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日本細見紀行 

日本各地の旅日記
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5日目 2017年2月8日 大原 摺沢 花巻

すばらしかった丸全旅館

 楽天トラベルで、丸全旅館は2月20日まで満室になっていた。どうしても泊まりたかったので、3日前の2月5日の朝、盛岡駅から電話を入れてみた。エアコンなしの部屋でよければ、ということで泊めてもらえることになった。ファンヒーターを入れてくれるらしい。楽天トラベルでの素泊まりの宿泊費は4,300円だが、4,000円でいいですよ、と言ってくれた。

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 予定より2時間ほど早く着いたが、布団は敷かれていた。浴衣、タオル、バスタオルが部屋に置かれていた。

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 予約の際に素泊まりであることを伝えていたが、昨日のチェックインのとき、朝ご飯付きに変更させてもらった。追加した朝ご飯は部屋まで運ばれた。朝ご飯付きで5,000円だった。

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 ご主人と女将さんは素朴で親切で細かいところに配慮が効いていた。配慮は旅館のあちこちからも感じられた。例えば、モノの配置、細部への清掃などである。高級旅館なら当たり前のことであるが、丸全旅館と同じような宿泊費で雑な宿泊先はいくらでもある。

 築100年、木造3階建て、硝子張りの丸全旅館の写真を撮った。屋根、廊下や欄干の一部に使われている「赤」に特色があるといっていいだろう。欄干の一部に塗られた「赤」はややもすればけばけばしい印象を与えるが、あえて積極利用していると思われる。キッチュとしてのおもしろさである。古典的な風味を守っている旅館とは一味ちがう。

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大東町大原を歩いてみた

 女将さんに見送られて10:00前にチェックアウトした。

 大原の町並みを歩いてみた。この小さい町を歩くのに要する時間は15分ほどである。

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 町の真ん中を走っているのが平泉と陸前高田の今泉を結ぶ今泉街道で、大原はちょうどその真ん中ぐらいにある。

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(参考)

 陸前高田の今泉を気仙川が流れている。気仙川の対岸にあるのは“奇跡の一本松”である。東日本大震災の大津波は今泉を飲み込んだ。2011年6月29日にレンタカーで国道45号(東浜街道)を走った。今泉を含む陸前高田は壊滅していた。現在の今泉は陸前高田都市計画の今泉地区被災市街地復興土地区画整理事業が進行中である。今泉地区112.4haがその対象となっている。事業の完成予定は2019年3月31日である。

 下の2枚は2011年6月29日の今泉周辺。

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 大原には蔵造りの商家が残っていた。全体としてこじんまりまとまっている印象はあるが、1つ1つの建物は平入りであったり、妻入りであったりする(出入り口の設置場所によって建物は平入りと妻入りの2つに分けられる。平入りは、建物の平側(棟に対して直角方向)に出入口を設ける形式であり、妻入りは建物の妻側に出入口を設ける様式である)。

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 江戸時代の大原村は宿場町で、足軽も配置されていた。産物は砂鉄・生糸・紅花・養蚕などであった。明治以降も大原村は宿場町であり交易市場であり続けたが、国鉄大船渡線が開通し摺沢駅が開設してからは衰退の一途を辿った。

 町のなかに「水掛祭りの里」という掲示板があった。ここに来るまで知らなかった。300年ほど前から行われている奇祭である。祭りの日は毎年2月11日と決まっているようで、3日早く来てしまったことになる。沿道の人たちから水を浴びせかけられながら、裸の男たちが「火防祈願」「無病息災」「家内安全」を願って走るらしい。女人禁制の祭りで、女性は水をかけることも走ることも許されていない。

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 一関観光協会が発行している30ページの観光ガイド「いちのせき」に大原の町並みは載っていない。掲載すべきだろう。

 大原は増田よりライトである。「大人の休日倶楽部」の吉永小百合が歩くより、「いくぜ、東北」の松岡茉優のほうが似合う。鉄道のない増田をJR東日本がCMに使ったのだから、大原も取り上げてほしい。

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 大原の西北にある山吹棚田は観光ガイド「いちのせき」に記載されていた。40枚の水田があるらしいのだが、この季節に行く意味はない。


大原→摺沢→一ノ関→花巻

 今泉街道から少し離れた大東バスターミナルに向かった。

 一関市営バス 大東バスターミナル10:40発 → 摺沢(すりさわ)駅前10:57着

 摺沢に向かう途中のバス停脇に小さなカッパの像があった。すぐ脇に「曽慶川かっぱ伝説」の掲示板があったが、バスのなかからでは読めない。岩手県にはカッパ伝説が多い。

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 摺沢駅で切符を買った。花巻まで85.5km、運賃は1,490円である。切符は途中下車前途無効である。ドラゴンレール大船渡線に乗った。

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 JR大船渡線 摺沢11:28発 → 一ノ関12:08着

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 途中で猊鼻渓のある砂鉄川を渡った。

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 一ノ関駅で東北本線の盛岡行きに乗り換えた。昨日の旅日記にも書いたが、大原も摺沢も(旧)大東町にある地名である。その大東町は2005年9月、一関市、花泉町、千厩町、東山町、室根村、川崎村と合併し、一関市となった。JRの駅の名称は「一関」ではなく「一ノ関」である。

 JR東北本線 一ノ関12:28発 → 花巻13:18着


花巻駅でやるべきこと

 花巻駅で下車した。まずやるべきことは今夜の花巻駅周辺での居場所を確認することである。東京駅行きバスの発車時刻である24:55までの時間をつぶす場所を決めておく必要がある。

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 駅の出入り口に、駅舎の閉鎖が23:45であると表示されていた。トイレは23:40で閉まるようだ。駅にいた場合、バスの発車時刻の1時間ほど前に駅舎を追い出されることになる。駅で過ごすことは止めにした。外は0℃ほどになるだろう。

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 花巻に向かう電車のなかで調べていた。花巻駅から10分ほどのところにイトーヨーカドーがあり、そのなかにミスタードーナツがあった。イトーヨーカドーもミスタードーナツも閉店は21:00となっていた。岩手県道298号沿いにあるマクドナルドの閉店時刻は23:00、ガストは(翌日の)3:00となっていた。なんとかなりそうだ。観光案内所で駅周辺の居酒屋の場所を確認してみたが、居酒屋に1人で入った場合、間が持たない。

 観光案内所では、花巻温泉のホテルの日帰り入浴についても尋ねた。日帰り温泉の終了時刻は21:00までとなっていたが、花巻温泉から花巻駅にもどるバスの最終時刻は18:30である。花巻温泉に遅くまでいることは無理であるだけでなく、花巻温泉に行くかどうかを迷ってしまった。


花巻の遊郭跡探しは不発あるいは惨敗

 先に行きたいところがあった。花巻駅を出て岩手県道103号に南に歩いた。500mほど行ったところにあった「賢治最中本舗」を左に折れ、最初の信号を右に折れた。その辺りからアーケードが出現した。

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 1959年4月創業のマルカン百貨店が廃業になったのは2016年6月である。あるサイトによると売り上げのほとんどの部分を大食堂で占めていたとか。

 そのまままっすぐ南に歩いた。双葉町に入った。飲み屋街である。それほどおもしろいと思わなかったのは、表通りに飲み屋が出てきており、何本かある路地に飲み屋が入り込んでいなかったからである。退廃的な場末感はあったが、一方でどこかあっけらかんとした感じだった。怖いもの見たさからくる、路地の奥に引っ張られるような感じはなかった。

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 双葉町の東が豊沢町である。この辺りから建物は歯抜けのようになってきた。

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 その東に東町があった。「裏町」と呼ばれ遊廓が置かれていた場所である。『日本遊里史』(上村行彰/1929年)によると貸座敷数9、娼妓数39となっている。

 結果を書くしかない。どこをどう探しても、遊郭跡はなかった。

 八幡宮、稲荷神社、旅館、銭湯の存在はその近くに遊郭があったことを示す材料になるのだが、2つあった神社の、それぞれの掲示板からは何もわからなかった。八坂神社はスサノオノミコトを祀った神社であり、大町童児稲荷神社は珍しい「こども稲荷さん」だった。

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 一般家屋にあったタイルを写真に撮ってみた。撮るべきものが見当たらないのでそうしただけである。古い板金工場も写真に撮った。理由は同じである。

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 唯一あったホテル花城の周辺を歩いてみたが、遊郭の片鱗はなかった。ホテルの名称である「花城」の2文字だけが、遊郭の存在を臭わせる。元遊郭だった可能性がなくはないが、それは想像の域内である。

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 遊郭の残滓を見つけるという点においては惨敗である。私がその場所にたどり着けなかったという可能性もゼロではないが、おそらくそうではない。花巻の遊郭跡は消滅しているのだと思う。

 盛岡、大曲、横手、北上、水沢、一関、花巻。すべての街で遊郭跡はその傷痕をとどめていない(帰宅してから水沢をグーグルマップでチェックしていたとき遊郭跡なのかどうか判別がつかない建物を見つけただけである)。理由は、岩手県、秋田県の遊郭の規模が大きくなかったことにある。ふつうなら県庁所在地やそれに相応する都市にだけあるのだが、両県の場合は小都市に分散していた。だから崩壊に向かうのも早かったということなのだろう。


宮沢賢治の町、花巻

 花巻駅にもどることにした。

 「宮沢賢治生家跡」があった。歩道にそのことを表記した石碑があるだけである。その後ろにある家の表札には賢治と同姓の名が記されていた。血縁の方が住んでいるようである。   

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 「賢治の広場」の前に上町バス停があった。少し待つとバスがやってきた。花巻駅を通過してイトーヨーカドーに向かうバスだった。

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 宮沢賢治のゆかりの地を目的として歩いたわけではないのに、「賢治最中本舗」「宮沢賢治生家跡」「賢治の広場」など次々と賢治の名前の付いた店や施設が現れた。花巻は宮沢賢治の町である。観光案内所でもらった「花巻旅図鑑」で確認すると、花巻市内だけで「宮沢賢治記念館」「宮沢賢治イーハトーブ館」「宮沢賢治童話村賢治の学校」「賢治耕作の地」「雨ニモマケズ詩碑・賢治祭」の5つの施設があった。

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 岩手県交通バス 上町14:19発 → 花巻駅前14;25着


ホテル花巻(花巻温泉)で日帰り入浴

 上町バス停で乗ったバスを花巻駅前で下車した。

 しばらく待って台温泉行きのバスに乗った。台温泉は花巻に10ある温泉のうちの1つで、花巻温泉の奥にある。山間のひなびた雰囲気のある温泉町に15の温泉宿がある、そのうち8つの宿で日帰り入浴をやっていることはわかっている。本当は花巻温泉よりも台温泉に行きたいのだが、台温泉から花巻駅に向かう最終バスの発車が17:42だった。あまりに早すぎた。

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 岩手県交通バス 花巻駅14:50発 → 花巻温泉15:12着

 バスはイトーヨーカドーを経由した。下車したのは台温泉の手前にある花巻温泉バス停である。「歓迎・花巻温泉」のアーチを潜った。

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 花巻温泉の宿泊施設は4つある。いずれも巨大ホテルである。1990年代の始めに仕事の関係で4つのうちの1つである、ホテル花巻に泊まった。そのとき、4つのホテルはすべて同じ系列であると聞いた。

 ホテル千秋閣、ホテル花巻、ホテル紅葉館、佳松園のうち、日帰り入浴をやっているのは千秋閣、ホテル花巻、ホテル紅葉館の3つである。ホテル花巻に行ってみることにした。外観はほんのわずかにくたびれた感じがした。ホテル花巻の手前にあるホテル千秋閣のほうが新しそうだった。入ってみてさらに古そうだったら、出てこようと思っていた。

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 ホテル花巻の入口ドアを開けた瞬間、2人の女性が近づいてきて「今日はどういった御用で」と尋ねられた。「日帰り入浴を利用したい」と答えると、それではスリッパに履き替えていただいて、となった。一連の流れでそこまで運ばれてしまった。やんわりとした対応だったが、逃げる隙を与えなかった。

 2階の様子をなんとなく覚えていたが、どこがどうだったという細かいところまでは思い出せなかった。

 湯にいたのはみんな泊り客のようだった。

 入浴を終え、ロビーでコーヒーを飲んだ。断られる可能性があると思いながら、コンセントがあるのかを尋ねると、1ヶ所だけあった柱の近くの椅子に案内された。

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 17:00前、30人ほどの中国人の団体が到着した。レセプション付近にいたスタッフが総出で出迎えていた。バスのなかからスーツケースを運び出し、レセプション前に並べることが主な仕事らしい。一瞬ロビーが賑やかになったが、中国人たちが部屋に入ってしまうとまた静かになった。

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 最終バスに乗るために、18:15頃ホテル花巻を出た。


花巻の夜の過ごし方

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 花巻温泉18:30発 → 一日市18:43(頃)着

 花巻駅行きのバスがどういうルートを通るのかを知っているが、帰りのバスはイトーヨーカドーを経由しなかった。ガスト、マクドナルドにもっとも近いバス停をドライバーに尋ねてみた。一日市バス停で下車しイトーヨーカドーまで歩く、そのあとイトーヨーカドーの北側にある自動車教習所の東の道をまっすぐ進むとガストの目の前に出ることを教えてもらった。

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 一日市バス停からイトーヨーカドーまでは5分もかからなかった。

 今日は2月8日。[8]のつく日のイトーヨーカドーは「ハッピーデー」である。ミスタードーナツに入った。腹が一杯になるものを食べたかったが、このあと別の店に入る必要があった。

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 21:00、閉店になるミスタードーナツを出た。自動車学校の東側の細い道を10分ほど歩くと、岩手県道298号に出た。県道の反対側にガストがあり、そのすぐ北側にマクドナルドがあった。この通りはバイパスのような自動車道なのだが、観光案内所でもらった「花巻旅図鑑」によると「花巻スイーツ通り」となっていた。ケーキ屋、ベーカリー、カフェ、レストランがあるようなのだが、それらの店が開いている時間帯ではない。

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 マクドナルドは23:00に閉店する。翌日の3:00に閉店するガストに入った。ワイルドプレート(あらびきハンバーグ+牛カルビ+ヒレカツ)を食べた。

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 花巻観光協会の発行している花巻飲食店情報誌の名称は「注文が多い料理店」である。この情報誌に、さっき入ったばかりのホテル花巻の特別優待入浴券が付いていたことをガストのなかで知ることになった。

 ガストには3時間いた。予定通りである。


東京へ

 0:20過ぎにガストを出て、0:35頃、花巻駅に着いた。自由通路を潜って西口ロータリーに移動した。

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 発車時刻の10分前くらいにオリオンバスは到着した。オリンパスのカメラでオリ(オ)ンバスの写真を撮ってみた。花巻駅からは7、8人が乗車した。

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 花巻駅西口ロータリー0:55 → 東京駅八重洲南口8:24(頃)着

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4日目 2017年2月7日 北上 水沢 一関 摺沢(すりさわ) 大原 

北上カプセルホテル

 北上カプセルホテルは、カプセルの上段と下段で料金が異なる。数が限られているロッカーを使う場合は別料金になるようだ。予約をするときには「ロッカーなしの上段」しか空いていなかった。風呂はなくコイン式シャワーが設置されていた。風呂なし、ロッカー有料のカプセルホテルは初めてであるが、予約時にわかっていたのでもちろん許容範囲である。

 4分100円のコイン式シャワーは湯が出なかった。4分後シャワーは冷水のままで終わった。路上の一部が凍ったままの北上で予想できなかったわけではない。最初に100円玉を2枚、3枚と入れなくてよかった。一度入れたコインはもどらないと書いてあった。シャワーをあきらめた。

 ベッドのあるカプセルは今までに見たことがないタイプだった。カプセルホテルというよりコンテナホテルという名称が相応しい。

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 7:30頃にホテルをチェックアウトした。チェックインのときもそうだったが、レセプションのスタッフは別の店と掛け持ちしているようだ。呼び鈴を鳴らしてもなかなかやって来なかった。

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 唯一よかったことは客がほとんどいなかったことである。それでも最低のカプセルホテルだった。


北上の飲み屋街を歩いてみた

 北上カプセルホテルは飲み屋街のど真ん中にあった。昨夜、食べる処を探すために歩き回ったので飲み屋街の広がりの程度をほぼ把握していた。

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 朝から周辺を歩いた。雪は街を隠すので場末感をあまり感じない。

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 北上市役所のほう(西)に歩いているとき「北上コロッケ」の看板がある食堂を見つけた。北上市は「北上コロッケ」をご当地グルメとしてPRしている。


壊滅していた北上の遊郭

 岩手県道254号に出た。さくら野百貨店が見えてきた。最上階辺りにイオンシネマが入っているようだ。さくら野百貨店の所在地は、北上市本通り2丁目である。この百貨店の西側には南北に奥州街道が走っている。

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 ※2017年2月27日、さくら野百貨店仙台店を運営するエマルシェ(仙台市)が仙台地裁に自己破産を申請し、破産手続き開始の決定を受けた。北上店には直接関係ないようだ。

 その西側にある新穀町界隈はかって黒沢尻西裏という遊郭街だったところである。

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 雪のなかを歩き回った。新殻町には専修大学北上高校があった。それ以外は住宅地である。家々は比較的新しく、周辺にはNTT、北上市役所、黒沢尻西小学校などの大きな施設や公園などがあった。場末感は皆無で、遊郭跡はどこにもなかった。「新穀町界隈に黒沢尻西裏という遊郭街があった」という情報だけでやって来たわけだが、こういう場合、遊郭跡がないと判断してよいのかどうか迷う。まったく関係のない場所を歩いてしまっている可能性もある。歩く範囲を広げたが、雪では探求力が弱まってしまう。

 北上駅に向かうことにした。

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 北上駅は18年前と変わっていなかった。予定していたより1本早い電車に乗ることができた。

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 下の1枚は1999年8月30日の北上駅。

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 JR東北本線 北上8:56発 → 水沢9:12着


水沢の飲み屋街

 水沢市ではない奥州市の水沢駅で下車した。2006年2月、水沢市、江刺市、前沢町、胆沢町、衣川村が合併し、奥州市が誕生した。

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 奥州市や伊豆の国市といった名称を好きではない。歴史を感じさせるが、大風呂敷を広げ過ぎでえらそうな名称である。

 水沢駅を出て「奥州市水沢区」を歩いてみた。市のあとに「区」を使うというのもえらそうな気がする。奥州市は、奥州市江刺区、胆沢区といったように旧市町村名に「区」を付け替えた。政令指定都市ではないのに、区長がいるわけではないのに。平成の大合併のとき、総務省は「区」の使用箇所を政令指定都市のみに限定しておくべきだった。

 駅前広場から岩手県道113号が東北方向に延びていた。駅舎を背にして右手の、歩道に背の高いアーケードのある通りである。
 
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 100mほど歩いて岩手銀行を過ぎた辺りの右手におもしろそうな路地があった。路地の奥は飲み屋街になっていた。飲み屋街は小出しに展開しており徐々に奥のほうに引っ張り込まれていった。入り込んだ角度としても悪くなかった。

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 岩手県道113号にもどることなく路地裏を歩き続けた。場所は水沢区寺小路である。

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 いらっしゃいませ 狸横丁

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 寺小路橋の下は暗渠となっていた。暗渠を流れているのは(おそらく)大町川である。

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 「ナイトパブモック」の下から暗渠になっていた大町川がわずかに顔を出した。

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長光寺橋付近

 長光寺橋(1929年竣工)には「めがね橋」という愛称がある。江戸時代、大町川の西側は町人町が置かれていたところで水沢の中心地として栄えた場所である。

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 長光寺橋の東には長光寺、西には古い木造の家があった。

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勝手町遊郭跡を探して

 長光寺橋から岩手県道226号に出て400mほど東北に歩いた。大町、柳町辺りである。岩手県道226号は旧街道のようで、戦後の一時期、栄えていた雰囲気が残っていた。商店が並んでいたあとが見て取れた。歩道を蔽うアーケードはないが、それぞれの店の軒先を歩道まで出して雪除け雨除けとしていた。15年早く来れば看板建築が並んでいるのを見ることができただろう。

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 「ささき歯科医院」の手前の通りを左に折れた。300mほど歩いて突き当たった通りも岩手県道226号である。県道の西側が勝手町である。

 残っていないだろうと思われる勝手町遊郭跡を探していた。唯一の情報は「勝手町」ということだけである。

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 勝手町は狭い町で、何の変哲もないところだった。町のまんなかに通りが1本延びているだけである。この日私が歩いたのは勝手町16番地にある「長崎商店」というところまでである。この周辺に遊郭があったとはとうてい思えなかった、そう感じさせる場所だった。だからそこで引き返した。

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 帰宅後、貸座敷数3、娼妓数10といわれていた勝手町遊郭をさらに調べてみた。そして少し後悔した。

 「長崎商店」から先(西北西)の道は鍵の手のようになっており、その場所は、私の歩いてきた方向からは隠されたようになっていた。「長崎商店」まで歩いて来てその先を見渡したとき、何もないと判断し引き返してしまった場所の先は、見通しがやや効きにくい、ほんのわずかに隠れた場所だった。グーグルマップで確認した、隠れた場所にあった建物が遊郭だったと確証を持ったわけではない。しかしそれっぽかったのである。


ケーズデンキにデジタルカメラの電源ケーブルがあった

 水沢には遊廓とされていた場所が3ヶ所あった。そのうちの1つである宮下遊郭は、水沢駅から西南西600mにある駒形神社の参道近くにあったといわれている。しかし遊郭跡が残っていないことはわかっていた。それでも時間があれば宮下遊郭跡を歩いてみようと思っていたが、盛岡駅に着いた日の夜(2日前)、ちょっとした問題が発生していた。

 カメラの充電ケーブルを自宅に忘れてきたことに気が付いた。コンセントにつなぐ充電器ではなく、パソコンとをつなぐUSBケーブルである(パソコンから充電するため)。私がデジタルカメラを買うときの基準は、1回の充電で撮影できる写真枚数が多いことである。いつも充電できるとは限らない途上国を旅するときの対策である。それを達成してくれるメーカーはカシオとオリンパス以外にはない。

 大曲、横手、北上で、家電量販店はそれぞれの駅から歩ける範囲にはなかった。水沢だけが歩ける距離にあった。勝手町に入った時点ですでに500枚以上を撮影していた。もう少し電池はもつだろうが、明日撮影できる保障はなかった。

 勝手町から東に歩いた。柳町を抜けた。ここも遊郭があったとされるところである。ややレトロな感じがする場所もあったが、普通の町並みであるといっていい。複雑な通りをいくつか曲がり、東北本線の東側に出た。

 奥州街道沿いはマクドナルド、モスバーガー、ガスト、ツルハドラッグ、TSUTAYA、タイヤ館などロードサイド店が並んでいた。

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 カメラのキタムラとケーズデンキがあった。誰かが注文しそのあとキャンセルした(と店員が言っていた)、オリンパスのUSB対応の専用ケーブルが1本だけ奇跡的にあったのはケーズデンキのほうである。

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 下の1枚は水沢駅に向かう途中にあった小さい飲み屋街の一画である。

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 水沢駅にもどってきた。小沢一郎の地元で、小沢一郎のポスターを1枚も見なかった。水沢の三偉人は高野長英、後藤新平、斎藤實(←この人を知らない)である。それぞれの記念館や生家が残されている。

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 JR東北本線 水沢11:09発 → 一ノ関11:34着


一関のレトロな飲み屋街

 水沢駅で乗った東北本線の電車を一ノ関駅で下車した。JRの駅名は「一ノ関」であるが、市の名称は「一関」である。一関を歩いてみた。

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 一ノ関駅の近くにレトロな飲み屋街があることを知っていた。それは東北本線の電車のなかからも見えた。一ノ関駅の西口広場から北に歩いた。300mほど歩いたところにそれはあった。「ひぐれ小路・(一関中央マーケット)」というアーチの奥に10軒ほどの飲み屋が集まっていた。

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『奥の細道』の二夜庵跡

 「ひぐれ小路」から北に100mほど歩き今泉街道に出た。西に600mほど歩いた。

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 磐井川に架かる磐井橋の手前に「二夜庵跡」の碑があった。松尾芭蕉と曽良が平泉への旅の途中で泊まった宿が磐井橋付近にあったとされている。「二夜」となっているのは、旅の大先輩が一関で「2泊」したからである。

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戦後の台風が一関の遊郭を壊滅させた

 磐井川に架かる磐井橋を渡った。磐井橋を渡ったところにある河川公園は護岸工事の最中だった。

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 護岸堤防の西側の低地の一画が目的地である。磐井橋からその辺りを眺めたとき、期待することをあきらめた。何の変哲もない住宅地だったからである。

 それでも橋を渡ったところにホテルや旅館があった。越後屋旅館、ビジネスホテル、旅館初音、ビジネスホテルSATOU、旅館やなぎがあった。この場所は駅から1kmほど離れた川向うであり、宿泊施設の出現は唐突である。この場所に数軒の宿泊施設があるのは明らかに変である。わずかな期待は膨らんだ。

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 護岸工事をやっている低地にそれらしい雰囲気の飲み屋街はあった。しかしそこまでだった。飲み屋街はあまりに狭かった。

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 1947年(昭和22年)カスリン台風、1948年アイオン台風。相次いで襲った2つの台風で不夜城として賑わいを見せていた「花川戸」が消滅した。2つの台風を合わせ600人余りの犠牲者(=死者+行方不明者)が出た。今では考えられないが、戦後すぐの台風は多数の犠牲者を出している(伊勢湾台風の犠牲者は5,098人である)。明治以降の近代化のなかに災害対策はあったはずだが、国家資本の投入先の1番と2番は、富国強兵と殖産興業だった。それは戦争終結のときまで続いたのであって、殖産興業はやがて軍需産業に特化されていった。

 新聞には「一関壊滅」という見出しが躍ったらしい。最盛期には9軒あった木造3階建ての廓が流された。磐井川に流された600人のなかには遊女たちも多くいた。

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 1947年と1948年に壊滅した遊郭跡が今、残っているはずがなかった。今日、護岸工事を見ることができたのはよかったと思っている。


酒の民族文化博物館 旧沼田家武家住宅

 磐井橋を渡り、元来た道(今泉街道)をもどろうとしたが、右に折れ地主町に入ってみた。少し歩くと、蔵のある一画があった。そこにあったのは酒の民族文化博物館である。どうやら「世嬉の一」という酒造メーカーの私設博物館のようである。敷地内にはいわて蔵ビール工場、レストラン、カフェ、ショップが併設されていた。島崎藤村の文学碑もあった。

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 酒の民族文化博物館の300mほど南には旧沼田家武家住宅があった。

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もちの聖地・一関

 今泉街道の1本南を走る通りまでもどり、300mほど東に歩いたところに「大福屋」があった。一ノ関駅のなかにあった観光案内所でもらった「一関・平泉もちMAP」に載っていた店である。「もちの聖地・一関」で、もちは400年間という歴史のなかで独自の進化を遂げたらしい。あんこ、くるみ、ずんだ、ふすべ(すりおろしたゴボウに焼いたドジョウで味付け)、じゅうね(エゴマの実をすりつぶしたゴマに似た風味)といった伝統もちに始まり、ピザもち、もちロールキャベツ、もち春巻き、もちパフェなど増え続けているらしいのだ。「大福屋」に「もち街道認定店」ののぼりはなかったが、古くからやっている店構えだった。さくらもちはあったが、団子は1個しか残っていなかった。それ以外は売り切れになっていた。人気店なのだ。

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 折れ曲がっている岩手県道260号を歩いていたら「なのはなプラザ」があった。1階にスーパーマーケットがあり、2階より上が一関市民センターらしい。3階の空いていたテーブルで、買ったばかりのさくらもちと団子を食べた。それぞれ普通の、オーソドックスな味だった。

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 岩手県道260号と3号辺りをぶらぶら歩きながら一ノ関駅をめざした。

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 駅のなかにあった「エトワール」に入った。ザクザクの生地、ふわふわのシュー、とろりとしたクリーム。クッキーシューは予想以上のうまさだった。

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ドラゴンレールで摺沢(すりさわ)へ

 JR大船渡線 一ノ関14:20発 → 摺沢15:00着

 久しぶりに乗るドラゴンレール大船渡線である。線路が龍のような形状をしているので付いた愛称であるが、それは地図でみないとわからない。摺沢から立候補した政治家が総選挙で当選し、千厩を通らず摺沢を通過するように計画が変更された。1920年のことである。

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 平成の世でも人の欲望と政治への期待は変わらない。直江津(上越妙高駅)で奇妙に曲がり金沢に向かう、北陸本線(日本海縦貫線)のコンセプトをぶった切った新幹線を、政治誘導でさらに敦賀経由にしてしまったら、北陸新幹線はそれこそドラゴン新幹線になってしまう。

 ドラゴンレールを摺沢駅で下車した。

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摺沢にあった古い町並み

 摺沢は大東町にある地名である。大東町は2005年9月、一関市、花泉町、千厩町、東山町、室根村、川崎村と合併し、一関市となった。摺沢駅の所在地は一関市大東町摺沢荒屋敷となる。

 摺沢駅から出るバスは1時間20分後である。駅周辺を歩いてみた。

 摺沢駅舎を背にして前に延びる通りを歩いてみた。左(東)に曲がると一直線に延びた通りがあった。摺沢の中心なのかどうかはわからなかった。店、飲食店はいくつかあったが、開いていなかった。さらに歩いたところにあった大船渡線の踏切を越えると国道343号(今泉街道)とぶつかった。

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 適当なところで摺沢駅にもどろうと思っていたが、南東のほうに旧街道の雰囲気があったのでさらに歩いてみた。スーパーマーケット、岩手銀行の支店、廃業した店、菓子店などが軒を連ねていた。国道に沿った古い町である。こちらが摺沢の中心らしい。

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 さらに南東方向に古い家がありそうな雰囲気がした。バスの発車時刻を気にしながら、そちらのほうに歩いてみた。

 雪の舞い散るなかに土蔵造りの家屋がいきなり出現した。建物は比較的大きいといっていい。屋根にどっしり感がない建物である。屋根が浮いている感じがした。

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 帰宅後調べてみた。摺沢は今泉街道にある4宿のうちの1つである。摺沢の町並みは明治期から養蚕業で栄えた時期に建てられたらしい。気仙沼街道をはじめとする諸街道の集まる交通の要衝として栄えた。宿場の成立は天正年間である。

 1925年(大正14年)、国鉄大船渡線の開通により摺沢駅が設けられ大東町の表玄関となった。摺沢は「数流沢(するさわ)」が語源で、「するさわ」と呼ばれていた。摺沢駅の開設にともなって「すりさわ」へと変えられた。

 急ぎ足で摺沢駅までもどってきた。雪が激しくなってきた。


一関市営バスで大東町大原へ

 摺沢駅を出る一関市営バスに乗り込んだのは私と中学生1人だけだった。

 一関市営バス 摺沢駅前16:20発 → 大東バスターミナル16:37着

 バスは激しくなった雪のなかを走り、途中から山を上り始めた。大森峠というバス停があった。ここが分水嶺になっているのだろう。
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 山を抜けたバスはやがて平地を走り出した。雪はあいかわらず降っていた。走っているのは今泉街道であるが、少し外れたところにある大東バスターミナルで停まった。

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 バスターミナルのオフィスにいた人に、今日の宿泊先のある方向を確認し歩き始めた。5分ほどで今泉街道に出た。古い家並みのある町である。写真を撮りながら歩いた。

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 丸全旅館にチェックインした。大原の町と丸全旅館については明日の旅日記で書くことになるだろう。

 今日は素泊まりである。夜ご飯を食べるために外出した。食堂を求めて寒い町を歩いた。早くしないと食堂が閉じてしまうかもしれない。

 雑貨屋に食堂の暖簾がかかっていた。入ってみた。雑貨屋のなかに小さな食堂があった。雑貨屋のほうは開いていたが、食堂は閉まっていた。

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 唯一開いていたのが、路地の奥にあった太田食堂である。

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 太田食堂を出て夜の大原を歩いてみた。18:30頃、空いている商店が4、5軒あったのはむしろ驚きだった。

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2日目 2017年2月5日 盛岡

朝の6時間のつぶし方

 横浜21:10発 → 盛岡6:00着

 青森行きのバスはバスタ新宿に寄ったあと、暗闇を走っていた。2時間ごとに東北自動車道のパーキングエリアで休憩した。休憩のたびに車内はざわつきあまり眠ることができなかった。

 バスは盛岡駅に定刻に着いた。盛岡駅ビルの2階から駅の東側を見渡した。

 寒く暗い駅前に出て周辺を歩いた。開いている店は1軒しかなかった。仕方ない。まさかの、松屋での朝ご飯。

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 盛岡駅にもどったが、まだどの店も開いていなかった。Wifiのつながる待合室でしばらく過ごした。この旅の大体の行き先を考えてあったが、細かいところを詰めていなかった。しかし細かいところをある程度は準備しておかないとローカル線の旅では立ち往生してしまう。

 まずはみどりの窓口で明日の切符を買った。次に明後日の宿泊先を電話で予約した。目当ての宿泊先は、楽天トラベルで2月20日まで満室だった旅館である。奇跡的に1室だけ空いていた。

 やることをやったら暇になってしまった。

 8:10、VIE DE FRANCE CAFEに入った。コンセントがあった。持ってきたポケットWifiでネットに接続できた。昨年12月から1月に周ったヨーロッパの旅日記をひたすら書き続けたが、それにも飽きた。


岩手の偉人たち

 駅構内にいたとき、ポスターの一部を写真に撮った。石川啄木、宮沢賢治、新渡戸稲造、原敬、金田一京介、他にもあった。すごいじゃないか、岩手県。

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 岩手は民主王国と呼ばれているらしいのだが、一方で小沢一郎のイメージが強い。民主党から生活の党までの時代の小沢一郎は確かに民主系列であるが、本人にリベラルのイメージはない。小沢一郎には自民党のイメージがまとわりついており、自民党をより純化した自由党がピタリと合う。だから2016年10月に原点回帰した。

 原敬はリベラルである。『武士道』を出版した新渡戸稲造は札幌農学校(クラーク博士の米国帰国後)にいたこと、国際連盟事務次長に就いたことを考えればやはりリベラルだろう。

 岩手県出身者には他に米内光正、鈴木善行、後藤新平、高橋克彦、常盤新平、大瀧詠一等がいる。東條英機は東京出身だとされているが、岩手県人は岩手出身だといって譲らないという記事がネット上にあった。父親が岩手県人であったというのが事実である。

 A級戦犯で第40代内閣総理大臣のポスターが盛岡駅に貼られることはない。米内光正は極東国際軍事裁判に証人として2度出廷し「戦争は成算のなきものと感じ」「天皇は開戦に個人的には強く反対していた」といったような証言をしている。太平洋戦争に深くかかわった人物を2人輩出している点については、岩手県のリベラル・イメージからは遠いものである。

 岩手は人材の宝庫である。VIE DE FRANCE CAFEでの暇な時間、野球の打順を考えてみようと思い付いたくらいである。全打席で三振してベンチにもどってきそうな大瀧詠一を1番に起用するわけにはいかないだろう。2番米内光正、3番新渡戸稲造、4番原敬あたりになるのだろうが、それよりおもしろそうなのは左、右のジグザグ打線である。ジグザグの左打者のところには左=リベラル系を入れる。

 2杯目のコーヒーを注文した。カウンターから座席が見えないのをよいことに11:50頃まで居座った。3時間40分は、今までの人生のなかでもっとも長居したカフェになった。

 12:00に盛岡駅構内の旅行案内所でこの旅の、いくつかの町の地図をもらった。秋田県の町の地図ももらった。


盛岡を歩いてみた

 10:00前くらいに、あまりに暇だから早く来てくれとメッセージを入れておいたが、Hさんがやって来たのは予定の時刻だった。

 昼ご飯に「あんバター」というパンを食べた。盛岡の名物なのだそうである。駅構内にあった店の奥のテーブルで食べながら、盛岡のどの辺りに行くかを相談した。

 岩手県の太平洋沿岸部には何度か行ったことがあるが、まともに盛岡を歩いたのは1999年11月以来である。それ以降は、宮古からの帰り道に2度、盛岡駅前に立ったぐらいである。

 下の2枚は1999年11月28日の盛岡市内。

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 下の1枚は2011年6月30日の盛岡。東日本大震災直後に盛岡前を歩いた。

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 下の1枚は2015年9月10日の盛岡。東日本大震災の4年半後に盛岡駅前に立った。

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 盛岡駅前から運行されている循環バス「でんでんむし」に乗った。盛岡駅を起終点とした1周5.7kmの路線で、35分で駅にもどって来る。1路線100円(フリー乗車券300円)で15分間隔で運行されている。使い勝手はいい。

 乗ってみて驚いた。ぼろい。よく言って、年季が入ったバスである。ぼろいので100円なのだろうと思ってしまう。どの都市も、観光用のバスには費用をかけた新型のレトロバスを投入するはずであるが、盛岡はそうではなかった。しかし悪くはない。なかなか乗ることのできない古いバスに乗れた。

 なぜ「かたつむり」ではなく「でんでんむし」と名付けたのかわからない。「かたつむり」ではスピードが遅いイメージがするからなのだろうか。

 右回りの「でんでんむし」をバスセンター神明町バス停で下車した。国道106号に出て南東に歩いた。途中国道と並行している南側の通りを盛岡八幡宮のほうに歩いた。


幡街(ばんがい)と呼ばれた地域

 曲線のある美容室。

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 「表参道」のロゴに注目したい。

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 「春まで高級店」夏にはどうなっているのか誰かレポートしてほしい。

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 目当ての建物が見えてきた。新八幡街は思ったほどのデイープ感はなかった。

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 遠目には「人人」に見えたが、どうやら「JuJu」のよう。

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 やる気茶屋の「激辛ゴジララーメン」は古くからあったラーメンだろう。「激辛」の「激」の文字を削除してみた。「辛ゴジララーメン」=「シン・ゴジララーメン」は流行りである。

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 盛岡劇場は新しい。

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 周辺は飲み屋街であるだけではない、遊郭のあった場所でもある。『日本遊里史』(1929年発行)の巻末付録「日本全国遊郭一覧」では、貸座敷数が12、娼妓数59人と記載されている。

 見つけた!遊郭跡、と現場では思ったが、あとで写真を見ると料亭のようだ。

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 八幡宮、稲荷神社、銭湯、旅館の近くには遊郭があった可能性が高い。

 盛岡八幡宮にお参りをした。Hさんも私も2017年の初詣となった。

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 盛岡八幡宮に突き当たっている一直線の通り沿いは古い商店街になっている。電柱はなくすっきりした通りに店は密集していなかった。駅のほうに向けて歩いた。

 米内光正居住地跡があった。

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 カフェ建築っぽい。

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 街の中心に近づくにつれ店が増え始めた。バスセンターに向かう通りとの交差点を渡ったところから電柱が出現した。

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 中三(なかさん)は青森県を中心に展開している百貨店である。2011年3月、中三盛岡店でガス爆発が発生し死者1人を出した。その16日後に株式会社中三が民事再生法の適用を青森地裁に申請した。民事再生法の申請はガス爆発とは直接関係はないようだ。申請は受理され、再生の過程でNanak(ななっく)が2012年に開業した。

 Nanakに入ってみた。1階のスーパーマーケットに岩手の特産物はあったのだが、それほど多くはなかった。目立ったのは日本各地の特産物だった。上の階に上がるほど店の密度が薄くなるのはどの大型店も同じであるが、Nanakには活性化のプランがあった。2月10日から東急ハンズが4階にオープンするらしい。Hさんは来るだろう。

 デパートの横にある肴町商店街は短いアーケードになっていた。

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賢治vs啄木

 もりおか啄木・賢治青春館に入った。Hさんは花巻の宮沢賢治記念館に行ったことがあり、私は好摩の南にある石川啄木記念館に行ったことがあった。

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 もりおか啄木・賢治青春館は2人を比較した文学館だった。ところどころでややこじつけの比較があったし、原作から無理に引っ張ってきた材料を元に比較を試みるなど学問的なところから離れた設定もあったが、全体としてはおもしろかった。新しく発見した資料などはほとんどないにもかかわらず、企画のみで勝負した文学館であり、それは成功していた。

 農業指導者、童話作家、詩人、教師など多くの顔を持った賢治は堅実でまじめで信仰心の厚い人だった。

 一方、啄木は、カンニングをして退学することになった、結婚式をボイコットした(←この一事は全女性を敵に回す行為である)、借金大王である(わざわざ現在の物価に換算した金額も表示されていた。お金を貸したうえに啄木への悪口を言わなかった金田一京介の株を上げることになった)などが挙げられており、破滅型で社会性が欠如した性格だった。

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 Hさんと私はほとんどすべての掲示物に書かれたことに突っ込みを入れながら、つまり賢治はどうだとか啄木はどうだとかを延々話しながらわりあいうるさく見て回った。

 人気投票の結果があった。地元では賢治の圧勝である。岩手県は啄木を積極的に肯定するわけにはいかないのだ。


啄木と私

 私は啄木に一票を入れた。啄木が詠んだ歌は日本のフォークロアをかたちにしたと思っている。日本のフォークソングはボブデュランの影響を受けたけれど、その原点は啄木あたりにある。

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 啄木が好きだった。村上龍が『限りなく透明に近いブルー』で芥川賞を受賞した年、文芸賞を受賞したのが『北帰行』の外岡秀俊である。そのとき芥川賞の審査は荒れに荒れた。芥川賞の審査員だった江藤淳が村上龍の芥川賞受賞を不服とし、審査員を下りてしまった。江藤淳は外岡秀俊の『北帰行』を高く評価していた。

 『北帰行』は啄木の人生を自分のことと捉えた青年が、歌を詠み始め啄木の跡を北海道まで辿る小説である。主人公は夕張の出身の、めぐまれない(おそらく)中卒の青年だった。

 後年、『羊をめぐる冒険』(村上春樹)の、僕が羊を探しに飛行機で札幌に飛んだところを読んだとき、『北帰行』の私が青函連絡船で函館に着いたシーンを思い出した。ストーリーの肝心のところを忘れてしまっているが、『北帰行』の最後のほうで、友人からの手紙が主人公に届けられた。そこには主人公の生き方にたいする友人からの考えが延々と書かれていた(ように思う)。『羊をめぐる冒険』でも鼠からの手紙を読むシーンがあった。だから似ている気がしてならない。

 北海道によく行っているが、そのうちの何回かは『羊をめぐる冒険』を持っていった。最初の北海道の旅は青函連絡船だった。急行いわては上野発の、常磐線経由の盛岡行きだった。急行いわてを盛岡で下車した。青森行きの列車に乗り、深夜の青函連絡船に乗り継いだ私のリュックには『北帰行』が入っていた。その頃の北海道周遊券は21日間有効だった。

 下の1枚は1978年9月の立待岬である。そこには啄木一族の墓がある。

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 外岡秀俊は職業作家にはならず、朝日新聞の記者になった。『北帰行』は長い間自宅の本棚にあったが、10年ほど前にブックオフにいってしまった。

 もりおか啄木・賢治青春館は第九十銀行本店を利用した文学館だった。昔の銀行の内部を垣間見ることができた。金庫のなかに入ることができた。

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盛岡てがみ館

 もりおか啄木・賢治青春館の近くに盛岡てがみ館があった。郵便局の運営する博物館というわけではなかった。展示物は文学者たちの書簡(てがみ)、日記、原稿などであった。与謝野鉄幹、賢治、啄木、啄木の妻の手紙もあった。金田一京助の長い手紙の文面は小学生の文章のようなところもあった。

 後藤新平や米内光正の手紙もあった。太平洋戦争をどう集結させるかをほのめかした米内光正の手紙でも見つかれば、一級の資料になるのだろうが、戦時中にそんな大事なことを手紙に認めるはずがない。

 Hさんは興味を持ってそれぞれの手紙を読んでいたが、私はちょっとがっかりした。普通の人たちが書いた感動的な手紙が展示されているのだろうと思ったが、そうではなかった。後半はちょっと疲れていた。


久しぶりに見た盛岡銀行本店

 中津川の中ノ橋にある重要建築物は盛岡銀行本店である。東京駅と似ているのは辰野金吾が設計したからである。関東大震災を生き残った東京駅は、当時の日本の建築技術が世界の一流の水準にあったことの証明である。盛岡銀行本店は3年の工期をかけて1911年に竣工した。

 ヨーロッパの建築物と比較してみると、外観の凹凸は過剰である気がする。これを日本の洋風建築というのはいい。建築技術が一流であるかもしれない。しかしそういうことと文化的洗練度とはまた別である。様式の確立に到達したものを文化という。盛岡銀行本店を指してそこまで語るわけにはいかないだろう。

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 下の1枚は1999年11月28日の盛岡銀行本店。

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親切な盛岡人

 暗くなりかけた盛岡を歩き映画館通りをめざした。

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 桜山神社の東側の奥のほうはおもしろそうな雰囲気があったが、すでに陽は落ちていた。

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 映画館通りの近くまで来ていたにもかかわらず映画館を見つけられずにいたHさんと私は、映画館はどこにあるのだろうなどと話しながら歩いていた。

 そのとき、タカアンドトシのトシと似ているあんちゃんが会話に割り込んできた。映画館に行きたいんですか?といった感じで。

 トシはほんの少し馴れ馴れしかった。この人のいうことを信じてよいのかという雰囲気を漂わせていた。しかしまだ18:00くらいである。まさかこんな早い時間に歩いている2人組を相手に変な誘導をしてこないだろうと思う反面、ちょっとあぶない雰囲気も醸し出していたのである。Hさんと私がトシに道を尋ねたわけではなかったのに。

 こっちです、とトシは私たちを誘導しながら、どこから来たのかとか、寒いでしょうなどと話しかけてきた。やはりあぶないかもしれないと思ったが、せっかくの親切を無碍にするわけにはいかない。歩きながら微妙な会話を少し続けた。私たちのほうに話を切り上げたいという空気がありトシがそれを感じたのかもしれないが、映画館の近くまで案内してくれたあとトシは離れていった。いい人だったのだ。トシが離れていったあと、Hさんと私はトシのことで盛り上がった。

 その少し前、もりおか啄木・賢治青春館を探していたときにも同じようなことがあった。Hさんと私は、もりおか啄木・賢治青春館はどこなのだろう、と話しながら歩いていた。そのとき、その会話を耳にはさんだらしいおじさんが、あっちと指をさしてくれたのである。おじさんはそのまま去っていった。おじさんが離れていったあと、Hさんと私はおじさんのことで盛り上がった。

 正午過ぎには盛岡駅構内では「あんバター」の店を探していた。このときはHさんが店の場所を尋ねた。女性はそこまでつれていってくれた。

 盛岡人はあまりに親切である。1番目のトシと2番目のおじさんのような経験をしたことはHさんにも私にもなかった。

 狭いエリアに数軒の映画館があった。フォーラム、盛岡ピカデリー、盛岡東宝などである。それぞれの映画館に特徴はなかった。つまりある映画館は洋画が中心で、別の映画館はドキュメンタリー映画を主力にしていて、もう1つは子供向けだということではなかった。

 全ての映画館が、洋画、邦画、子供向け、マイナーな映画をごちゃまぜに取り揃えていたのである。カテゴリーキラーの映画館はなく、全部が総合デパートのような映画館だった。みんないらっしゃいとどの映画館も主張していた。

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薄利多賣半兵ヱ

 さて夜ご飯である。盛岡に来たのだから、わんこそばや冷麺となるのだろうが、わんこそばはせわしない。わざわざ冷麺ではないだろう。

 居酒屋に入ることにした。薄利多賣半兵ヱ(はくりたばいはんべえ)に入った。行きたい店の第1候補が閉まっていたHさんの第2候補の店である。あまりに昭和的な昭和風の店だった。あとで調べると全国に60店ほど展開するチェーン店だった。

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 Hさんと私は旅の話をし食べ物の話をしなんとなく雑談をした。

 あまりに多くのものを注文した。料理の単価があまりに安かったからである。例えば大根(おでん)60円、とり串炊き60円、タコウインナー260円、ハムカツ昔260円。

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 注文しなかったカレーせんべいは20円、そしてカエルは260円だった。


岩手県人の話し言葉

 Hさんは岩手で働いているが、岩手県人ではない。岩手と盛岡の話になった。物足りない、名物がない、代表的な食べ物もないという話になった。どちらかというと悪口である。

 岩手県人は「喋る」の使い方が変だと言う。例えば仕事場で、部下が上司に「それを○○さんに喋っといてください」などと言っているらしい。「しておいて頂戴」も変だと言う。「それをしておいて頂戴」などというらしい。「頂戴」は敬語であるが、部下が上司に使うのは変である。ところが岩手県人同士では違和感なく使っているらしいのだ。

 岩手県人は方言を放棄した人たちである。方言はあるらしいのだが、東北の他県人と比べると濃度は薄い。

 私の推測を書いておく。岩手県人は方言を捨て去ることに熱心だった。積極的に東京言葉を取り入れた。進取の気性があったということかもしれない。ここは盛岡一高のある盛岡なのだ。

 多くの東京言葉を取り入れていくなかで、「喋る」も「しておいて頂戴」もハイカラだったのかもしれない。だから違和感なく積極的に使用した。しかし言葉の輸入を急ぐ過程で、その使い方を吟味しなかった。本来大切にしなければならない語感やニュアンスの細部において十分な注意が払われなかった。その結果、一部の言葉が、使い方の細部を検証しないまま定着してしまった。(流行語のように)自然消滅してしまう場合もあるが、一度定着した言葉を意図的に放棄することは難しいだろう。それが「喋る」であり「しておいて頂戴」である。

 「喋る」「しておいて頂戴」と話した岩手県人はおそらく標準語を話していると思っている。それを聞いたHさんは言葉として方言でないことを知っているが、標準語としての語感のズレと使い方のまちがいがあることを感じている。そういった言葉に違和感を持ちながら、Hさんはその言葉の使い方を真似ているそうである。

1日目 2017年2月4日 横浜

「いくぜ東北。♪冬のごほうび♪」と書いてみたけれど、JRじゃなく夜行バスで行く東北。

 東北地方でもっとも魅力的なのは青森(県)だろう。九州における鹿児島(県)のように。

 魅力の根源的なところは地形にあると思っている。2つの半島で湾を作り出している。それは東京湾も同じであるが、青森と鹿児島の湾は本州の北端と南端にある。北端と南端の地形が人の営みに与える影響を知らない。知らないが何もないはずはないだろうと思っている。

 2つの半島で湾を作り出す地形は日本に100以上はある。たとえば納沙布岬とノシャップ岬が囲う稚内の海もそのカテゴリーに含めていい。奄美大島と加計呂麻島の両側から延びる小さな半島はいくつかの湾を作り出している。とくに加計呂麻島側は湾のなかに小さな湾がある複雑な海域になっている。

 それに比べれば新潟の海岸線はつまらない。ところが同じようななだらかな海岸線でも、猿仏から湧別までとなると話はちがってくる。行きたくなるのは背後の海がオホーツクだからである。

 東北地方で、青森の次におもしろいのは山形(県)で、おもしろくないのは岩手(県)だろう。

 岩手がおもしろくないのはその「だだっ広さ」に尽きる。平泉はあるが、全体として文化の稠密度が薄れる感じがする。かといって目を見張る大自然があるわけではない。「だだっ広さ」は福島、新潟などにも感じるが、岩手ほどではない。

 岩手に行くことにした。さんざんテレビでそのCMで見てきたJRで行きたいところだが、さくら観光のバスで横浜を発つ。ちょっとした遠征であるのに、夜行バスにわくわく感はない。閉鎖空間において8時間50分は長い。旅ではない、移動である。たぶん我慢できない。13倍以上の距離と21倍の時間を要するシベリア鉄道に乗るのとは旅の質感があきらかに異なる。

 嫌いな日本の夜行バスに揺られるしかないと覚悟を決めてYCATにやって来た。明日の朝、寒い盛岡駅前に立つだろう。そのときやさしい盛岡の人はこう言うだろう。

 こんな寒いところによく来たね

 標準語である。盛岡弁は歴史のなかに消えてしまった。東北で訛りが一番薄いのが盛岡だといわれている。

 いくぜ東北! 東日本大震災後、何度か足を運んだ東北地方のほとんどは太平洋沿岸部だった。

 いくぜ東北! 3ヶ月前、東日本大震災後見てこなかった東北内陸部の宮城、山形、福島に行ってみた。

 いくぜ東北! そして東日本大震災後の東北内陸部の岩手と秋田には何がある?

 横浜21:10発 → 盛岡6:00着

東北・太平洋沿岸部/アーカイブ6  「あまちゃん」人気健在!

6日目 2015年9月9日  宮古 田老 久慈

宮古

 ホテル宮古ヒルズのレストランで朝ご飯を食べていた。7:15頃、いきなりテレビ画面が変わった。「あまちゃん」が流れ始めたが、この時間帯にNHKが再放送をするはずがないだろう。誰かがビデオの録画に切り替えたのかもしれない。

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 北リアス線に乗るのは初めてである。三陸鉄道宮古駅で1日乗車券を買った。3,700円。

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 ♪8:00ちょうどの・・列車で久慈に向かう。10人ほどの客を乗せた2両編成は山を縫うように走った。雨は強い。景色は濃灰色に曇っている。最近のいつものように。

 宮古8:00発  田老8:18着


田老

 宮古駅から4つ目の田老駅で降りた。列車の行き違いがあり、上下の車両を合わせると高校生が10人ほど降りてきた。

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 田老には完ぺきな防潮堤があったと住民は考えていたが、それは2011年3月11日に過去完了形になった。

 岩手日報(2011年5月5日)の「住民主役の知恵忘れ 巨大防潮堤の矛盾」という記事にその辺りのことが載っていた。要旨をまとめ直してみた。

 田老は1896年(明治29年)と1933年(昭和8年)の大津波で甚大な被害を受け、1934年(昭和9年)に防潮堤の建設が始まった。高さは明治三陸津波の15mより低い10mである。防潮堤は湾口に対し直角に造ることで津波を沢沿いに受け流し、避難の時間を稼ぐことを目的としていた。そのあと市街地は碁盤の目のように整備され、縦方向の道路は山に向かって造られた。交差点の角を切り見通しをよくし、暗闇でも高台にたどり着けるようにした。
 1960年(昭和35年)のチリ地震津波後に建設された新防潮堤は高さ10mで、津波に真正面に立ち向かうように湾口に並行して造られた。しかし旧防潮堤と新防潮堤の間には、浜小屋が立ち、やがて家が増えていった。
 東日本大震災の津波は新旧両方の防潮堤を越えた。津波に立ち向かった新防潮堤は一瞬で倒壊した。旧防潮堤は最後まで原形をとどめ、住民が避難する貴重な時間を稼いだ。

 津波が防潮堤を乗り越えたというのはわかる。予想を上回る高さの津波がくることはあり得ることだ。しかし湾口に並行して建てられた新防潮堤が一瞬で倒壊したというのは納得がいかないのではないだろうか。新防潮堤の強度と構造計算が正しかったのかどうかは問われるべきだろう(すでに検証されていると思われる)。それでも想定外の津波の力が新防潮堤に加わったことが実証された場合は、それも許容しなければならなくなるだろう。

 問題はもう1つある。旧防潮堤と新防潮堤の間に家屋の建設を許せば、そもそも防潮堤の意味がなくなる。2つの防潮堤の間に家屋を建てさせないのは予算を供出した(であろう)国にたいする自治体側の責任だろう。これは人為であり、自然の驚異ではない。自治体が住民にたいして強制力がないのなら、つまり既存の法律や条例もしくは新しく制定される条例を駆使しても指定地域での新しい家屋の建築を阻止できないのなら、最初から国の予算で新防潮堤を建設するべきではない。当たり前のことである。

 前述の岩手日報はこのことにまったく触れていない。巨大防潮堤に守られた住民の防災意識のゆるみが被害を大きくしたという、平凡な内容で記事を終えている。住民と自治体は同じ土俵に立っているのではない。同新聞社が別の記事でその点を追及していないのであれば、地元ジャーナリズムの凡庸な追及能力はこれからも地元の自治体行政をいい加減なものにしていくだろう。

 田老の防潮堤についてはすでに多くの人が多くの事を語っている。チリ地震の津波はほとんどなかったのに、各国の視察団がやってきて、それが世界標準になってしまったというのもあった。

 田老町は2005年6月6日に宮古市と合併した。田老も鍬ヶ崎(くわがさき)も宮古市の地区で、田老の約10km南に鍬ヶ崎がある。2つの地域を比較したデータがあった。

 田老の死者・行方不明者229人
 津波被災人口3,000人/地区人口4,436人→被災者の7.6%が死亡・行方不明

 鍬ヶ崎の死者・行方不明者65人
 津波被災人口3,200人/地区人口5,400人→被災者の2%が死亡・行方不明

 2つの地域で死亡・行方不明者の数と割合に顕著なちがいが出ている。

 田老は防潮堤により住民を守ろうとしたが、鍬ヶ崎は防潮堤を建設しないで、別の方法を模索した。岩手大の教授の協力で、速やかに安全な場所に避難することを念頭に避難対策を進めた。

 結果は、すでに今後の津波対策に大きな示唆を与えている。このこともすでに多くのところで語られていることだ。

 田老は、私が訪ねた東日本大震災の被災地のなかでもっとも北に位置する場所である。

 そこには瓦礫の山があった。ただそれだけだった。瓦礫として集められているところもあったが、放置されたままになっているところもあった。人はいなかったというのが私の記憶であるが、ところどころに工事関係者はいただろう。駅の下の広場に止めたトラックのなかで休憩しているドライバーがいたことだけを記憶している。

 下の9枚は東日本大震災から111日目に当たる2011年6月30日の田老駅とその周辺の写真である。

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 2011年の写真の場所には、立ち入り禁止の札とともに、太陽光パネルが設置されていいた。それは「田老地区復興まちづくりに関する説明会」の資料のなかに書かれていた。

 宮古市は何度か説明会を開いている。資料はきちんと作成され配布されていた。住民の意見は聞き取られまとめられていた。住民の意見が反映されることは多くない。それでもこういう対話をやったことが、復興の実践段階での住民からの批判を和らげるものになるはずである。民主主義が実に面倒くさいものであることは「田老地区復興まちづくり検討会資料」のなかの「地区復興まちづくり便りへの意見等」に書かれてある無数の意見に目を通せばよくわかる。はっきり書いておくと、読み進める気力が失せる内容である。

 勝手な各人の意見をまとめることは不可能だ。それらを行おうした努力とは別に、実践されつつある復興案は実につまらない。田老はおもしろい町にはならないだろう。他の被災地とともに。

 太陽光パネルの設置場所を奥に進むと、工事現場があり侵入禁止の掲示があった。この道を進まなければ、海に向かう道はない。そういう感じだった。奥のほうには工事関係者の出入りするプレハブがあり、今日が水曜日であることを考えると、誰かいるはずである。注意されるかもしれないと思いながら進むと、今度は監視カメラ作動中の警告があった。まったく。進むのを止めた。

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 土の道が迂回路のようになっていたので、そこを進んだが、そこにも立ち入り禁止の警告があった。それを無視して進むと奥にはさっきのプレハブがあった。水門の工事をしているようだ。

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 あきらめて田老駅のほうに引き返した。水門のある川を遡ってみることにした。国道45号を越え、田老川に沿って歩いた。家はあるがまとまった集落を形成していない。その先に宮古北高校があった。田老駅でいっしょに下車した高校生たちはおそらくそこまで歩いたのだ。

 田老駅で何かを販売し始めたおばさんがいるというニュースが震災後にあったが、その痕跡はなかった。

 田老の中心部に行く時間はなかった。最初からなかったわけではない。強い雨が足を駅に止めた。

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 田老9:39発  久慈11:02着

 久慈行きの列車に乗った。1本前の列車より混んでいた。乗客のほとんどは観光客だった。

 右側の車窓に田老を守るはずだった堤防が見えた。かってそれは万里の長城とも呼ばれていた。1980年9月、高架を走った地下鉄の窓からベルリンの壁を見たことを思い出した。

 「あまちゃん」は三陸鉄道の車内にいた。

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久慈

 久慈駅のなかにあった観光案内所で地図をもらった。「あまちゃん」の撮影場所を尋ねてみた。駅前の建物と小袖海岸が撮影場所であることを教えてもらった。資料を用意していないということだったが、小袖海岸の案内はあった。

 旅先でときどきは映画やドラマのロケ地に行っている。ロケ地をめざした旅もあった。しかし「あまちゃん」を3回ほどしか観ていないので、あまり真剣にはなれない。ロケ地に行く意味はあるのだろうかとは思っている。ところがどうやら、普通に久慈の観光をしていくと、ほぼ「あまちゃん」をなぞる旅になってしまうようなのだ。

 三陸鉄道の駅とJR八戸線の久慈駅が隣り合って並んでいた。三陸鉄道とJRの乗り替え駅は、盛、釜石、宮古、久慈の4駅あり、どこも両駅の駅舎が並んでいる。駅舎はそれぞれ独立しているが、ホームは近接しており、線路はつながっているのだろう。車両を三陸鉄道に入れる必要があるのだから。

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 学生時代、久慈には一度来ている。八戸線で久慈に着き、折り返しの列車で八戸にもどった。久慈駅周辺をちらっと見たはずなのだが、駅前に立ってみても思い出すことはなかった。遠い記憶を蘇らせることは、シロウトが久慈の海でアワビを採るほどに難しい。

 「あまちゃん」のロケ地は久慈市内にはほとんどないらしい。北三陸鉄道の駅として使われた三陸鉄道久慈駅と駅前にある古い建物ぐらいである、観光案内所の人はそう言っていた。

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 雨は早朝より強くなっている。傘を差して町に出た。駅を背にして左側に古い建物が並ぶ一角があった。その辺りから町に入っていった。

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 その一角から町の中心方向に歩いているとき、あまちゃんハウスの看板のある建物を見つけた。「あまちゃん」のロケで使われた小道具などが展示されていた。写真の展示などもあり、ファンにとってはどうしても訪ねてみたい場所なのだろう。3人の女性旅行者がドラマのシーンについて話していた。

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 久慈駅前から盛岡に向かう国道281号が西に延びている。少し歩くと銀行が集まっているところがあった。北日本銀行と岩手銀行のある交差点を南に歩いた。最初にぶつかった通りの右手に道の駅やませ土風館があった。さっき久慈駅で、ここに来ると言っていた団体がいた。

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 やませ土風館には観光交流センター風の館、レトロ館などがあった。物産館「土の館」では地元の野菜や銘菓が豊富に並べられていてけっこう賑わっていた。

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 やませ土風館の正面は郷土料理や手打ちそばなどの屋台が並ぶ歴通路広場になっていた。

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 久慈駅にもどり、久慈海岸線のバスに乗った。バスは久慈駅から三陸鉄道陸中野田駅を結ぶ路線を走る。途中に小袖海岸がある。1日3往復の路線で、久慈駅12:00発が始発である。小袖海岸には12:38に着く。小袖海岸であまりのんびりはできない。帰りは小袖海岸13:48発のバスが最終だからである。ただし陸中野田に抜けようと思えば、久慈を発車するバスが2便残っていることになる。

 市民バス時刻表を見て驚いた。バス会社が多い。侍浜線、日吉循環線は三陸観光、山根線、新町循環線はヒカリ総合交通、大野線、久慈海岸線などは岩手県北バス、川代線が三河交通により運行されている。それ以外にもJRが東京、盛岡、二戸を結んでいる。

 バスは20分ほど宮古市内を回ったあと、海岸線に沿った県道268号を走り始めた。今日までに乗ったJRのBRTも三陸鉄道も、海岸線に沿って走る機会はほとんどなかった。初めての海岸を行く旅になった。今日が晴天ならどんなによかっただろう。

 海は大荒れである。低気圧が京都辺りを過ぎたらしく、東北のほうに行くかもとCさんからメールがあった。今日の最高気温は18℃、最低気温17℃らしい。寒冷の久慈海岸だった。

 信号待ちのとき、左斜め後ろの前面展望の席からドライバーに尋ねてみた。

 つりがね洞の近くのバス停で降りた場合、20分ぐらいで小袖海岸まで歩けますか?
 かなり遠いですよ それにこの雨ですから・・
 難しいですか?
 つりがね洞の辺りをゆっくり運転しましょう

 やさしい・・・

 何度か乗った東陽バス(沖縄)のドライバーたちには底が抜けたような人懐っこさがあった。忘れられないのは、あざまサンサンビーチまでの路線バスのなかで、乗客が十数人いるのに、私のためにマイクを使いながら観光案内をしてくれ、時間があるのだったら乗っていけと終点まで乗せてくれ、折り返しで目的のバス停で降ろしてくれた。本当はやっちゃいけないんだと言いながら、路線上にない亀甲岩の近くまで乗せてくれたのは久米島町営バス(沖縄)のドライバーである。旅先でとくに世話になったバス・ドライバーのお1人として、岩手県北バスのドライバーを加えさせていただく。

 海岸線に沿って走っていたバスは久慈市漁港の建物の横から大尻上の集落に入っていった。大尻上バス停で3、4人を降ろし、また久慈市漁港の建物のところにもどってきた。バスはまた海岸線を走り始めた。

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 ここですよと、ドライバーは左後ろの私の席に合図をくれた。バスは兜岩とつりがね洞の付近をゆっくりと走った。天井部分から釣り鐘のかたちをした岩がぶらさがっているのでつりがね洞と名付けられたらしい。釣り鐘の岩は1896年の津波で流され、今は洞窟になっている。荒々しい久慈海岸を代表する場所である。

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 礼を伝え小袖海岸バスを降りた。

 斜め60度くらいの横殴り。小さな小袖漁港を傘が反り返るほどの雨風が吹き荒れていた。バス停の近くに閉じている古い店があった。少し歩いたところで、雨風のなかで工事をしている人たちがいた。堤防の上のほうにあとから継ぎ足したような線があった。工事関係者に尋ねてみると、堤防のかさ上げ跡だということだ。

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 雨に濡れた数店の屋台のうちの2つが営業していた。

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 5分ほど歩いただけなのにズブ濡れになった。避難のため、小袖海女センターの建物に入った。

 「あまちゃん」のロケ地は、久慈市だけではない。久慈市の北にある洋野村、久慈市の南にあり三陸鉄道北リアス線の駅のある野田村、普代村、田野畑村に散っている。3回ぐらいしか見ていない私は断言できないが、どうやら小袖漁港と小袖海女センターがロケ地のメインらしい。

 「北限の海女」がここにはいる。その中心が小袖海女センターらしい。7月1日から9月末日までの土日祝日に、この場所で「北限の海女」の素潜り漁の実演を見ることができる。

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 その場所で海を見ていた30秒ほどの間に、押し寄せてきた波を被ってしまった。一瞬の出来事で、傘で防御したが、半身は水浸しになった。

 小袖海女センターの狭い建物の3階は食堂になっていた。まめぶ汁を食べた。久慈市山形町の8つの集落というかなり限定された地域で食べられていた冠婚葬祭のハレの際の伝統料理である。それが久慈市全体に広がり始め、東日本大震災の際に炊き出しとして広まった。クルミと黒砂糖で作った団子を野菜といっしょに煮た料理で、炊き出しにはもってこいかもしれない。「あまちゃん」では「おかずかおやつかわからない微妙な食べ物」として一挙に知名度を上げたらしい。はっきり書いておきます、おやつではありません、おかずです。

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 半身がずぶ濡れになっている私を見た食堂スタッフが言った。

 雨に濡れたのですか
 雨と波です さっきいきなり波に襲われて
 今日の波打ち際では、波に流される可能性もありますよ 
 確かに・・・

 ドラマのなかの能年玲奈が、小袖漁港にある堤防を走ったらしい。観光客が能年玲奈を真似して走った、そして怪我をしたと教えてくれた。

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 小袖海岸13:48発の最終バスで久慈駅にもどった。町中を少し歩いたが、半分以上の時間をやませ土風館のスリースペースで休んでいた。
 
 三陸鉄道久慈駅にもどり、宮古行きの列車に乗った。

 久慈16:08発  宮古17:43着


宮古

 宮古の雨は久慈よりは柔らかかった。駅前から続く道路を北のほうに歩いた。

 店が30ほどありそのなかには食堂もあることを教えてくれたのは、今朝久慈に向かう列車のなかにいた地元の人だった。今夜宮古に泊まると告げた私から地図を取り出させ、その場所を教えてくれた。宮古に来る人はみんな、そこに行くと言っていた。

 信号を5つほど過ぎたところに宮古魚菜市場があった。あるにはあったが、それは閉まっていた。時間が遅いからではなかった。水曜日は市場まるごとの定休日だった。

 仕方なく、駅にもどる途中にあった中華料理店で野菜炒めを食べた。意外に飲食店が多い町なのだ。  

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東北・太平洋沿岸部/アーカイブ5  三陸海岸を北へ!

5日目 2015年9月8日  気仙沼 大船渡 盛 釜石 宮古

気仙沼

 BRT(バス高速輸送システム)の南気仙沼駅は(旧)南気仙沼駅からかなり離れたところにあった。そこは気仙沼市内を走るバスの気仙沼市民病院前バス停と同じ場所だった。同じ場所にあるのだから同じ名前にすればいいと思うのだが、JRのBRTは原則として鉄道と同じ駅名で営業をしている。駅数(=バス停の数)を増やすこともしていない。つまりバスのくせに小回りが効いていない。駅を増やせば、速達性が落ちてしまうという側面はある。

 BRTの南気仙沼駅(=気仙沼市民病院前バス停)は民宿天心から徒歩で15分くらいである。そこからBRTで1駅先の気仙沼駅まで行って、7:36発の釜石行きBRTに乗ろうとすると、6:30頃に民宿天心を出なければならない。昨夜、朝ご飯を6:00にしてもらえないかと民宿天心の女将さんにやや無理なお願いをしてみた。乗り継ぎの事情などを話すと、7:00過ぎにご主人が気仙沼駅まで送ってくれることになった。女将さん、ご主人ともに宿泊客の都合を考慮しようという心使いにあふれた方たちでありがたかった。朝が楽になった。

 6:30に、自転車で旅をしている会社員と城の研究をしている大学院生といっしょにボリュームのある朝ご飯を食べた。おいしい朝ご飯付きで5,000円の民宿天心はかなりヒットだった。

 小雨のなか、会社員が自転車で旅立った。大学院生と私はご主人の車で民宿天心を出た。

 気仙沼7:30発のBRTで大学院生は石巻方面に向かい、私はすぐあとの盛(さかり)行きのBRTに乗った。

 気仙沼7:36発  大船渡8:53着

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大船渡

 気仙沼から盛までJRが走らせているBRT大船渡線は鉄道と同じ扱いである。青春18きっぷで乗ることはできるが、今日乗る予定になっているJRの路線はここだけである。青春18きっぷの最後の1日分(5日目)を使用しないで、840円でチケットを買った。

 JR大船渡線は東北本線一ノ関駅から大船渡市の盛駅までの路線である。線形が龍に似ているので、ドラゴンレール大船渡線と呼ばれている。線路が大きく湾曲して敷設されたのは、政治家がルートをねじ曲げたからだ。岩手県の原敬率いる立憲政友会も線路の湾曲には一役買っている。

 車窓はそれほど風光明媚ではない。東日本大震災による被災のため、気仙沼線と同じように、この路線も2つに分割されてしまった。鉄路が残っている一ノ関駅から気仙沼までは気動車が走っているが、気仙沼駅から盛駅まではBRTになった。

 気仙沼駅を出たBRTは山のなかに入り、広田湾の見えるところで海側を少し走った。次に海が見えたのは細浦駅だ。ここはもう大船渡市で、細浦駅は大船渡湾の出入り口にある。BRTはそこから大船渡湾に沿って北上した。

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 BRT気仙沼線に乗車しているときも感じたが、単線だった鉄道路線をバスが走るというのは思った以上に窮屈である。一般道路が余裕をもって作られているように感じたのは、狭くても歩道があるからかもしれない。

 BRT気仙沼線と同じように、BRT大船渡線もすべて鉄道線路跡を走るわけではなかった。ところどころで一般道を走り、適当なところで鉄道線路跡を走った。北海道の廃線跡によくあるようなサイクリング道路にするよりは有効であると思うが、今のところBRTをヒットというわけにはいかないように思う。

 BRT大船渡駅で降りた。旧駅の方向をドライバーが教えてくれた。

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 小雨が落ちてきた。工事をしている人に再度、確認した。旧大船渡駅舎の痕跡はなかったが、ホームらしきものはあった。駅前の方向はわかった。それだけである。これからここがどういうふうに変わっていくのか想像できなかった。

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 下の6枚は2011年6月29日の大船渡駅周辺である。上の3枚の写真と同じような場所である。

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 港に向かった。BRTの駅は工事現場の真ん中にあった。道路は工事現場のなかを通っているようなものだった。港周辺も工事中だった。作業員に許可をもらい港の工事現場のなかに入らせてもらった。

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 あの日、夕方まではまだ少し時間があった。そういう時間帯に大船渡に着いた。レンタカーのナビが役に立つのか立たないのかがわからなくなっていた。「次の信号を右に曲がってください」と指摘される場所に信号がなかった。こういう場合、ナビは役に立たない。一方、周辺の建物が流されてしまっている場所では、ナビの指示がなければ、どこまで真っすぐ走っていいのか見当がつかなかった。

 あの日、大船渡駅では瓦礫を取り除く工事をしていた。立ち入り禁止の案内はなく、規制をするテープはなかった。しかし駅前に立っていた現場監督風の男は煙草を吸いながら、一般道に立っているだけの私に向かって、駅に近づくなと言った。不必要にえらそうなヤツだった。


盛(大船渡)

 盛駅までを歩いてみることにした。

 大船渡市の中心である大船渡駅は、JR大船渡線と三陸鉄道南リアス線の乗り替え駅となる盛駅から南側に1つ目の駅である。三陸地方を北から南に移動する場合、釜石から三陸鉄道南リアス線でやってきて、盛駅でJR大船渡線に乗り替える。この列車接続がうまくいかないこともある。その上、JRの列車で1駅目の大船渡駅で下車し、次の列車で南に向かう場合、両駅での待ち時間が長くなる。南から北に移動する場合も同じである。乗り継ぎの問題を解決し、同時に大船渡の町を歩くには、両駅間を歩くのが手っ取り早い。

 列車がBRTに変わっても事情は同じである。そもそも大船渡の町歩きが、あまりおもしろくないことを承知している。大船渡駅周辺は工事中のところが多く、おもしろくなかった町歩きがますますおもしろくなくなっていた。

 BRTの軌道に並行している県道230号を北に向かって歩いた。

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 途中でBRTの専用道を跨いだ。

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 下の5枚は2006年11月29日の大船渡駅とその周辺。今日と似たようなルートを歩いた。

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 盛駅前にはJR盛駅と三陸鉄道盛駅が並んでいた。

 盛駅の周辺を歩いたことはなかったので、探索してみた。駅前を南北に走る県道230号を渡って少し歩くと、県道に沿った通りがある。ここがおそらく盛町商店街である。レトロであるといっていいのかどうかわからないが、地味な通りではある。店がないわけではないが、目立ったものはない。ここは毎月0と5の付く日に朝市が開かれる場所なのだが、8の付く今日は静かな佇まいを見せている。

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 その西側を南北に走っている通りは浜磯街道と呼ばれているらしい。国道45号のことで、なんと仙台から青森まで三陸海岸に沿っている道路である。浜磯通りというよりも、「三陸縦断道路」という命名が的を得ているだろう。

 三陸鉄道南リアス線盛駅の駅舎は、三陸鉄道スマイルいわて盛駅となっていた。

 三陸鉄道盛駅を「今夜くらべてみました/日本テレビ」。

 下の1枚は2015年9月8日の三陸鉄道スマイルいわて盛駅。

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 下の2枚は2011年6月30日の三陸鉄道盛駅。

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 下の1枚は1999年8月29日の三陸鉄道盛駅のホーム。

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 三陸鉄道スマイルいわて盛駅舎内のふれあい待合室は手作り感が満載である。駅名キーホルダー、きっと芽がでるせんべい、三鉄サイダー、恋し浜マドレーヌなどさまざまなものが売られていた。赤字せんべいのネーミングは秀逸である。旅人の思いが込められたふれあいノートが置かれていた。この駅では毎月のようにイベントをやっている。駅にもどったとき、レンタサイクルが無料、荷物預かりが無料であることを知った。無料のレンタサイクルは珍しくないが、無料の荷物預かりは他の駅にはない。

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 東日本大震災後の盛・吉浜間の運転再開は2013年4月3日である。吉浜・釜石間は、2014年4月5日に運転が再開された。津波の被害だけではなく、地震による被害もあった。盛駅も線路の取り換えなどをしたはずである。クウェートからの支援で3両の新造車両が登場したことを忘れてはならない。

 三陸地方への起点をどこにするか、いつも迷う。

 学生時代に八戸→久慈→八戸を旅した。
 1995年8月は、花巻→遠野→釜石→宮古→釜石→盛→大船渡→気仙沼→石巻を旅した。
 1999年8月は、小牛田→気仙沼→盛→釜石→宮古→盛岡を旅した。
 2006年11月は、花巻→釜石→大船渡→気仙沼→石巻→女川を旅した。

 入り口は気仙沼、釜石、宮古、久慈の4ヶ所あるが、気仙沼へのルートは気仙沼線と大船渡線のどちらかを選択することになる。


 三陸鉄道で釜石に向かう。

 盛11:00発  釜石11:51着

 三陸鉄道南リアス線の車窓は全体としてはつまらない。海岸線に沿って走らないからだ。手の平に例えると、指先まで指をなぞるように走るのではなく、指と指との付け根の短絡線を走る。集落や漁村は指の付け根にあり、海岸線が見えるのもそういう場所である。今日の濃灰色の空を映す太平洋に感動は期待できないが、例外がないわけではない。三陸鉄道は観光客のために景色のよいところで止まってくれた。頻繁に乗車する住民には迷惑な話だと思うが、地元のために我慢してくれている。乗客の80%ぐらいは観光客だと思われる。

 恋し浜駅で3分停車。写真を撮る機会をくれた。駅の下に集落があり、その向こうに太平洋が広がっていた。駅舎のなかには、ホタテ貝の絵馬掛けがぎっしり吊るされていた。もともとホタテは小石浜のブランドである。恋し浜駅は、小石浜という駅名を変更してできた駅名である。ここは恋人たちの聖地になっているらしい。10月17日には男女それぞれ20人を乗せて「いわてさんりく恋列車」が、盛駅→恋し浜駅→唐丹駅→盛駅で走るらしい。参加資格は男性が20歳以上45歳以下の未婚者、女性は20歳以上の未婚者となっている。男性の参加費用が6,000円なのに対し、女性は2,000円である。

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 吉浜駅を過ぎたところで列車はスピードを落とした。曇空だったので、きれいな風景とは言えなかったが、これも観光客のためにサービスである。

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釜石

 釜石駅の2つ手前が唐丹(とうに)駅である。唐丹駅を出て最初のトンネルを抜けたところの線路が津波でぐにゃりと曲げられ反り返っている写真を見たことがあった。下の2枚は2011年6月30日の唐丹駅とその周辺の様子である。

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 列車が釜石駅に入るとき、長い鉄橋を渡る。ゴツゴツした感じの鉄橋で、橋上市場がなくなったあとの釜石の象徴でもある。

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 三陸鉄道の釜石駅に着いた。隣にJR釜石駅があった。

 JR釜石駅は新しくなっていた。行く先々でこれほど駅舎が変わっている旅は今回が初めてである。この旅の最初の日から毎日どこかで新しくなった駅舎を見てきている。

 JR釜石駅の4枚の写真を「今夜くらべてみました」。

 下の1枚は今日、2015年9月8日のJR釜石駅である。黒い駅舎。

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 下の1枚は2011年6月29日のJR釜石駅である。青いシートと骨組みで覆われた駅舎。改修中である。

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 下の1枚は2006年11月29日のJR釜石駅である。白と薄緑の駅舎。

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 下の1枚は1999年8月30日のJR釜石駅である。白と薄緑の駅舎。

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 釜石駅の隣にある三陸鉄道(北リアス線)釜石駅は、駅という感じではなくなっていた。駅舎のなかにいた案内の人に、宮古へのバスの時刻を尋ねたとき駅舎の話になった。イオンが命名権を取得し、2015年4月から2016年3月まで「イオンタウン釜石駅」になったそうである。

 2枚しかなかった三陸鉄道釜石駅の写真も「今夜くらべてみました」。

 下の1枚は今日、2015年9月8日の三陸鉄道イオンタウン釜石駅である。

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 下の1枚は2011年6月29日の三陸鉄道釜石駅である。

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 釜石の町を歩いてみた。 

 駅を出て南西方向に少し進み、南リアス線の線路を潜ると、甲子川を渡る。花巻からJR釜石線でやってきた場合、釜石駅の3つ手前の洞泉駅ぐらいから、甲子川に沿った家並みが現れてくる。釜石に来たなと感じるのだが、釜石の中心はあくまで釜石駅から甲子川を越えたところから釜石港までの間である。ゴツゴツした鉄橋を渡る三陸鉄道南リアス線でやって来てもJR釜石線でやって来ても、釜石に入るときはそれとなく鉄の雰囲気が現れる。

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 釜石は男の町である。そういう感じがする。それは釜石が新日鉄の町であり、ラグビーの町であるからだろう。鉄橋のようにゴツゴツしているのだ。

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 甲子川から県道4号が港まで続いている。橋を渡ったところをまっすぐ釜石港のほうに進まないで、左手の一角に入ってみた。最初に釜石に来たのは1995年8月である。宿泊先の予約をしないで日が暮れてから釜石に入った。たまたま見つけた安宿に泊まった。宿泊費は2,000円台の後半だったと思う。5階建てくらいの細い建物で、工事関係者の飯場という感じのようなところだった。前々回に来たときも、その場所を探そうとした。そのとき見つからなかったのだから、今日見つかるはずがない。それでも妙に探してみたくなる。旅を重ねるとそういう歩き方をすることもある。

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 取り留めもない場所を歩いて何も発見できず、県道4号にもどった。

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 釜石港に向かう途中、復興商店街のような場所があった。釜石駅でもらった案内には、青葉公園商店街など4つの復興商店街があると記載されていたが、そのどれでもなかった。近くの商店主たちが独自で運営している場所なのかもしれない。青葉公園商店街はわりと近い場所にあったが、そこに行く時間はなかった。 

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 1999年8月にはホテルサンルート釜石に泊まった。このホテルが津波を被ったのは知っていた。その後のことが気になっていたが、修復され営業していた。ホテルサンルートの前は青葉通りとしてきれいに整理されていた。

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 さらに港のほうに近づいていく。左奥に遠目に見えていた小高い山が県道4号に近づいてきた。小山にある階段を登った。

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 2011年6月30日にも階段の上に立ち、東日本大震災から111日目の釜石を眺めた。この場所から撮影された津波の映像はテレビで何度となく放映された。津波を見て泣き出した女の子がいて、顔をそらせる女性がいた。そういう映像だった。

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 下の13枚は2011年6月30日に撮った釜石である。そのうち下7枚は前述の高台から撮った。

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 釜石の中心部も港の近くも復興しているとは言い難かった。女川や大船渡が有無を言わせぬ大型工事が進行していたのに対し、釜石に復興の槌音は響いていなかった。釜石の別の場所ではそれなりの工事が進行していたのだろうけれど。それとは別に、女川や大船渡で見たような大規模な区画整理と工事がよいことなのかどうかはわからない。

 どうやっても人口減少地帯を元にもどすことはできないだろう。それは東北・太平洋沿岸部の被災地だけの問題ではない。東日本大震災と津波は、政治による予算配分により現実を隠すために作用してきた過疎と高齢化の問題を浮き彫りにした。日本のどこにでもある問題が先駆的にあぶり出されてしまった。東北・太平洋沿岸部の固有の問題は、福島・浜通りの問題だけである。

 津波で多くの漁港が使えなくなったとき、宮城県知事が漁港を統合すると言っていたのに対し、岩手県知事は1つの漁港もつぶさないと宣言した。あれはどうなったのだろう。2日目に行った久之浜(福島県)の語り部さんは、漁港の統合の話をしていたけれど。

 下の12枚は2006年11月29日に撮った釜石の中心部である。釜石の見どころは、新日鉄、釜石大観音、呑兵衛横丁であるが、今回はそれらの場所には寄らなかった。

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 10年以上前、釜石の見どころの1位は、新日鉄でも釜石大観音でも呑兵衛横丁でもなかった。それは世界に2つしかなかった橋上市場である(もう1つはフィレンチェのヴェッキオ橋)。釜石の橋上市場は駅前に場所を移し、サン・フィッシュ釜石になっている。これについても「今夜くらべてみました」。

 下の1枚は2006年11月30日のサン・フィッシュ釜石。味も素っ気もなくなった。

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 下の3枚は1999年8月30日6:00頃の橋上市場と橋の袂の朝市。

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 下の1枚は1995年8月x日の橋上市場。

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 JR釜石駅にもどった。慌てて駅そばを食べ、駅前広場にあるバス乗り場に向かった。三陸鉄道釜石駅で尋ねたとき、バスは始発ではないので注意してくださいと言われていた。 

 釜石駅前にやってきたバスは道の駅やまだ行きである。がらがらのバスがやってくると思っていた。とんでもない。帰宅する高校生でバスはラッシュアワーである。全国のローカル線が満員になるのは高校生の通学時である。鉄道が走っていない太平洋沿岸部ではバスが彼らの餌食になっている。当然、定員の少ないバスは満員になる可能性が高い。生徒たちはハードな毎日を送っていた。

 40分ほど立ったまま乗っていた。景色を見る余裕はなかった。釜石を出たバスは大槌町に入った。

 釜石駅前  14:26発  道の駅やまだ15:14着 (岩手県北バス)
 道の駅やまだ15:38発  宮古駅前  16:41着 (岩手交通)

 バスは少し遅れて道の駅やまだに着いた。ここは山田町である。

 大槌町も山田町も東日本大震災で大きな被害を被った。4年半前レンタカーで2つの町を通ったとき、被災地を周っていることに面倒くささを感じていた。想像を越えたものを見てきたせいで、何かの感覚が麻痺していた。人がいない被災地の空気は埃っぽく、暑くなりそうな夏の予感だけがあった。

 10分ほど待ってやってきたのは、宮古駅前行きバスである。今日のラスト・ランである。

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どうなる三陸の鉄道

 釜石から宮古を経由して盛岡までJR山田線が走っている。本来は宮古まで列車で行けるのだが、東日本大震災は、釜石から宮古までの線路をずたずたにした。つまり山田線も、気仙沼線、大船渡線と同様に2分割されてしまった。しかし気仙沼線や大船渡線と異なるのは、山田線の被災区間をJRがそのままにしていることである。

 現在、釜石・宮古間は路線バスを2本乗り継いで行ける。前述した、釜石駅前→道の駅やまだ→宮古駅前のルートである。これはJR東日本の代行バスではない。だから青春18きっぷの適応範囲外となっている。

 JR東日本は釜石・宮古間を運休したままにしている、「運転を見合わせています」という言葉とともに。「○○駅で人身事故があったため、京浜東北線は現在、運転を見合わせております」といった駅のアナウンスを首都圏の鉄道利用者はかなり頻繁に聞いている。そのとき多くの人は、少し待てば運転は再開されるだろうと解釈している。地元が望んだかどうかは別にして、気仙沼線と大船渡線がBRTで運転再開するという仮の結論が下され実行されたのとは異なり、山田線は4年半の間「運転を見合わせている」のだ。

 東北・太平洋沿岸部の鉄道の状況をここでまとめておく。

1.常磐線(竜田~原ノ町/相馬~浜吉田)

 復旧させるのだろうが、線路のかさ上げや路線変更の際の用地買収などの目途が立っていない。

2.気仙沼線(柳津~気仙沼間)、大船渡線(気仙沼~盛)

 JRの路線としてBRTで運行している。公式的に、BRTは仮復旧という扱いである。地元にとっては鉄道の復旧が期待できるように玉虫色の決着をしたのだろう。気仙沼の民宿天心のご主人は、地元との話し合いが継続中であると言っていた。地元は鉄道を望んでいるが、線路は完全に取り外されており再び列車が走ることはないだろう。これは私見であるが、常識的に考えればそこに落ち着くだろう。

3.山田線(宮古~釜石)

 どうやら決着が付いているようである。山田線の復旧費用は210億円。そのうち原状回復費用140億円はJR東日本が負担する。地盤のかさ上げなどの費用70億円は自治体が負担する。さらにJR東日本は、車両の無償譲渡、軌道の強化、人的支援を行うなどの妥協をしたそうで、その後、三陸鉄道に譲渡される。地元の要望はおそらくJRの手による鉄道の復旧だったと思うが、それはかなえられなかった。しかし次善の策としてJR以外の経営主体(三陸鉄道)による鉄道の復旧は成し遂げられるということだ。

 これで三陸鉄道は久慈から盛までの線路でつながることになる。つまり北リアス線と南リアス線の間に、中リアス線が加わることになる。路線が一本化され、経営は効率化できるだろう。しかし赤字は続くだろうから岩手県の負担は増えると思われる。

 盛から久慈まで直通の列車が運転されるのは、旅人にとってはうれしい話である。

4.JRの動向と三陸鉄道

 ここから話は複雑になる。現在、BRTで運行されている気仙沼線(柳津~気仙沼間)と大船渡線(気仙沼~盛)の動向が今後クローズアップされるかもしれない。JR東日本は山田線(宮古~釜石)方式でケリをつけたいはずなのだ。つまり引き受け手を探し、BRTの2路線を切り離したいというのが本音だろう。引き受け手がなければ、当分はBRTを続けることになるだろう。

 あくまで仮の話であるが、BRT2路線を三陸鉄道に譲渡すれば、柳津から久慈までが三陸鉄道の線路となる。岩手県と宮城県にまたがるので現実的ではないが、もし実現すれば、京都を起点とした列車が運行されていた過去の山陰本線のイメージに近い長大ローカル線が誕生することになる。

5.岩泉線(全線)

 土砂崩れによる脱線事故により運休が続いていた。東日本大震災とは直接に関係ないが、震災後の2014年4月1日に廃線になった。


宮古

 JR宮古駅と三陸鉄道宮古駅が並んで駅前を形成していた。 

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 JR宮古駅の3枚の写真を「今夜くらべてみました」。

 下の1枚は今日、2015年9月8日のJR宮古駅である。

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 下の1枚は2011年6月30日のJR宮古駅である。

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 下の1枚は1999年8月30日のJR宮古駅である。

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 駅から徒歩3分のところにあるホテル宮古ヒルズにチェックインした。カプセルホテルとは少し異なるカプセルルームという形態になっていた。一般にカプセルホテルは、荷物を入れるロッカーはカプセルとは別の場所にあるが、ここはカプセルとともに、アコーデオンカーテンで仕切られた内側にあった。つまり疑似的な個室のなかにカプセルとロッカーがある作りになっていた。便利ではあったが、ロッカーのスペースがあまりに狭く、使い勝手がいいとは言えなかった。1泊、4,082円。

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 駅前をぶらぶら歩いた。町は広くない。レトロなよい町だった。

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 下の12枚は2011年6月30日の宮古の中心部である。2011年の東北・太平洋沿岸部への旅で宮古だけは撮った写真が異なる。田老地区を除いて、被災地にカメラを向けていない。町並みがおもしろかったからである。

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 下の2枚は1999年8月30日の浄土ヶ浜である。一般の観光客はこういうところに行くわけだが、まったくおもしろくなかった。

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 下の1枚は1995年8月x日の宮古港である。浄土ヶ浜に行くバスがなく、歩いたが、遠すぎた。宮古港を見ただけで、引き返してしまった。

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 この町の飲食店は目立たないが、数は多いようだ。駅前の蛇の目本店で刺身定食を食べた。

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