇

8日目 2013年12月10日  那覇

 南大東島に吹いていた風は海の上にも吹いていた。

 西港を出るとき「だいとう」は少し揺れていたが、大揺れというほどではなかった。「だいとう」は途中まで順調に航行したように思う。しかし23:00過ぎぐらいから状況が変わった。海は荒れ、船は揺れた。トイレに行く際には船内のところどころにある手すりにつかまらないと真っ直ぐには歩けない。いきなりぐらっとくる。「だいとう」は2代目で2011年にデビューした新造船だ。フィンスタビライザーが付いているので横揺れはある程度制御されているはずだ。それが少しは効いているのでこの程度の揺れでおさまっているのかどうかはわからない。揺れは今朝の3:00くらいまでは続いたようだ。5:00頃に目が覚めたときに揺れはおさまっていた。7:20頃に館内放送があり、泊港入港だということが知らされた。外に出てみた。2階のデッキまで濡れていた。雨のなかを航行していたようだ。

 7:40、那覇泊港に到着。前にも書いたが、「だいとう」は格好いい。接岸している際には埠頭の上に出ている船部が少ない。重心が低いということなのだろう。後ろから見るフォルムは自衛艦を想起させる。

 泊港に停泊しているのは、フェリー粟国、フェリー琉球(渡名喜、久米島行き)、フェリーとかしき、フェリーざまみだ。「だいとう」が加わることによって、おそらく全航路の船が揃ったのではないか。ちょっと壮観である。とまりんを出航するフェリーの多くは10:00発だ。10:00以降のとまりんはほとんどの船が出払っている状態になり、夕方には多くの船が帰港してくる。

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 とまりん2階のカフェでコーヒーを飲む。そのあと沖映通りのバーガーキングで朝ご飯。両方ともコンセントがあるので、パソコンで旅日記を書く。
 
 グレイス那覇のチェックインは14:00からだ。早く行ってもリュックぐらい置かせてくれると思うが、時間があるので安里川まで歩く。ゆいレールに沿って、ということは安里川に沿ってということだが、牧志駅まで歩いてみる。途中、国際通りに抜ける道もあったが、おもしろそうではない。
 
 国際通りの東の端は牧志駅をさらに東に行ったところだが、西のほうに歩いていく。途中からは、初日に歩いた道順だ。あいかわらず高校生が多い。どこかに寄ってもよいが、一気にみずほ銀行まで歩き、県庁前通りを南に向かう。この通りを歩くのは初めてだ。大きくカーブをした先にちょっと安っぽいビルが見えてきた。少し離れていても、グレイス那覇はたぶんあれだろうなとわかる感じだった。

 グレイス那覇は初めて泊まるホテルだ。予約をしたときはデイスカウント期間中らしく、1泊2,000円で予約できた。個室では那覇で最安値かもしれない。着いたのは13:00過ぎだったが、チェックインさせてくれた。別になっているトイレ、シャワー室はきれいだったが、部屋が小さい上、テーブルも小さくモノを置く場所の確保が難しい。整頓しながら部屋を使わないといけないが、文句は言えない。

 部屋でゆっくりしてから、外に出る。さて、何をしよう。やることを考えてきていないのだ。とりあえず国際通りでも歩くかというふうになるのだが、12月4日に歩き、今日もホテルに着くまでに歩いた。とりあえずむつみ橋交差点まで行き、市場本通りとむつみ橋通りを歩く。沖縄関係の古本を集めたウララは閉まっていた。一瞬、つぶれたのかと思ったが、7日~10日まで臨時定休日の張り紙が出ていた。

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 桜坂劇場のほうに歩く。劇場内で12月中の上映スケジュールを見たが、おもしろそうな映画はやっていない。那覇で映画を観るというプランはなくなった。壺屋のほうに少し歩くが、引き返し、竜宮通りを国際通りのほうに抜ける。私のなかにある竜宮通りは山羊料理通りなのだ。やはりあるべきところにあるべきものがあった。

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 スターバックスに入る。おそらく1時間以上ここにいることになるが、これで今日の日程は終わりだ。どうする? こんなことでいいのか。せっかく那覇まで来ているのだ。毎回、沖縄に来る前には、どこに行こうかと地図で探るし、インターネットで検索する。そうしないと毎回、同じ場所に行くことになる。実際そうなってきた。工夫を重ねてもなかなかよいアイデアは生まれない。

 3回前は掲示板で与那原の飲み屋街がどうやらレトロであるという情報を探り当てた。このときはかなりの時間をかけ、その情報にたどり着いた。前々回は普天間基地を徒歩で一周した。このときは沖縄への進入角度を変えた気がした。前回は与座や真栄里という糸満の田舎に分け入ることができた。集落がテーマだった。行く場所がなくなってからでも、3回連続で新しい沖縄を自分のなかに付け加えることができている。

 今回は南・北大東島行きがあったので、本島をノーマークにしてしまった。那覇周辺でおもしろそうな場所は大東島にいるときに見つければいいと思っていたのだが、後半の〔嵐〕騒ぎでそれどころではなくなった。沖縄県営鉄道跡を歩くというのが唯一考えたプランであるが、これについてはそれなりに周到な準備がいる。それにどうやらあまりおもしろいものではないと思い始めている。

 沖縄と鉄道の関係は調べてみる価値のあるテーマだ。沖縄県営鉄道は、嘉手納線(那覇の古波蔵駅から嘉手納駅)、与那原線(那覇駅から与那原駅)、糸満線(国場駅から糸満駅)、海陸連絡線(那覇駅から桟橋荷扱所)の4路線あった。路線を現在の地図に当てはめてみると、多くは道路になっており、駅や線路跡はほとんどなさそうだ。

 唯一おもしろそうなのは糸満線である。糸満の与座に行ったとき、さとうきび畑のなかにある白い道が鉄道跡だったことを地元の人に教えてもらった。そこは高嶺製糖工場跡のあった場所で、現在はその全部が集落になっている。今では工場の門柱とタンクだけが残っている。

 鉄道の廃線跡を行くのは初めてではない。一度、北海道の標津線に沿ってレンタカーで周ったことがあった。上武佐駅は高倉健の「遥かなる山の呼び声」の舞台だと現地で知った。奥行臼駅は駅舎も線路もそのまま、すばらしいかたちで保存されていた。それ以外にもいくつかの駅が何らかのかたちで施設として残っていた。標津線以外のいくつかの線で保存されている駅を見たことはある。わずかの経験だが、そのおもしろさをわからないわけではない。

 沖縄県には、本島縦貫鉄道構想がある。那覇空港から名護までの69キロの路線だ。そのうち那覇空港からうるまにかけては、普天間周辺を除き地下を通す構想があるのだ。都営地下鉄大江戸線で採用されている小型リニア方式で、建設費は5,600億円。那覇空港からコザまではピーク時で1時間12本の列車本数。1日32,000人の輸送人員だと8億7,000万円の赤字、43,000人では9億8,000万円の黒字になるという県の試算がある。この計画には内閣府の調査もあり、仲井真知事は政府に支援を要請している。政府は沖縄の鉄道敷設に関する調査費を26年度予算に盛り込む。つまりこれは、普天間基地の辺野古への移設と引き換えで決定されるだろう。知事は退任と同時に辺野古移設を承認するというのは沖縄県民の共通した認識である。

 沖縄に鉄道を敷設しようという計画は古くからある。10年ほど前、コザに鉄道を敷く会(名称はよく覚えていない)の事務所が中央パークアヴェニューにあった。コザの有志が勝手にやっているような感じだったが、いつの間にか無くなってしまった。

 スターバックスの近くの店で沖縄そばを食べる。歩いて帰ってもいいが、少し遠回りして牧志駅からゆいレールに乗ってみる。県庁前駅で降り、夜食用にコンビニでおにぎりを買い、グレイス那覇にもどる。

〔嵐〕の学校訪問! 生徒だけが予見していた!

7日目 2013年12月9日  南大東島

 6:10過ぎ、南大東村港湾事務所から電話が入る「今日、北大東島に行かれますよね」。今日は那覇に向かうと答える。他の誰かとまちがえたか、私の予約をまちがえたかのどちらかであるが、予約内容を不安にさせる電話だ。南大東村港湾事務所が要領を得ない電話をしてきたのは2度目である。

 7:00過ぎに朝ご飯。Kさんがこれから北大東島に行く。午後の船で南大東島にもどる予定だ。私はKさんが降りてきた「だいとう」に乗ることになる。

 昨日は一昨日と異なる1日だった。かなり劇的に異なる1日だといっていいだろう。それは島民にとってである。

 今日は昨日とちがう。島民の目にはそう映らないが、旅人の目にはそう映る。朝はそれほど寒くはない。昨日までの朝は涼しかった。島に風が吹いている。いや風が島を通り抜けている。ピューという音だ。フィリピンで聞いた風の音は家を叩く音だった。それは風の音ではなく、物理的な物音だった。風の音は空気音だ。おそらく流れる空気と止まっている空気のすれ違う音だ。それがピューという音だ。民宿金城の格子戸からその音が入ってくる。

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 午前中、民宿金城のロビーで旅日記を書いている。だらだら書いているので集中しない。ときどきはインターネットにアクセスしながら書いている。遊びながら書いている。Nさんもやることがないようでロビーで本を読んでいる。ときどき取り留めのない話をするが、話題が切れかかるとそれぞれやっていることにもどる。悪い時間ではない。

 11:30頃、昼ご飯を食べにいく。2日前に行った居酒屋ベレンで昼ご飯を食べようと思ったが、閉まっていた。弁当を買おうと隣の仲程商店に入ったが、それらしきものは売り切れだった。南大東島を紹介するパンフレットに、この店のおばあちゃんがかわいいと書いてあった。「ごめんね、なくって」と言われた。本当にかわいいおばあちゃんだった。結局、大盛商店でオムレツ弁当を買ってきて、民宿金城のロビーで食べる。

 午後も引き続き、パソコンで旅日記を書く。外の風の音が気になる。Nさん「船は揺れそうだね」。

 13:00過ぎ、南大東島港湾事務所から電話が入る。那覇行き「だいとう」は西港に入ってくるので、16:20に集合という案内だった。おかみさんに伝え、16:00に出発することになった。

 今朝、北大東島に行ったKさんは、私の送迎の車で民宿金城にもどることになる。Nさんはやることがないらしく、車に同乗することになった。

 15:20頃、船で食べる弁当を買いに出かける。大盛商店の前に小学生が数人いた。彼らはその場を離れそうだったので、急いで近づいていった。すかさず〔嵐〕について尋ねてみる。そこにいたのは、小学校5年生を中心とした集団で6年生もいた。そのうちの1人は昨日の朝、気象台に向かうとき、私が道を尋ねた少年だった。彼は私を覚えていた。私が話をしたのは主に男の子4人だ。その周辺にも3、4人ぐらいいた。女の子も遠目にはいたが、会話をしていない。
 
 彼らは空港で〔嵐〕を見たそうだ。それだけではない、学校でも〔嵐〕と話していた。ある生徒は「何になりたいのかを聞かれた」と言っていた。その生徒はサッカー選手と答えたらしい。

 〔嵐〕の学校訪問を疑問に思っていた。昨日は日曜日である。生徒たちは急きょ呼ばれたのだろうか。生徒のいない学校に〔嵐〕が行って、何かをしたという可能性もなくはない。

 生徒たちは〔嵐〕と話していたことがわかった。〔嵐〕は学校に3時間ほど滞在していた。島内滞在時間が5時間であることを考えると、主目的が学校訪問であることは明らかだ。生徒たちが日曜日に学校に行っているということは、〔嵐〕は生徒との交流のために行ったのだ。NHKは紅白歌合戦の目玉の1つとして、南大東島の子供たちとの交流の様子を流すにちがいない。

 日曜日に生徒たちが集められるということは、〔嵐〕来校があらかじめ生徒たちに伝えられていなければならない。生徒が〔嵐〕来校を知ったのは、前日らしい。しかし生徒たちは〔嵐〕が来ることを前から予想していたという。理由は、〔嵐〕の曲を練習してきたからだ。彼らは、昨日〔嵐〕の前で〔嵐〕の曲を歌ったそうだ。歌の練習がどのようなものだったのかは知らない。

 学校関係者は情報管理に苦心したのだろう。訪問は用意周到であった。ただ電撃性を装っても、すべてを隠すことはできなかった。

 学校側は、というよりNHKは、前日に子供たちに〔嵐〕来校を伝えるという苦肉の策を取っている。島内の誰もが〔嵐〕の来島を知っている状況を避けたかったのだ。南大東空港に、歓迎〔嵐〕の人だかりができるのは彼らにとっては困ることだった。島内に流れれば、情報は島外(ここの場合、那覇)に出ていくだろう。那覇は東京と直結しているし、ツイッターやフェイスブック上で過剰に流れた場合、事後のカバーはほとんどできない。現場における多少の目撃情報は仕方がないが、大幅な情報流出は、紅白歌合戦のなかで流す映像の鮮度を落とすものになる。

 昨日私は少しインターネットを検索した。昨日の14:00前ぐらいにツイッターに1件、夜にブログに1件の情報があった。その件数の少なさは南大東島の人口と関わりがあり、島の若者数とも関連がある。南大東島は情報封鎖をするには最も適した島だった。そのことをNHKが熟知した上でこの島を選んだのかどうかはわからない。

 生徒の親は前日に、子供から訊いたはずである。

 ここから先は推測である。昨日島内を駆け巡った情報は空港から発信されたものではないだろう。同じ飛行機に乗った人たちは南大東空港に着いたとき、すぐに家族に電話をしたのだろう。しかしおそらく空港からも〔嵐〕は隠密に移動したと思える。彼らが姿を現したのは、やはり学校だろう。学校は島の中心の一角にある。そして島内に爆発的に広がった。草刈は中止されたのではない。放棄されたのだ。

 居酒屋ちょうちんで見かけたNHKの先遣隊は、空港、学校、旅行案内所の職員と綿密な打ち合わせをしてこの日を迎えたはずだ。海軍棒、日の丸山展望台でも下見はしただろう。

 南大東小中学校の教育目標は「よく考え、進んで学習する子」、「明るく思いやりのある子」、「健康でねばり強い子」、「郷土を愛し、郷土を拓く子」を育てるということだ。どこの小学校にでもある普通の言葉が並んでいる。ただ4番目の目標のなかの「拓く」には注目していいかもしれない。「拓く」は「開拓」の「拓」である。「拓く」は荒野をイメージさせる。それは南大東島のことだ。この島に生まれた子供たちは、自分たちの生まれた土地が半ば荒野で、それを切り開いて生きていくということを教えられる。フィリピンの学校にあった言葉を思い出す。“Honesty is best policy”それはキリスト教国らしい言葉だった。

 学校ブログ(全体)には運動会や八丈島との交流が載っているが、〔嵐〕についての記載はまだない。紅白歌合戦終了後の2014年初頭に掲載されるのかもしれない。

 「〔嵐〕、どうだった?」
 「かっこいい」
 「誰が1番好きなの?」
 「翔くん」
 私の取材では、櫻井翔くんが1番人気であった。ニノが1票取った。 

 島は本当に狭い世界だ。民宿金城のおかみさんの知り合いが、土産物屋の太陽ぬ家にいるらしい。その人が〔嵐〕の乗った車のドライバーだったらしい。

 2013年が暮れる間際に、NHKは〔嵐〕と生徒たちとの交流の様子を流しながら、南大東島のうつくしい風景を流すだろう。さとうきび畑やシュガートレインの線路跡が出てくるかもしれない。しかしTPPの行方次第で、日ノ丸山展望台から眺めるさとうきび畑は壊滅する可能性がある。少し前にこの島にやってきた小泉進次郎は回答不能に近い問題を持ち帰った。彼が来島した勇気にはひとまず拍手をしていいが、政治家は決断をしなければならない。本当の敬意はそのあとのことだ。

 膨大な公共事業費を継続していいのかという単純な問題は最初からある。国民を本土から遠く離れた島に住まわせることにより、海洋国家日本の領土の守りとするといった戦略的な視野に立たなければ、問題は解決しないだろう。住まわせるための仕事の提供と住民の生活の保障などのトータルな設計をした上でないと、公共事業に関しての批判は消えないだろう。

 そうだ、私はまだ〔嵐〕の話をしていたのだった。松潤や翔くんがどういう服装であったのかはここでは書かないが、2013年の紅白歌合戦の注目ポイントを書いておこう。みなさん、ビデオが流れたときの、相葉君の服の色には注目してくれ!

 私の言っているのは空港での服の色のことで、もしかたら撮影中は着替えていたかもしれない。そんなのは私の知ったことではない。

 〔嵐〕は昨日の22:30頃に羽田空港に着いたらしい。これで〔嵐〕の話は終わりだ。私は懸命の取材を試みた。友人に、追っかけなのかと問われながら、である。しかし彼らを見なかった。残念至極である。
 
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 16:00、おかみさんに西港まで送ってもらう。Nさんもいっしょである。私はまた鳥かごに乗せられた。降りた「だいとう」に北大東島から乗ってきたKさんがいた。Kさんが鳥かごに乗り、南大東島に上陸する。

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 おかみさんとNさんとKさんは民宿金城にもどり、私はこれから那覇に向かう。Kさんは明日の飛行機で那覇にもどり、本部のほうに行くらしい。Nさんは明後日、飛行機で那覇経由、山口にもどる。12日にはリピーター2人組みが民宿金城にやってくる。民宿金城には他の旅行者もいたし、工事関係者も泊まっていたが、私は顔を合わせなかった。
 
 民宿金城は昨日も今日も明日も旅人が通り過ぎる。

〔嵐〕が島にやってきた! 気象台は観測できず! おかみさん情報でどうする?

6日目 2013年12月8日  南大東島

 7:00に朝ご飯。Kさんもいっしょ。

 8:00に民宿金城を出て、15分ほどで気象台到着。Nさん、Kさんも来ている。30回ぐらいここに来ている人と4人で発射を待つ。観測バルーンは8:30と20:30に発射される。実際の発射は30秒くらい遅れるそうだ。発射台の外側のフタは開かれているが、内側のフタは閉じられている。その内側のフタが開くと、すぐにバルーンが発射されるので、見逃すとカメラの枠からはみ出てしまう。バッターの打ったボールを追うカメラマンほどではないが、それなりにちゃんと準備しておかないといけないわけだ。

 8:30を少し過ぎた頃、内側のフタが開いたと思ったら、あっという間にバルーンが出てきて、あれよあれよという間に上がっていった。カメラのシャッターを何度も切った。きっちり10分間でバルーンは見えなくなった。今日は快晴で風もなかった。30回ほど来ている人は、今までのなかで最高に近かったと言っていた。今日はバルーン見学日和だったわけだ。

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 民宿金城にもどる。ショルダーバッグの中身をリュックに入れる。リュックのほうが動きやすい。9:00前に出発する。今日は自転車を借りていない。徒歩で島を周ると決めている。昨日自転車で周ったとき、比較的近くの場所を残しておいた。

 月見橋を渡る。周囲には水吸池、月見池、瓢箪池がある。昨日、自転車で通ったところだ。まっすぐ進み、左折する。9:50頃にグレイスラム(ラム酒工場)前に着いた。先にビニールハウスの向こうの旧石垣空港の滑走路を見る。ただのコンクリートの道である。その先にゲートボールの屋内コートらしきものがある。さらに奥にはビジターセンター(まるごと館)があったので、見学する。

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 ビジターセンターで南大東島の多くのことがわかる。星野洞やバリバリ岩、コウモリ、天然記念物のエビ、南大東島の文化などの説明をしてもらった。

 地下の鍾乳洞で5年ほど前に採取したエビを飼っている水槽があった。それはオーストラリアにいるエビと同じ種類だったらしい。それにより地殻が動いたという説に信ぴょう性がおびてきたらしい。もっと驚くのは、エビは適当に水を入れ替えるだけで、エサもやっていないのに5年間生き続けているということだ。大きさは1センチぐらいで採取したときと大きさは変わらないらしい。

 昨日行った大東神社では相撲大会や神輿といった行事があるらしい。しかし島民は同時にエイサーをやっている。相撲や神輿はもちろん本土からやってきた。それは八丈島から伝えられたということだ。エイサーはもちろん沖縄からである。沖縄はチャンプル文化であるが、この島は本土と沖縄をさらにミックスしている。住民は2つの文化イベントを普通に使い分けているということだ。

 大東島には虹石(レインボーストーン)がある。大東諸島だけで採れる石灰岩の割れ目に赤土や珊瑚や砂が入り込んだもので、磨くと縞模様がとてもきれいだ。置物では1,000,000円のものがあるという。これについては、民宿金城のおかみさんはそんなに高くはないといった感じだった。民宿金城の入口にも大きい虹石があった。この石は島外には持ち出し禁止である。持っていった人に不幸が続き島に返しにきたという話があるそうだが、外への持ち出しをさせないための話だろうというのはおかみさんの説である。
 ところで丁寧に説明してくれた人は館長ではない。館長はダイトウオオコウモリである。羽を開らくと1メートルの大きさになる。

 10:20頃、旧空港ビルをそのまま使ったグレイスラム(ラム酒工場)に行く。工場の外でもラム酒の匂いがプンプンだ。ここでNさん、Kさんと待ち合わせをしていたので、いっしょに説明を受ける。沖縄電力が新規事業として始めたそうで、今は年間50,000本を出荷するそうだ。

 ふたたび徒歩旅を再開だ。グレイスラムから南に10分ほど歩き、空港に向かう通りに入る。10分ほど歩いて、右に折れる。ここからはどこまでも南に歩けばいいはずだが、それは方角の問題で、道はところどころで小さくカーブする。左右に抜ける道があるが、まどわされてはいけない。さとうきび畑を30分ほど歩く。坂を登ると、すり鉢状の地形の上のほうを通っている外周道路に出る。この辺りの外周道路は狭い。

 西に15分ほど歩いて日の丸山展望台に着く。南大東島全体が見渡せる。北海道のような風景だ。遠くにはノエビア南大東海洋研究所の建物も見えた。風が吹いていて気持ちがいい。30分ほどそこにいる。

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 外周道路を西に進むと風力発電の風車が2基見えてきた。進む方向はほとんどわかっていたが、たまたま出くわした車のドライバーに亀池港への道順を尋ねたら、乗せてくれた。役場の雇用促進課の車だった。

 亀池港は昔の漁港だ。昔の漁師はクレーンを使って自分の船を海に降ろしたらしい。それに飛び乗って漁に出る。漁からもどると陸に上がって自分でクレーンを使い、船を陸揚げする。そのあとも自分で魚をさばいて市場に出していたらしい。この島の漁師はそうしてきたのだ。旧漁港の隣には新港の設備が開港を待っていた。

 へとへとになりながら、亀池漁港から1.2キロ歩いて町中にもどる。Aマートでうっちん茶とゴーヤー茶を売っていた。ゴーヤー茶は那覇でも置いているところは多いわけではない。うっちん茶を買う。富士食堂に入るとKさんがいた。初日に食べた大東そばバイキングを注文する。隣の大盛商店で伊江島ピーナッツを買ってくる。

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 14:00頃、民宿金城荘に帰ったとき、おかみさんが少し興奮気味に「〔嵐〕、来てるよ」。最初は何のことかわからなかった。
「あの、ジャニーズの〔嵐〕ですよ。今、海軍棒に行っている。島の子が追っかけている」
「泊まるんですかね?」
「泊まるかどうかはわからない」
「泊まるとしたら?」
「ホテルよしざと」
「待つとしたら空港ですね」

 さて、どうする? 今日に限って足がない。昨日行った南大東空港までの距離はわかっている。これから自転車を借りるか、借りるとしたらレンタカーがいいか。しかし借りることができるのかどうかがわからない。昨日の自転車は1日前に予約をして借りた。ホテルよしざとの自転車は合計3台である。〔嵐〕がホテルに泊まるのなら問題はない。ホテルよしざとまで徒歩1分だ。日帰りの可能性が高いと判断できるので、飛行機の時間を確認すると、那覇行きは16:10発だ。

 今日あまりに疲れすぎていた。朝、歩き出したとき、太腿が痛い。昨日の疲れが残っていることを実感した。そして部屋でごろんと横になり、うとうとして1時間ほど寝てしまった。熟睡である。

 起きたのは、15:30頃だ。島を揺るがしたほとんどの出来事は終わろうとしていた。それは島を高揚させ、あっという間に終焉を迎えようとしていた。寝起きの私にもなぜか容易に推測がつくことだった。12月8日は何事もなく終わるのだろう。平凡に始まった旅の1日が平凡に暮れていく。


 〔嵐〕情報をまとめておく。

 〔嵐〕は午前中に飛行機で南大東島にやってきた。5人いっしょである。

 〔嵐〕はNHKの紅白歌合戦のときに流す番組録画のために来た。

 〔嵐〕が来る3、4日前にNHKのスタッフが南大東島に来た。彼らはホテルよしざとに泊まっている。近くの大衆居酒屋ちょうちんで何度か食事をしている。彼らは予約をしていて、インガンダルマなどを注文している。この魚は少し食べ過ぎると下痢を起こすので、私は最初から食べる気がしなかった(大衆食堂ちょうちん情報)。

 ホテルよしざとの前でカメラクルーがいた。推測であるが、NHKではないらしい(Nさん情報)

 〔嵐〕は今日の午前中に小中学校に行き、生徒と交流した(大盛商店/おかみさん情報)

 この日はある区の草刈の日だった。実際、今朝から私は草刈の人たちを何人も見かけた。ブログの管理人が炊き出しのカレーが用意されている公民館にもどったら、嵐が話題になっていた。女性たちは草刈を投げ出して、嵐を追っかけた(島内の某ブログ情報)

 〔嵐〕は海軍棒に行った(おかみさん情報)。今日、Nさんはそこにいたが、誰も見なかった。

 〔嵐〕は日の丸山展望台に行った(大盛商店情報)。私は11:20頃から30分間いたが、誰も来なかった。

 〔嵐〕は16:10の那覇行きに乗った。飛行機に乗客全員を乗せたあと、〔嵐〕は1人1人空港ビルから出てきて、飛行機に乗り込んだ(Kさん情報)。Kさんは空港で嵐を遠くから見ていた。彼が見たのは滑走路側だ。そこは私も昨日自転車で走ったところだ。だから至近距離ではない。滑走路の反対側からだ。空港ビル周辺は追っかけの島民でいっぱいだったそうである。


 17:30頃、シャワーを浴び、洗濯をし、旅日記を書く。〔嵐〕を見なかった喪失感は軽くない。

 21:00頃に居酒屋ちょうちんでビールを飲み、おでんや焼き鳥を食べた。店を出るとき、おかみさんに「今日、〔嵐〕が来ましたよね」と尋ねてみた。おかみさんもご主人も子供も〔嵐〕が来たことを知らなかった。「知っていたら、行っていた」悔しがっていた。私がおかみさんに紅白歌合戦の収録のために来たと話したときに、NHKのスタッフが店に来ていたことをおかみさんから教えてもらったのだ。

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 そのあと大盛商店に入ったのは〔嵐〕情報を得るためだ。ここだけは23:00まで開いていて、食堂や居酒屋の人たちも客の注文を満たすために食材などを買いに来る。通りに人はもうない。今夜、情報を得られるのはもうここしかない。店に入りさんぴん茶を買い、思い切って言ってみる。「〔嵐〕が来ましたよね。海軍棒に行ったらしいですね」。おかみさんはあまり反応しなかったが、もう1人いた女の子が「学校と日の丸山展望台にも行きました」と答えてくれた。これで一応の情報収集は完了した。

 〔嵐〕の滞在時間は約5時間ぐらいだ。滞在時間から推測すると、海軍棒、小中学校、日の丸展望台で全部だろう。私が日の丸展望台にいる時間をずらすことができていれば会えたのだ。

 この日、島は明らかに興奮していた。私も興奮した。
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