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日本細見紀行 

日本各地の旅日記
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3日目 2019年1月9日 新潟 長岡

長岡に行くことにする

 6:30から朝ご飯を食べることのできるホテルは多くない。

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 今夜新潟駅から横浜行きのバスに乗る予定でいたが、昨日新潟市内の多くの場所を周ってしまった。今日一日新潟にいても時間つぶしをするだけになってしまう。

 横浜に向かう高速バスは燕三条駅と長岡駅に停車する。乗車するバス停を変更することはできる。燕三条は2日前に行っているので、変更するとなると長岡ということになる。

 朝ご飯を食べながら、長岡に移動することに決めた。スマートフォンで、桜交通バスの乗車場所を「長岡駅大手口」に変更をした。


長岡に移動する前に日本海と寄居浜を見に行くことにした

 長岡に移動するつもりでいるが、その前に日本海と寄居浜を見ておきたい。昨日朝鮮総連新潟本部を見たあと、見ておきたい場所として浮上してきた。

 昨夜ホテルで3時間ほどかけて必要な情報を収集した。


横田めぐみさん拉致事件の現場

 スーパーホテルをチェックアウトした。

 新潟駅まで行かないで、国道7号沿いにある新潟駅前通バス停から新潟交通のバスに乗った。

 新潟交通C21浜浦町線/新潟駅前通バス停 7:37 → 附属学校入口バス停 7:47/料金210円

 バスは満員だった。乗れないかもしれないと思ったくらいである。バスのなかの人たちが奥に詰めようとしないので、私の前に並んでいた小学生は「後ろ乗り、前降り」の後方ドアのステップに足を掛けることができず、私を含めてそのうしろに並んでいた数人の乗車に時間がかかった。乗客の多くは小学生、中学生だった。

 万代シテイ、古町のバス停でそれぞれ何人かが降りた。

 一番多く人が降りたのは「付属学校入口バス停」である。私もそこで降りた。

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 バス停名の「附属学校」とは、新潟大学教育学部附属小学校、附属中学校、附属特別支援学校を指す。

 そこから200mほど南に歩いたところにあったのは新潟市立寄居中学校である。横田めぐみさんはこの中学校の1年生(13歳)だった。

 ※作家の新井満、国際政治学者の猪口孝(猪口邦子の夫)も寄居中学校の出身である。

 生徒の登校が始まっていた。生徒は通りの両側から寄居中学校の門を通過していった。校門に大人はいなかった。

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 1977年11月15日19:00過ぎ、いつも18:00に帰ってくるめぐみさんが帰らないので、母、早紀江さんは寄居中学校まで見にいっている。学校はすでに人気がなかったが、校舎の裏手にある体育館には電気がついており、女の人の声が聞こえてきた。まだ練習をやっているようだと思った早紀江さんはほっとしたそうである。しかしその声はお母さんたちのバレーボールの練習によるもので、生徒は18:00頃帰ったと守衛に伝えられた。早紀江さんは友人や顧問の先生に電話を掛け、懐中電灯を持って周辺を探した。

 バドミントンの練習を終えためぐみさんは、18:25頃、部活の友人といっしょに3人で校門を出た。寄居浜のほうに向かって歩いた。1人は2つ目の角を右に、もう1人が次の交差点を左に曲がった。そこでめぐみさんは1人になった。18:35頃である。

 そこから少し進んで2筋目の角を左に曲がると自宅の方向である。捜査中の警察犬が立ち止まったのはその角だった。下の写真の場所である。

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 すぐそばに「附属学校前バス停」がある。さっき私が下車した「附属学校入口バス停」のすぐ近くだが、バス停の名称は異なる。2つのバス停は200mほどしか離れていない。ややこしい。

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 「附属学校前バス停」の前にあるのは、前述の新潟大学教育学部附属小学校、附属中学校の校門である。私がこの校門前を通ったとき多くの生徒が学校に入っていった。校門には警備員がおり、写真を撮ろうとするだけで不審者になってしまう。下の写真は帰り際に撮影した。登校が終わったあとの校門前である。

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 警察犬が立ち止まったところを左折すると住宅街に入る。ここから横田めぐみさんの自宅は近い。この辺りはめぐみさんが日常行き来していたところである。

 住宅街の一角に生徒の登校を見守る男性が立っていた。登下校を見守る保護者の1人あるいは近所のボランティアだろう。住宅街の写真を撮るため私は立ち止まることができなかった。この男性が見守っているのはこの辺りの通学区になる寄居中学校とその近くの新潟市立新潟小学校に通っている生徒たちである。

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 新潟大学教育学部附属小学校、中学校の生徒の多くはバスで登校してくる。附属小学校の通学圏は、新潟市内に居住し、保護者の送迎なしで徒歩または公共の交通機関を利用して通学することができる者とされている。付属中学校の通学圏は、新潟市および新潟市に隣接する市町村から徒歩または公共の交通機関を使い1時間以内で通学できる者と定められている。私の乗ったバスにいた生徒たちである。校門にはさっきの警備員がいるが、生徒たちが下車するバス停には先生らしき人が立っていた。

 それぞれの学校の生徒たちの登校の様子を見ることができた。その意味では最良の時間に来たといえるが、登校時の監視が各所で効いている時間帯でカメラを出すことははばかられた。

 周辺には表札を掲げない家が多い気がした。この辺りをメディアが頻繁に撮影、取材したので、その対策なのかもしれない、というのは私の推測である。

 母・早紀江さんがめぐみさんを探したであろう新潟縣護國神社に行ってみた。戊辰戦争から第二次世界大戦までの新潟県出身の戦死者が祀られている。参道は300mほどあり、周辺は木々で覆われている。この神社の敷地内に隠れる、あるいは隠されてしまうことは難しくない。

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 新潟縣護國神社は神門や回廊が新しく造営されたばかりのようだ。新しい木の香りが漂ってきそうな神社だった。

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日本海と寄居浜

 神社の北側(日本海側)に新潟市水族館マリンピア日本海があるが、今日の私には関係ない。

 新潟大学教育学部附属小学校、附属中学校の西北側は公園になっていて、そのなかに寄居浜変電所があった。

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 その先に日本海が見えた。

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 日本海に沿った道路の交通量は多かった。車の流れは途切れることなく続いていた。その時間はあまりに長く、手を上げ続けるとようやく両方向の車が停止してくれた。

 道路を横断し海岸沿いに少し歩いて寄居浜に出た。

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 雪は(今日の)昼過ぎまで降る、風は(今日の)昼頃には弱くなる、と昨日のお天気お姉さんは言っていた。バスに乗るときまでふんわりと降っていた雪は粒状に変化し顔に当たってきた。

 2019年1月9日の日本海は荒れていた。空は青みを見せており薄灰色の日本海は控えめな太陽光を反射していたが、海からの風は強かった。帯になって押し寄せる白い波頭はあちこちの岩場にぶつかり砕け散っていた。ところどころで噴煙となり霧散していた。

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 今朝の新潟市内の気温は2℃くらいだが、寄居浜でその説明はつかない。風が強い海岸線の体感温度は-10℃を大きく下回っていると思われた。真冬のエストニア並みの寒さである。手袋のない手でカメラを持ち続けることができない。15分ほど寄居浜にいたが、それ以上耐えられなかった。


工作船と拉致

 「警察犬が立ち止まったところ」で拉致されためぐみさんは、寄居浜の沖合に待機していた小型工作船で連れ去られたとみられている。

 地形が41年前と変化しているかどうかはわからないが、現在の寄居浜に砂浜はなく海岸線を空間的に利用することは難しい。背後地の松林に人を隠すのは比較的簡単であるが、工作船の隠し場所はない。

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 失踪したと思われる直後、自宅近くの日本海の方から「暴走族の発するような轟音」に似た音を「近隣住民の多く」が聞いている。朝日放送の石高健次プロデューサーは、不審船から発せられた船舶用ディーゼルエンジンの音ではないかと推測している。

 その根拠は1971年の「加賀市沖不審船事件」にある。北朝鮮の不審船と工作員の侵入事件である。

 不審船が出現した時点で地元住民から警察に通報があった。不審船は浜辺に接近しやがて接岸。不審船からは工作員らしき2人が上陸し、辺りを詮索するように歩いてきた。待ち構えていた警察官が声をあげると、工作員は慌てて船に戻って逃亡していたが、地元住民の協力を得て1人を逮捕した。

 残る1人は不審船にもどった。沖合にとどまっていた母船と不審船はロープでつながっており、母船はロープを引き不審船を回収した。

 不審船を回収した母船は陸地に向かってサーチライトを照らした。銃撃される危険を感じた警察官や地元住人はテトラポットや民家の陰に身を隠したらしい。母船はサーチライトを消し、「暴走族の発するような轟音」を出して沖に消えて行った。

 このとき逮捕された工作員は「航行に迷った末に接岸した」と供述したが、所持品の中から毒薬入りの瓶と乱数表(スパイ道具)などが押収された。

 前述のプロデューサーはめぐみさん拉致の際の「近隣住民の多く」が聞いた「暴走族の発するような轟音」は、不審船の船舶用ディーゼルエンジンの音でないかと推測したのである。


宇出津事件

 めぐみさんが拉致された58日前に認定拉致事件第一号「宇出津(うしつ)事件」が起こっている。この事件は舟隠しが拉致現場であることが判明している。

 宇出津海岸(石川県能都町)の舟隠しが認定拉致事件第一号「宇出津事件」の現場である。1997年9 月18日、東京都三鷹市の警備員だった久米裕さんと在日朝鮮人の李は黒っぽい服装で、宿泊した能都町宇出津の旅館「紫雲荘」を出た。(旅館で?)2人は口をきかなかったらしい。怪しいと感じた旅館の女将は警察に通報し、能都署員と石川県警察本部の捜査員がやってきた。

 海岸で李は久米さんを舟隠しに連れて行った。そこで李が合図を送ると数人の工作員が姿を現し、久米さんを連れ、闇に消えた。李は久米さんを工作員に引き渡したあと旅館にもどった。

 警察で李は自供し、家宅捜索で乱数表などが押収された。警察は立件しようとしたが、久米さんの「出国時の意思」が確認できないこともあって、李を23日間勾留したのち釈放した。李は出入国管理令違反で送致され、起訴猶予となった。

 1.李は吉岡と名乗る北朝鮮の工作員に半ば脅迫され、拉致の手引きをした。
 2.久米さんが独身で家族とは音信不通であることを李は聞き出していた
 3.李は久米さんに密貿易で儲けようと誘った(久米さんはその話に乗ったのかもしれない)

 この顛末は「高世仁の『諸悪莫作』日記」にまとめられている。

 久米さんは仕組まれて誘導され、拉致された。一方で、私が不可解に思うのは、李が久米さんをなぜ直接舟隠しに連れていかなかったということである。そうしていれば拉致は誰にも知られず実行されていた。

 犯人=李は警察に拘留されている。事件の背景、手口はわかっている。この最初の拉致事件を起訴しておけば、他の都道府県の警察署で情報の共有ができ、そのあとの拉致事件の捜査は違った展開になったかもしれない。

 1956年「重要被疑者特別要綱」、1964年「広域重要事件特別捜査要綱」が制定された。後年「広域重要捜査要綱」や「準指定制度」により、地域間の統合や情報共有、指定事件の範囲適応などの面で改善はなされてきたが、北朝鮮は、都道府県別になっている日本の警察組織の情報共有のなさ(縄張り意識の存在)を知っていたと考えるべきだろう。そうでなければ拉致現場が、北朝鮮から遠い(リスクが高くなる)太平洋側の海岸に及ぶことはなかった。

 宇出津に行ったことがある。のと鉄道(第三セクター)の宇出津駅で下車した。終着駅の蛸島駅に行く途中、知らない駅で下りてみたのである。2時間ほど宇出津をうろうろしたあと蛸島には行かないで金沢にもどった。宇出津は漁港のある普通の町だった。

 のと鉄道能登線は2005年4月に廃止になった。旅館「紫雲荘」も廃業になっている。

 下の2枚は1996年11月23日の能都町宇出津である。

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拉致現場からの連れ去り

 2つの事件を並べてみた。

 ①1971年の「加賀市沖不審船事件」
   → 上陸の目的は不明である。不審船は上陸に失敗し、上陸者の1人は逮捕された。

 ②1997年の「宇出津事件」       
   → 手引きした男は逮捕されているので完全な成功ではないが、拉致には成功している。

 拉致を目的としてやってきた場合、北朝鮮は半分成功した②の手法を選ぶだろう。

 寄居浜に工作船を隠せる場所はない。工作船はどこか別の場所に隠されていた。工作員は拉致現場から工作船を隠してある場所までめぐみさんを車で運んだと私は考える。

 寄居浜のもっとも近いところからめぐみさんの自宅周辺までの距離は少なく見積もって300mある。最も近い海岸線とは200mの距離にある。海上の工作船からはそれ以上の距離があることになる。その距離で工作船の発するディーゼルエンジンの音を「暴走族の発するような轟音」として「近隣住民の多く」が聞いたとするには疑問が残る。

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 300m離れた海上の工作船の音が住宅街まで聞こえることがそもそも疑問であり、仮に何らかの音が聞こえたとしてもそれを「暴走族の発するような轟音」として「近隣住民の多く」が認識する可能性は少ないと私は考える。

 暴走族のバイクの音だった可能性はある。

 しかしその検証はどうやら行われていないようである。

 2人の友人と別れた時間からめぐみさんが拉致された時間を推測することは比較的容易であるが、工作船に乗せられた時間をどのように推定しているのかは不明である。そうであるにもかかわらず、ディーゼルエンジンの音だと仮定した「暴走族の発するような轟音」の時間から逆算して、めぐみさんが乗せられた工作船が立ち去る時間だと決めるのは本末転倒である。

 「加賀市沖不審船事件」の工作船のディーゼルエンジンの音は、立ち去ろうとしている工作船が発した「生の音」である。工作船のサーチライトで照らされた警察官と住民は、たとえ夜だったとしても工作船の完璧な目撃者である。

 一方、横田めぐみさんの拉致の現場近くの寄居浜に工作船の目撃情報はない。「暴走族の発するような轟音」が聞こえたとする「近隣住民の多く」の証言に嘘はないはずだが、その音が工作船のディーゼルエンジンの音だということの確定にはならない。音の照合はできていないのである。

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拉致事件と新潟

 横田めぐみさんが北朝鮮に連れ去られて41年が過ぎた。拉致が判明してから22年経った。

 柏崎市は蓮池薫さんと蓮池(奥土)祐木子さんの出身地である。

 佐渡島には曽我ひとみさん(旧真野町出身・現佐渡市)がいる。曽我さんの母ミヨシさんは帰国していない。曽我さんは今でも被害者救出の署名活動を行っている。

 日本人にとって新潟とはそういう場所である。

 ※帰国した拉致被害者の地村保志さん、富貴恵さんは福井県の出身である。

 ※政府が認定する未帰国の拉致被害者は横田めぐみさん、曽我ミヨシさんを含む12人である。日朝交渉は停滞したままである。


新潟駅へ

 新潟大学教育学部附属小学校、附属中学校、附属特別支援学校の周辺を歩いていたとき、西大畑坂上バス停を見つけた。そこは附属小学校、附属中学校と同一敷地内にある附属特別支援学校の校門前だった。登校の時間が過ぎ、校門を通る者はいなくなっても警備員は細かい雪のなかで立っていた。そこから新潟駅行きのバスに乗った。

 新潟交通W30-B10寺尾線/西大畑坂上バス停 9:00 → 新潟駅バス停 9:18/料金210円


新潟から長岡へ

 新潟駅近くのファミリーマートのイートインスペースでコーヒーを飲みながらバスを待った。

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 新潟駅から高速バスに乗った。

 新潟交通/新潟駅前バス停 10:00 → 長岡駅大手口バス停 11:29/料金980円

 新潟駅を出た長岡行きのバスは新潟市内をぐるりと周った。万代シテイ、古町、新潟市役所、がんセンター、新潟県庁を通過した。新潟の市内観光をしているようだ。下の1枚は新潟県庁である。

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 出発から30分後の10:30過ぎ、バスは北陸自動車道に入った。12月7日の旅日記にも書いたが、関東在住の人は東京から新潟までの高速道路を関越自動車道だと思っているが、長岡・新潟間は北陸自動車道に所属する。

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 新潟市は下越であり、上越の中心は上越市である。長岡市、柏崎市は中越ということになる。中越典子は佐賀県の出身である。

 新潟を出たあとは雪景色だったが、高速道路上に積雪はなかった。

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長岡駅の「CoCoLo長岡」とアオーレ長岡

 バスは長岡市内に入った。街中を少し走ったあと長岡駅前に着いた。

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 古めかしいと思われた駅建物のなかには「CoCoLo長岡」という商業施設があり、多くの店が入居していた。

 サイズは小さいものの、京都駅のような階段状の休憩スペースがあった。

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 長岡駅と「スカイデッキ」という名称のペデストリアンデッキで結ばれているアオーレ長岡に入った。

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 下の1枚は2000年1月30日の長岡駅。駅前にペデストリアンデッキはない。

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 巨大な屋根付き広場”ナカマド”がアオーレ長岡の中心である。

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 モダンでオープンな施設の東棟には長岡市役所や北越銀行があった。

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 西棟には市民交流スペースなどがあった。

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 東棟と西棟は2階でつながっている。

 アオーレ長岡の床、階段などには木が使われていた。新国立競技場を手掛けている隈研吾氏の設計である。国立競技場がどういった仕上がりになるのかを想像させる建物である。

 新潟アルビレックスBBの本拠地がアオーレ長岡にある。「バスケットボールによるまちおこし」が市の戦略になっている。

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 店は1階東棟にセブンイレブン、モスバーガー、西棟に「福祉のカフェりらん」しかなかった。

 アオーレ長岡で昼ご飯を食べようと思っていたが、入れる店はなかった。

 長岡駅にもどり「CoCoLo長岡」のなかの弁当屋でチンジャオロース弁当を買ってきた。アオーレ長岡の広場にあるテーブルで食べた。

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 長岡城二の丸の石碑があった。

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遊郭跡に行ってみた

 アオーレ長岡を出て大手通りを西に歩いた。アオーレ長岡の隣にあった観光案内所(まちなか観光プラザ)で地図をもらった。

 昨夜ネットで見つけた、かっての色町に行ってみる。1912年(大正元年)の長岡遊廓には貸座敷は52軒あった。当時の所在地は文治町で、現在の長岡市山田町にあたる。あまり期待していないが、その山田町に行ってみる。

 駅から数えて2つ目の信号を左に折れ、セントラル通りに入った。

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 次の信号を右に折れた。方向は西である。観光案内所でもらった地図に「殿町飲食街」と表記されているエリアを通った。あとで歩いてみたい。

 最初に目に留まったのは富士三屋菓子店の古い家屋である。玄関の扉も、店の前のアーケードを支える柱も木でできている。ここは山田町ではなく春日1丁目だった。

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 長岡駅から1.2㎞ほど歩いて山田2丁目に入った。

 かっての今重楼があった。表札の「今重旅館」という文字はあまりに小さかった。営業をしている旅館の看板の出し方ではない。旅館として廃業しているのかどうか判別がつきにくい。

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 すぐ近くにあったのが京屋旅館である。正面に看板はなかったが、家屋の横に植えられている木の枝の間に旅館名が見えた。

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 下の1枚の、玄関と窓のうえの庇、屋根の反り返りは遊郭を想像させるが、断言はできない。むしろ建物の外壁の一部がエンジ色であることが遊郭を想像させる。

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 神社入り口と文治公民館の玄関が共有されていたが、それはどうでもよい。公民館の名称に「文治(町)」という名称を残していたことは留意していい。それは意図したものである。

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 あまり期待をしてなかったのでがっかりしなかった。

 山田町に来てみようと思ったのは、昨夜ホテルで「お散歩日記」というブログを読んだからである。管理人は花町太郎さんで、静岡に行ったときにも参考にさせていただいた。


雪国の街の通りには雪がない

 長岡は特別豪雪地帯である。特別豪雪地帯とは、豪雪地帯対策特別措置法により指定された豪雪地帯のうち、積雪が特に多く車の交通などが長い期間途絶することにより、住民の生活に著しい支障が生じている地域を指す。

 雪が残っているのはアーケードのない歩道である。車道に雪はない。道路の真ん中から出ている水が雪を溶かすからである。新潟県発祥の技術だといわれている。

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 これは厳寒地ではない(それほど寒くはない)雪国で通用する技術である。北海道でこのシステムは使えない。水が凍ってしまい危険である。北海道には埋められた電熱線の電気で路面を暖める仕組みになっているところがある。いわゆるロードヒーティングである。

 ホースから放水しているところもあった。私設のものかもしれない。

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殿町を歩いた

 殿町にもどった。ここが長岡の繁華街であることはすぐにわかった。

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 エリアは広くなく平凡である。繁華街としての破壊力はない。中途半端な繁華街である。

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長岡駅の周辺をうろうろ

 雪は降ってはときどき止んだ。

 殿町から真っ直ぐ長岡駅に向かわないで、駅周辺をうろうろした。市街地では四方八方にアーケードがある。寒いが、交差点以外で雪に濡れることはない。

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 大手通りにながおか市民センターがあった。おそらく以前は中規模の商業施設だった建物である。長期間、街の真ん中に大きな空き店舗をそのままにしておけば街は活性化しない。別の商業施設が入居すればよいが、そうでない場合は苦肉の策として、空き店舗を公共施設で埋めることがある。

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 ながおか市民センターには長岡市役所の国際交流課、下水道課、道路管理課や道路建設課、ハローワークなどが入居していた。予想したとおり、自由に使えるテーブルがあり、飲食してもよいスペースがあった。もちろん旅人が利用することはできるが、残念ながらコンセントはなかった。

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 長岡行きのバスを待っていたときのファミリーマート内と長岡に向かうバスの車内でパソコンを使っていた。電源は40%ほどしか残っていないので充電しながらパソコンを使いたい。

 ながおか市民センターの1階にタニタカフェがあった。店員はいたが、水曜日は定休日だった。

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 ながおか市民センターの近くの古い喫茶店にも、駅前のイトーヨーカドーに入居しているミスタードーナツにもコンセントはなかった。

 アオーレ長岡に使えるコンセントがないことは確認済みである。

 長岡駅にもどった。駅構内の「CoCoLo長岡」にあるスターバックスコーヒーとPRONTOにコンセントがあった。PRONTOに入った。パソコン、スマートフォン、デジカメを充電しながら旅日記を書いた。

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 今夜のバスの出発時間までの長岡での過ごし方を考えた。


温泉探して

 長岡の奥座敷と呼ばれているのが蓬平(よもぎひら)温泉である。長岡駅から南15㎞の山のなかにある。行けるかどうかを調べてみた。行くことはできるが、帰りのバスの最終は17:30だった。これは早すぎる。

 長岡温泉湯本館という古い温泉は長岡駅から南4.1㎞のところにあったが、蓬平温泉と同じように18:00過ぎに往復ともにバスがなくなってしまう。

 長岡駅からは4.2㎞の距離に「越後長岡ゆらいや華の湯」があった。温泉ではなく、スーパー銭湯のようだった。風呂の種類は豊富であるが、館内が狭くリラックスできる雰囲気ではないようだ。長岡駅からバスに乗るのはよいが、下車したバス停から1.2㎞歩かなければならない。帰りはその逆である。迷った末、行くのを止めた。


山本五十六ではなく、河井武士 / 越後長岡に2人の河井がいる

 長岡には山本五十六記念館があるが、まったく興味はない。行く気にならない。

 海軍で、山本というと、五十六ではない。私の場合、山本権兵衛(ごんのひょうえ)が思い浮かぶ。海軍大将であり、のちの内閣総理大臣、海軍大臣、外務大臣は長岡ではなく、薩摩出身である。

 日英同盟を堅持、対米配慮、ロシアに勝つ見込みができるまで戦争反対、ロシアバルチック艦隊の妨害、海軍組織の改革断行、(秋山真之など)多数の士官の海外派遣、東郷平八郎を連合艦隊司令長官に任命など、その業績は完璧である。この人が海軍を仕切っていなければ、日露戦争の勝利はなかった。

 越後長岡藩牧野家の家臣であった河井継之助という人を初めて知った。長岡では有名らしいが、やはり記念館に行く気にならない。

 私にとって越後長岡は山本五十六でも河井継之助でもない。

 『リングにかけろ』(車田正美)の河井武士である。「越後長岡の若武者(貴公子)」は「黄金の日本Jr.」きっての美形である。余談であるが、対戦相手のほとんどは美形である。フィニッシュブローは「ジェットアッパー」と「ジェットラベンダー」。私は新潟県に長岡市があることを河井武士で知った。

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 この旅日記を書きながら今思っている。

 「河井」継之助という「武士」がいたから、車田正美はキャラクターに「河井」「武士(たけし)」という名前を付けたのだと。剣道道場の子として生まれた「スペシャル・ローリング・サンダー」「円月拳」の志那虎一城こそが武士であるように思うけれど。

 旅日記を書いているつもりであるが、さっきからどうでもいいことを考えている。

 PRONTOのコンセントは正常に機能しパソコン、スマートフォン、デジタルカメラの充電は100%になった。

 横浜行きのバスが発車する23:55までの過ごし方の結論は出なかったが、すでに夜になっていた


『氷山の南』 「鶏陣」 フットボール・アジア杯予選リーグ・トルクメニスタン戦

 PRONTO を出た。「CoCoLo長岡」のなかにある書店に入った。以前、書店で2時間ほど過ごすことはたまにあったが、今はブック&カフェでないと行かないようになってしまった。

 本選びに1時間ほど費やした。この10年でなかったことである。

 『氷山の南』(池澤夏樹)を買った。これまで多くの作品を読んできた作家である。

 19:00頃、「CoCoLo長岡」のなかにあった「鶏陣」に入った。焼き鳥の専門店のようであるが、駅ナカということもあり、定食関係のメニューもあった。

 焼き鳥5本セット、たぬき豆腐、ささみ明太春巻き、生ビール、巨峰サワー。ささみ明太春巻きは明太子の刺激感と衣のパリパリ感がうまくミックスしていた。焼き鳥のセットもうまかった。

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 20:00に始まったフットボール日本代表のアジア杯予選リーグのトルクメニスタン戦をスマートフォンの文字情報で追っていた。

 前半26分 [日本vsトルクメニスタン 0-0]

           日本          トルクメニスタン
 ボール支配率  /  67%      対     33 %
 シュート数    / 5本      対      2本
 枠内シュート数 /  1本       対      1本
 パス成功率   / 215本(88%)   対     89本(69%)

 数字上では圧倒している。点が入らないのは中島翔哉不在の左サイドの連携不足だろう。勝手にそう推測していた。

 2分後衝撃の結果を目にした。

 前半28分  [日本vsトルクメニスタン 0-1]

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 最終結果は [日本vsトルクメニスタン 3-2]である。アジアカップに楽な試合はない。

 試合の途中であるが、21:00を過ぎた頃「鶏陣」を出た。すでに多くの店は閉まっていた。VIE DE FRANCEは21:00で閉店になっていた。まだ開いていたスターバックスコーヒーなども22:00で閉まるようである。

 駅の外に出てみた。イオンは21:00で閉店しており、その脇にあるミスタードーナツも22:00で閉まるようだ。開いている店は居酒屋だけだった。

 アオーレ長岡のイルミネーションを見にいったが、小規模すぎてつまらなかった。

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 長岡駅にもどった。23:33発の「とき351号」新潟行きが上越新幹線の最終である。在来線の「ムーンライトえちご」はここ数年臨時列車として設定されていない。在来線の最終列車は新幹線より早いが、23:16に新潟駅を発車した列車が長岡駅に着くのは0:31である。待合室は0:31まで、少なくとも23:33まで開いているだろう。一応、長岡駅の改札で確認してみた。

 「待合室は改札内にしかないんです」と返された。

 22:00を過ぎた長岡駅で温かく過ごせる場所はどこにもなかった。

 改札口近くに「良寛さん」の像があった。近くの椅子に座った。あまりの寒さにフードを深くかぶり指先を少しだけ出し『氷山の南』のページをめくった。

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 バスの出発時刻までの2時間近くをこの場所で過ごすことになった。594ページは読みごたえ十分である。

 出発時刻の15分前に長岡駅の外に出た。


横浜へ

 桜交通KR452/長岡駅大手口 23:55 → 横浜駅東口スカイビル(YCAT) (+1) 5:55/料金2,720円
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2日目 2019年1月8日 公楽園 新潟

JR越後線に乗って

 6:40、日の出直前の公楽園をチェックアウトした。

 公楽園は田園地帯にあるゲームセンター、ドライブイン兼ホテルである。たまに満室になることもあるらしい。泊まれない場合は悲惨なことになる。辺りにホテルは皆無である。近くのラブホテルに泊まることになるだろう。

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 公楽園から1.2㎞ほど歩いたところにある分水学校前バス停まで歩けば、7:24発の燕市循環バス「スワロー号」に乗ることができる。このバスは粟生津駅バス停に7:32、吉田駅バス停に7:49に着く。
 
 数字上、上の2つの駅でJR越後線に乗り換えることができる。粟生津駅発7:33(待ち合わせ1分)、吉田駅発7:51(待ち合わせ2分)の新潟駅行き列車への乗り換えである。乗り換え時間は1分あるいは 2分である。乗り換えは失敗するだろう。昨日、吉田駅で2つの燕市循環バス「スワロー号」と「やひこ号」の乗り換えに失敗した。

 昨日歩いた国道116号を歩くことにした。粟生津駅まで2.6㎞ある。

 スピードを出した車が国道116号を走っていく。国道沿いに建物はほとんどない。国道116号こそが粟生津駅への近道である。

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 田園を薄っすらと雪が覆っていた。寒冷地の冬には凛とした美しさがある。ああ旅なんだ、と思う。

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 昨日40分かかった道のりを30分で歩き切ったのは夜でなかったからである。

 粟生津駅構内に切符の自動販売機はない。発券機で乗車駅証明書を手にした。

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 JR越後線/粟生津 7:33 → 吉田 7:40  吉田 7:51 → 青山 8:33/料金580円

 吉田駅で乗り換えである。最初この駅で下車するつもりでいた。駅の東北800mのところにある「ツバメコーヒー」というお洒落なカフェに行ってみようと思っていたが、念のため昨夜HPをチェックしてみたところ、昨日(月曜日)と今日(火曜日)は定休日になっていた。

 乗り継ぎ時間は11分ある。有人駅であるこの駅でSuicaの未清算分を処理してもらった。昨日弥彦駅をSuicaで入場したが、下車した粟生津駅には簡易Suica改札機がなかった。つまり下車駅を出場していないことになっている。地方ではたまにあることで、どこかの有人駅で清算処理をしてもらうまでSuicaはJR東日本管内(あるいは全JR)で利用できない。。

 地方の、早朝の列車は意外と長い編成で走っている。6両編成の越後線の利用客の大半は高校生だった。
彼らのマナーが悪かったわけではないが、車内では「リュックを前に抱え込むように持つか網棚に置いてください」と2度アナウンスがあった。私を除いて、背負ったリュックを体の前で抱え込んでいる者はいなかった。

 ボックス席にはちゃんと4人が座っていた。当たり前のことが当たり前でない地域がある。地方は精神的な意味において人と人の絆は強いが、物理的には人と人は密集していない。個人の可動域、領域が広い。荷物を体の外側に思い切り出してもトラブルにならないと思っている。

 私が体験したなかでマナーがよくなかったのが篠ノ井線である。座っている人の目の前に人が立っていても、自分の横の座席に荷物を置き、2人分の席を占有している人が多い。この路線には3度乗ったが、すべての機会で乗客のマナーは最低だった。同じ松本駅発でも観光客が乗る大糸線はしっかり詰めて座る。

 今日の目的地は新潟(市)であるが、新潟駅まで乗らない。1つ手前の白山駅で下車してもいいが、あえて3つ手前の青山駅で下車した。

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新潟のBRT[バス・ラピッド・トランジット](萬代橋ライン)に乗ってみた 

 青山駅から南に300mほど歩いた。イオン新潟青山ショッピングセンターがあった。

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 イオンの南側を東西に走っているのが新潟県道16号である。県道を挟んでイオンの南側にはレクサス新潟、マクドナルドがあった。

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 ここがBRT(萬代橋ライン)の西側の起点である。

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 BRTとは[バス・ラピッド・トランジットbus rapid transit]のことである。いろいろな優先権をバスに与えたうえで運用するシステムである。具体的には他の交通機関から分離したバス専用道路(バス専用車線)が中心である。信号の操作システムもバスに付与されているかもしれない。

 五条(奈良県)から新宮(和歌山県)にいたる、国鉄時代の未成線である五新線を利用したバス路線はBRTと呼ばれてはいない。JR気仙沼線、JR大船渡線(ともに岩手県)で運用されているBRTに乗ったのとほぼ同じ時期に、新潟市でBRTを運行するという発表があった。岩手県のローカル線を利用したBRTはそもそも邪道であるが(JR東日本はどうしてもBRTとして位置付けたいらしい、つまり廃線扱いにしたくない)、新潟のBRTは都市型である。新潟に行ったときは乗ってみようと思っていた。

 新潟市はLRT、小型モノレールなどを検討したうえで、BRTを選択した。遠方からバスでやってくる乗客はBRTとの接続駅で乗り換える必要があるが、運行区間が重複していた中心部のバス路線を集約するための正しい選択である。何より低コストで導入できる。

 青山バス停にはバスロケーションシステムがあった。ネットでチェックしてみると、ほとんどは青山バス停が始発になっているが、さらに西側にある西部営業所、内野営業所、信楽園病院などからやって来るバスもある。それらのバスもBRTとして機能するのは青山バス停より東側の道路上で、ということになる。8:00台の新潟駅前行きは12本、9:00台は9本あった。

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 新潟交通BRT(萬代橋ライン)/青山バス停 9:00 → 古町バス停 9:19/料金 280円


BRT[バス・ラピッド・トランジット]の評価は?

 翌日も新潟市内で2度バスに乗車したので、それを含めて書いておきたい。

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 片側3車線の道路のBRTは左車線(歩道側車線)を走る。そこはバス専用車線であるはずだが、車がそのラインに侵入していないわけではなかった。そして左折する車が左車線に侵入していたのは仕方ないことである。

 片側3車線の場合、バス車線である左車線に一般車を侵入させないために、中央レーン(2車線目)を走る車の左折を認める必要があるが、左折先の道路が1車線あるいは2車線しかない場合、そういうわけにはいかない。左車線、中央車線(2車線目)からの左折車が同時に片側1車線道路に入っていくのは駄目だろう。

 それはバスが右折するときも同じである。

 片側1車線ではBRTも車も同じラインを走るしかない。ここでBRTはその価値を消失する。

 全体としては今日(と翌日も)車の通行量は少なかった。渋滞していないので、本当の意味でBRTの評価をできなかった。

 市内中心部(万代シテイ・新潟駅間)に入ってくるバスを集約した効果はあったのだろうが、新潟のBRTは本来のBRTとは呼べない。完全なバス専用車線がないからである。なんちゃってBRTである。

 ジャカルタとテヘランでBRTに乗ったことがある。一般的な道路交通から完全分離されている都市型BRTは十分速かった。両都市で目的地に早く着くことができた。とくにジャカルタの交通渋滞のなかBRTは圧巻の機能を発揮していた。

 LRTを検討中の(旧清水を含む)静岡市はとりあえず新潟を見習ったほうがよい。LRTへの投資は無意味である。2022年にLRTが走ることが決まっている宇都宮は、交通体系が新潟に似ている。考え直したほうがよいが、そうすることはないだろう。


古町界隈 弘願寺 人情商店街 ぷらっと本町 

 古町バス停で下車した。

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 周辺は繁華街である。弘願寺の大仏(弘法大師)は簡単に見つかった、唐突感とともに。

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 高さ9mはむしろ平凡かもしれない。しかし繁華街のビルのなかにあるのは平凡ではなく違和感がある。メンテナンスはされていないようだ。背中は黒ずんでいた。

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 弘願寺のすぐ近くにあったのが人情横丁である。正式名は「本町中央市場商店街」。1951年にできた160mの商店街である。長屋になっていることが特徴である。

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 38店舗が並んでいる。整然とではないが、乱雑な感じはない。干物、乾物、茶、菓子、雑貨とさまざまな店が揃っていた。カフェや飲み屋もあった。10:00前後ではまだ閉まっている店も多く、少し残念だった。

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 商店街の端に浦安橋遺構があった。街の拡大とともに新潟の堀は明治になって延びたらしい。それだけ橋も多かったということである。

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 人情商店街の長屋は2つに分かれている。その真ん中にあったのは白龍大権現である。

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 ぷらっと本町に入った。

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 青海ショッピングセンターに入った。鮮魚店、食堂が入居していた。

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 「街のえき」という無料休憩所があった。「玉三郎遊技場」というパチンコ&スロットが宣伝のために設けているようだ。

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 新潟ではお馴染みの露店の野菜販売。

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 本町食品センターはおもしろかった。なかには食堂、鮮魚店があり、中央にはテーブルがある。買ったものをそこで食べることができる。雰囲気は築地である。新潟の築地は、建物の老朽化と利用客の減少により2019年8月に閉店するらしい。古町周辺ではここが一番おもしろいかっただけに残念である。

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萬代橋を渡った

 信濃川に架かる萬代橋を渡った。国の重要文化財に指定されていなければ、誰も写真に撮ったりしない。

 下の1枚は1980年代後半に撮影。

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 2019年1月8日に撮影。

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ラブラ万代周辺 万代シティバスセンターのカレー みかづき万代店のイタリアン NGT48劇場 新潟市マンガ・アニメ情報館

 東港線十字路の南にあるラブラLoveLa万代に入った。キーテナントはイオンである。無印良品、ゴディバ、ユニクロなどが入居している。

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 隣の万代シティバスセンター(新潟交通バスセンタービル)に入った。

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 スターバックスコーヒー、サブウェイ、たこ焼き屋など多くの店が入居しているが、圧倒的に有名なのは「バスセンターのカレー」である。立ち食いそば屋で食べることができる。ここが新潟最大の観光名所かもしれない。『秘密のケンミンSHOW』(日本テレビ)などで取り上げられ全国的になった。

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 普通盛りではなくミニカレーを注文したのは、このあとにも食べたいものがあったからである。見たことのない黄色である。最初は甘く感じたが、食べ進めていくとわりと辛口である。凝った味ではなく際立っておいしくもないが、病みつきになる味である。また食べたくなった。「バスセンターのカレー」は通販サイトでも売られている。

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 バスセンターの2階にあるのが「みかづき万代店」である。新潟B級グルメを「バスセンターのカレー」と2分するのがここの「イタリアン」である。太い麺の焼きそばの上にトマトソースがかけられており、生姜が添えられていた。

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 「みかづき」の創業者が東京で、大阪風の焼きそばをアレンジしたソース焼きそばを食べたことがきっかけで、トマトソースをかけた焼きそばを考案した。それを「イタリアン」と名付けたらしい。

 「バスセンターのカレー」は定期的に食べてもよいが、「イタリアン」は1回でいい。

 ラブラ万代、万代シティバスセンター、ラブラ2、三越伊勢丹などいくつかの建物はペデストリアンデッキで結ばれている。

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 バスセンターから伊勢丹に通じるペデストリアンデッキには誰でも利用できる傘があった。雪が降っており傘を持ってきていない私には好都合であるが、伊勢丹の宣伝傘だった。

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 万代シルバーホテルビルにアルタ(1975年新潟三越エレガンスとして開業、2002年新潟アルタに業態転換)が入居していた。アルタは全国で4店しかない。新宿、原宿、池袋サンシャインシティ、そしてここ新潟である。

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 新潟アルタは2019年3月に閉店する(2018年8月4日発表)。さっき入った本町食品センターに続いて、新潟で2店目の閉店に遭遇してしまった。

 旅先でその地の有名店の閉店に遭遇することはたまにある。2016年9月の旭川では西武百貨店の閉店に遭遇した。横浜で有名店の閉店ニュースがあってもわざわざ行かないが、旅先ではそういう店に入ったりする。

 新潟アルタは11:00からの営業でまだ開いていなかった。

 ラブラ万代の隣にあるラブラ2にはH&M、ZARA、ユナイテッドアローズ、上島珈琲店があった。

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 4階にNGT48劇場もあった。

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 NGT48のメンバーを誰一人として知らなかったが、そのうちの1人が2人組男に自宅玄関先で襲われたというニュースが流れたのはこの日である。

 ※私が知ったのは翌日であるが、そのあと連日メディアで推測と中傷を含む続報は流された。それについてここでは触れない。
 
 下から見上げたラブラ2の写真はそのあとテレビで何度も流された。

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 ペデストリアンデッキで結ばれている建物の1つに「新潟市マンガ・アニメ情報館」が入居していた。「竹宮恵子展」が行われていた。『地球(テラ)へ』を持っていたことがあったが、ブックオフに売ってしまった。

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 一般社団法人アニメツーリズム協会が発表した『訪れてみたい日本のアニメ聖地88(2018 年版)』に、「新潟市マンガ・アニメ情報館」と「新潟市マンガの家」が選ばれている。


火曜日水上バス・ウオーターシャトルは運休していた

 万代シテイの北側を信濃川が流れている。朱鷺メッセまで水上バス・ウオーターシャトルに乗るつもりでいた。

 「新潟市マンガ・アニメ情報館」の入居しているビルにある飲食店のスタッフらしい人に水上バス・ウオーターシャトルの乗り場を尋ねた。

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 「動いてないですよ」。冬期は火曜日が運休らしい。

 新潟駅から朱鷺メッセに行くバスはあっても、万代シテイから朱鷺メッセに行くバスはないだろう。雪なのか雨なのか判別がつきにくいなか、歩くしかなくなった。


朱鷺メッセ新潟コンベンションセンター周辺

 目的地の目印として十分に機能していた。なにしろ超高層ビルである。

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 20分ほど歩いて朱鷺メッセ新潟コンベンションセンターに着いた。昨日燕三条駅で下車したウイラーエクスプレスのバスはここが終点である。

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 展望室の名称は「Befcoばかうけ展望室」。ネーミングライツ(命名権)を獲得した株式会社栗山米菓が、代表商品である米菓「ばかうけ」からこの名称を付けた。新潟県の方言で「ばか」は「とても」という意味である。

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 31階、地上約125mの展望室は日本海側でもっとも高い。

 「Befcoばかうけ展望室」から360度の新潟市を見ることができる。

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 日本海は眼下にあったが、佐渡は見えなかった。晴れた日には粟島や南東方向には五頭連峰も見えるらしいが、今日は雪が落ちている。

 下の1枚は男子トイレの洗面所。

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 下の2枚は佐渡汽船のりばである。佐渡の両津港まで60㎞ほどの距離があるが、ジェットフォイルで1時間5分で行ける(フェリーでは2 時間30分)。直江津や寺泊からも佐渡に行くルートはある。

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 新潟を出航する佐渡汽船に乗ったことがある。下の1枚は1999年10月11日の小木のたらい舟(佐渡島)。

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 信濃川の対岸(北東側)には新潟市歴史博物館がある。周辺は「みなとぴあ」と呼ばれているが、商業施設はない。そこに行くためには柳都大橋を渡り大回りしないと行けない。

 朱鷺メッセから南西に歩いた。

 「Befcoばかうけ展望室」から見えていた小さな造船所の前を歩いた。東和造船株式会社というらしい。

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ピアBandai

 東和造船株式会社の東を南西から東北に走る国道113号に入った。

 左手に市場らしきものがあったので寄ってみた。ピアBandai。

 万代島鮮魚センター、セルフ片山(新潟県の酒蔵の地酒などの販売店)を中心に、港食堂、佐藤回転寿司弁慶などの店があった。コンテナハウスのような店もあった。

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朝鮮総連新潟本部(祖国往来記念館)とボトナム通り

 ピアBandaiを出て国道113号を東北に歩いた。

 コミュニティプラザというセルフ式のガソリンスタンドの隣に朝鮮総連新潟本部の建物が残っていた。今は使われていない。

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 隣の建物の前には「祖国往来記念館」の銘板があった。

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 さらに隣の建物は廃墟化していた。この建物が何に使用されていたのかはわからない。

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 新潟港は北朝鮮の万景峰号が就航していた港である。

 「帰国事業」という言葉を日本人は忘れている。1950年から1984年まで在日朝鮮人とその家族は北朝鮮への集団的な永住帰国あるいは移住を行った。

 当時の北朝鮮は「地上の楽園」といわれ、新潟市長が帰国者の出港を受け入れた。それは極めて当たり前に行われた。日朝友好のシンボルでさえあった。日本政府は帰国事業を後押しした。そこには在日朝鮮人の生活保護費の削減、高い犯罪率、左翼運動への傾斜の危惧があったからである。

 彼らが帰国する自由はあったが、その際の北朝鮮のプロパガンダ(「地上の楽園」の宣伝文句)には多くの嘘があった。だから帰国者は騙されたと感じたのである。劣悪な住宅事情、過酷な労働、差別、拷問などの生活実態について、事業の主体となった朝鮮総連がそういった事実をいつ知ったのかは今もあやふやである。これについては社会主義を無条件に「善」であるとした一部政党、マスコミも似たようなものである。

 この周辺の国道113号は「ボトナム通り」と呼ばれている。「ボトナム」は「柳」(朝鮮語)という意味である。通りには柳が植えられている。北朝鮮への帰国者が寄贈したものである。

 現在、新潟港は国際海上コンテナ、LNGの日本海側拠点港になっている。物流の拠点であることは、人的交流の拠点であることを保障しない。現在、新潟港国際旅客ターミナルは稼働していない。かって束草(韓国)、・トロイツァ=旧ザルビノ(ロシア)への航路があったが、今はもうない。

 新潟空港からはソウル、ハルビン、台北へのフライトがあるが、私が乗ったことのあるハバロフスク・新潟間の航路はなくなってしまった。

 朱鷺メッセからここまで2㎞ほどである。新潟駅からはバスが出ている。中央埠頭バス停で下車すればよい。

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沼垂(ぬったり)テラス商店街

 朝鮮総連新潟本部から1㎞ほど歩いた。雪に濡れながらやって来たのは沼垂(ぬったり)テラス商店街である。

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 市場として使われていた長屋を改装し、新しく生まれ変わった商店街である。再生のスタートは2010年で、2014年には管理事務所が設けられた。2015年春には全ての長屋が店舗として開業した。

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 その後も店が増えた。飲食店、カフェ、居酒屋、花屋、総菜屋、八百屋、ベーカリー、陶芸工房などがあるようだが、この日開いている店は多くなかった。商店街の再生のモデルとなれるかどうかはまだわからないといったところか。

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 沼垂テラス商店街の近くにある「なり -nuttari-NARI-」は古民家を改装したゲストハウスである。ゲストハウスとしては料金が高いが、新潟で一番いいかもしれない。宿泊しようとして3日間毎日HPをチェックしていたが、1月9日に空室が出ることはなかった。

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新潟駅前一番街周辺

 新潟駅のほうに歩いた。途中、予約しているスーパーホテルの前を通った。チェックイン時刻の1時間前だったが、寄ってみた。15:00前のチェックインはできないと言われた。荷物を置かせてもらうことはできるのだろうが、重くないのでそのまま出てきた。

 新潟駅の東北側にある繁華街に入った。中央区東大通1丁目である。そこは新潟駅前一番街である。

 この一画にホテルは多い。スーパーホテル、ドーミーイン、ホテルサンルート、ジュラクステイ、新潟第一ホテル、アルファワン、シングルインなどのビジネスホテルが進出している。銀行、生命保険会社、専門学校もあるが、その間を埋めているのは飲食店と風俗店である。

 全体として再開発されているのだが、イメージは歓楽街である。風俗店と飲食店が混ざりごちゃごちゃしているが、特徴的な歓楽街ではない。どの街にもある典型的なものだ。

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 目立つのは駐車場が多く残っていることである。郡山(福島県)ほどではないけれど。

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弁天通商店街

 新潟駅の北西側(新潟県道33号の西側)にあるのは弁天通商店街である。

 繁華街であるが、歓楽街ではない。

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 地名にちなんで、商店街には七福神の像があるらしいが、まったく気づかなかった。

 ラマダホテル、ステーションホテル、新潟京浜ホテルがあった。新潟駅から万代シテイに向かう導線上にあるが、路地裏的な一角もあった。

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 下の建物がもっとも目立っていた。

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新潟駅ビルのぽんしゅ館

 朝から歩きっぱなしである。新潟駅ビルのVIE DE FRANCEで休憩した。

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 新潟駅ビルにはCoCoLo新潟という商業施設が入っている。CoCoLoは、CoCoLo西⁺、CoCoLo西館(1階3階)、CoCoLo万代(1階、地下 1階)、CoCoLo中央、CoCoLo東、CoCoLo本館、CoCoLo南館に分かれている。それらはつながっておらず、実にわかりにくい。在来線側の駅ビルと反対側に新幹線側の駅ビルを作ったのでそういうふうになったのだろう。

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 「ぽんしゅ館」を探そうとしてうろうろした。探していたのは「ぽんしゅ館/日本酒本館」だったが、それは西館3階にあった。ちなみに「ぽんしゅ館/呑み処・食事処 魚沼釜蔵」は西館1階にあり、「ぽんしゅ館/コンプレックス」と「ぽんしゅ館/クラフトマンシップ」は西⁺にあった。

 下の4枚は「ぽんしゅ館/クラフトマンシップ」。

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 「ぽんしゅ館/日本酒本館」のなかの「唎酒番所」ではワンコイン(500円)で5枚のトークンとお猪口をもらえる。ずらりと並んだ唎き酒マシーンから好きな地酒を飲むことができる。新潟の酒蔵の代表銘柄が解説付きで並べられている。もちろん気に入った酒を購入することができる。月ごとのランキングなども発表されていた。とても賑わっていた。

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 醤油、味噌なども販売していた。

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 新潟のカレーは20種類ほどあるようだ。

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 ぽんしゅ館は翌日長岡でも見かけた。越後湯沢や東京にもあるようだ。

 CoCoLo新潟には他にも地酒を扱っている店がある。地酒は新潟の土産物の上位に入っている。


夜ご飯のあとスーパーホテルにチェックイン

 「越後秘蔵麺 無尽蔵花園家」で豚骨醤油ラーメン。満席ではなかったが、人気店らしく店は賑わっていた。太麺か細麺か選ぶことができ、太麺を選んだ。うまかったが、どこにでもある味という気がしないでもない。

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 雪のなかを歩いた。

 スーパーホテルにチェックインした。

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 スーパーホテルに最初に泊まったのは2004年の石垣島である。当時はほとんど知られていなかった。ここまで有名になるとは思わなかった。部屋のキーやカードはなくレシートにある暗証番号でドアを開ける、レセプションに寄ってチェックアウトする必要がないといった点は変わっていなかった。

1日目  2019年1月7日 燕三条 燕 彌彦神社 公楽園

冬の新潟

 忘れてしまえればよいものをそうすることができない。例えば“新潟”という地名を耳にしたとき行ったことのない“あの場所”のことが思い浮かぶ。それは記憶の底に沈んでいたのではない。海のうえにぷかりぷかりと浮いて、旅の哨戒機にもう一度発見されることを待っている。そういう場所が絶景であったり名所であったりすることはない。ほとんどは他愛のない場所である。

 知らないうちにそういう場所が増えていくとあちこちに不良債権を抱えたようになってしまう。だから「旅の借金体質を改める」ためにも、ぷかりぷかりと浮いているものを回収しにときどきは旅に出る。例えば塙山(日立)とか小名浜(いわき)とか月江寺周辺(富士吉田)はそういうふうに回収していった。

 1週間ほど続いた咳が治った平成最後の大晦日、冬の旅をしてみたいとふと思った。行き先は青森か新潟がよいだろうと考えた、冬の旅なのだから。

 両県とも何度も旅しているが、新潟には久しく行っていない。調べてみると、最後の写真は9年前(2010年)に撮ったものだった。新潟には気になる“あの場所”が回収を待っている。

 後日調べると青森に最後に行ったのも2010年だった。記憶が当てにならないのではなく、私自身が当てにならない。

 東日本の冬を旅するときにいつも♪結詞♪(井上陽水)が思い浮かぶ。JR東日本のCMに使われた。

 ♪浅き夢 淡き恋
 ♪遠き道 青き空


ウイラーエクスプレスで新潟へ

 横浜発の仙台行き、盛岡行きのバスがバスタ新宿を経由したことはあったが、バスタ新宿から乗車するのは初めてである。

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 ウイラーエクスプレスH5101/バスタ新宿 7:40 → 燕三条 12:50/料金2,500円

 ウイラーエクスプレスのバスに乗るのは10年ぶりくらいである。名古屋から東京までを乗ったことがある。

 背もたれの上からフード(カノピー)が出てくる席はこの会社のバスの特徴である。隣の席との間にあるアームレストにペットボトル入れが2コあった。これが隣の席への肘の侵入を防ぐ役割を果たしている。窮屈すぎて、よいとは思わないが、工夫したものであることは確かである。

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 ウイラーエクスプレスのバスは関越自動車道を走った。

 三芳パーキングエリアの手前辺りから富士山が見えた。

 前橋付近では浅間山が見えた。

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 三芳パーキングエリア、赤城高原サービスエリア、越後川口サービスエリアの3ヶ所でトイレ休憩のための停車をした。

 三芳パーキングエリアでパンを買い、車内で朝ご飯。

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 赤城高原サービスエリアを過ぎたところから雪が降ってきた。

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 雪は風景をぼんやりとした薄灰色に包むだけだが、雪が止むとうつくしい雪国を見せてくれる。

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 越後川口サービスエリアが近づいてきたところからバスはスピードを落とした。一部で積雪による速度規制が行われていた。

 越後川口サービスエリアでは除雪車の格納庫があった。

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燕三条とは
 
 燕三条に着いた。

 燕三条駅の所在地は三条市となっているが、実際は三条市と燕市にまたがっている。1982年11月、上越新幹線と弥彦線の燕三条駅が同時に開業した。時代はまだ日本国有鉄道である。燕三条駅は1987年にJR東日本(東日本旅客鉄道株式会社)に移管となった。

 三条市は、(旧)三条市、栄町(南蒲原郡)、下田村が合併し新設された。燕市は(旧)燕市、吉田町、分水町が合併し新設された。

 燕三条市は存在しない。

 燕三条とは燕市と三条市を合わせた地域だと思われがちであるが、それは正確さに欠ける。広域地名“燕三条”を現在の自治体に当てはめると、燕市、三条市の他、新潟市、長岡市、加茂市、田上町、弥彦村などの一部が含まれる。この地域を正確に特定することはかなり面倒くさい。

 そういうややこしいポジションにある燕三条駅が旅の始まりである。

 燕三条駅が他の駅と異なるのは北陸自動車道の三条燕インターチェンジが駅に隣接していることである。新幹線、在来線、高速バス、路線バスに乗り換えることができる。陸上交通のバリアフリーは完成している。

※関東在住の人は関越自動車道が東京と新潟を結んでいると思っているが、長岡より北側は北陸自動車道である。

 新幹線の駅前にはアパホテル、ホテルルートイン、アハヴィラホテルなどビジネス系のホテルが進出していた。

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 イオンにはワシントンホテルが併設されていた。イオンの建物にはミスタードーナツ、サーテイーワンアイスクリーム、カフェ・ド・パリなどが入居していた。店内の目立つところに長靴の販売コーナーがあるのは雪国ならではのことである。

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 ロッテリアが入っているイオンシネマは流行っているふうではなかった。

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 燕三条駅周辺は商業地であるが、駅前商店街はなく、ロードサイドの店が集まった感じである。密集しているわけではないが、大型店の数はそこそこあった。紳士服のはるやま、Y!mobile、ドコモショップ、イェローハット、ブックオフ、ウェルシア、眼鏡市場などである。地元の仏壇店、大型靴店などもあった。

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 昭和の終わりに開業した駅は平成の30年間を通して、商業施設だけは作り続けたようである。


燕三条駅から燕駅へ

 燕三条駅前は、想像していた以上に何もなく、エリアは広くなかった。ウイラーエクスプレスのバスが少し早く着いたこともあり、燕三条駅周辺を20分で歩いてしまった。

 ここから燕駅までの3㎞を歩く予定でいたが、13:17発の列車に間に合いそうである。速足で燕三条駅にもどった。

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 駅構内にある燕三条駅観光物産センター「燕三条Wing」では燕三条で作られた商品が展示されていたが、慌てていたのでゆっくり見る時間はなかった。

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 燕駅までの1駅区間をJR弥彦線に乗った。これを逃せば、次の列車までの待ち時間は約2時間である。そうなれば当初の予定通り、歩くしかなくなる。

 JR弥彦線/燕三条 13:17 → 燕 13:22/料金144円  

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 燕駅に着いた。人口減少が顕著な地方の典型的な駅だった。昭和にはバス路線が数本はあったと思われる広さの駅前広場があった。広場には明光義塾と店が2、3軒あった。

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 広場の南にある本町交差点から南に歩いた。緩いカーブのある通りに人通りはなかった。周辺は住宅街である。昔は商店が並んでいただろうことが想像できた。

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 突き当りにあったのは「喫茶ロンドン」である。

 近くにあったのは「ホテル三條屋」である。この辺りで一番高い建物のようだ。

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 その南には中之口川が流れていた。この川は信濃川から分流し、下流で信濃川に合流し日本海に注ぐ。

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 「喫茶ロンドン」から西に歩いた。店はそれなりにあるが、人通りは少なく賑わっているとはいえない。

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 「カフェさんぽ道」は小さなカフェである。この周辺で一番新しい店だろう。

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 この通りがかって商店街を形成していたことは街灯を見ればわかる。商店街には名称が付いており、会費を取って活動していたのだろう。商店街が解散して、街灯だけが残った町はここだけではない。全国のいたるところにある。

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喫茶ロンドンに入ってみた

 「喫茶ロンドン」にもどってきた。昭和レトロな店に入ってみた。燕駅の南にこの店が残っていることを知っていた。最初から入店することを決めていた。

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 店内のレイアウトは4人が向かい合って座るボックス席が基本である。皮張りの椅子は弾力を失っていなかった。一部のテーブルはゲーム機だった。レジは古かった。

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 壁にはいくつもの画が掛かっており、かってのアイドルかモデルのポスターが貼られていた。どこかで見つけてきたものではなく、当時から貼ってあったポスターが古くなったようだ。紙の反りや変色などの経年による劣化を感じなかった。

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 海老ピラフがメニューにあること自体が昭和のスタンダードという気がする。業務用のものを電子レンジで加熱した可能性はあったが、確証はない。うまいとはいえなかった。

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 メニューの品数は多く、全般に料金は高かった。近くにある「カフェさんぽ道」ではもっと安く食べることができるだろう。

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 昭和は意図的に再現されたのではない。丁寧なメンテナンスが寿命を延ばしたのである。おそらく周辺の人口減が店のリニューアルと再投資を不可能にしたのだろう。だから往時のまま生き残ったのである。

 「喫茶ロンドン」を出て少しジグザグに歩きながら、燕駅にもどった。

 燕駅前の広場に出た。


燕市循環バスに乗って吉田駅へ

 燕駅で下車したときに燕市循環バス「スワロー号」のバス停を見つけていた。

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 「喫茶ロンドン」から駅にもどったとき、吉田駅を経由する燕市循環バス「スワロー号」が少し遅れてやってきた。

 吉田駅で同じ燕市循環バスの「やひこ号」に乗り継げば、弥彦駅ではなく彌彦神社に直接行くことができる。弥彦駅と彌彦神社の距離は1.2㎞ほどある。

 一瞬躊躇したが、「スワロー号」に乗った。

 燕市循環バス「スワロー号」/燕駅バス停 14:30 → 吉田駅バス停 14:55/料金100円

 「スワロー号」は田舎の平凡な住宅地を抜けた。

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 6分遅れて吉田駅に着いた。定刻に着いた場合の乗り継ぎ時間は10分あるが、「スワロー号」が少し遅れたため4分に短縮されていた。

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 吉田駅前に停まっていたのはタクシーだけだった。乗り継ぐ予定の燕市循環バス「やひこ号」はまだ到着していなかった。

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 その時間を利用して駅前の写真を撮った。ほんの少しの間、広場のバス停が見えない場所に入った。

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 吉田駅前にあるバス停にもどったのは15:05ちょうどである。そのとき目の前をバスが通った。私は「やひこ号」が吉田駅にやって来たものだと思ったが、バスは駅を出ていくところだった。バスのドライバーと目が合ったが、バスは停まらなかった。大げさに合図をすれば停まってくれたかもしれない。中型のバンで運用されている「やひこ号」には誰も乗っていなかった。「やひこ号」に乗っていれば、彌彦神社に15:43に着いている。

 下の1枚は2000年1月29日の吉田駅。今の駅舎とほとんど同じである。

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彌彦神社に参拝した

 結局JR弥彦線で行くことになってしまった。燕駅を15:15に発車する列車に乗った場合と同じことになってしまった。

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 JR弥彦線/吉田 15:47 → 弥彦 15:55/料金190円

 終着駅の弥彦駅で下車した。

 外はすっかり暗くなっていた。駅前は閑散としていた。

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 弥彦駅からまっすぐ北に延びる道を歩いた。左に曲がってすぐのところにあった観光案内所で地図をもらった。

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 信号を右に曲がった。土産物屋、食事処が多くなってきたが、多くは閉まっていた。大きな旅館もあった。

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※彌彦神社の「や」は漢字の「彌」を使っているが、弥彦村、弥彦駅、弥彦温泉などでは「弥」を用いている。

 弥彦駅周辺は閑散としていたが、彌彦神社にはわりと多くの人がいた。昼間は多くの参拝客がいたはずだ。正月の3日間で25万人を集める神社である。殆どの人は車で来ているということなのだろう。

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 初詣をすませた。

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 弥彦山(標高634m)を神体山として祀る神社に来たのは2回目である。

 彌彦神社から10分ほど北に歩けば弥彦山ロープウェイの山麗駅がある。山頂からは日本海が見える。ロープウェイの最終時刻は16:10なので、今日はもう弥彦山に上ることはできない。晴れた日には美しい日本海を見ることができる。

 下の1枚は1990年代初めの彌彦神社。

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 下の1枚は1990年代初めの、弥彦山山頂付近からの日本海の眺め。

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 弥彦駅にもどることにした。

 途中にあったのはおもてなし広場である。足湯がある広場だが、開いていたのは農産物直売所だけだった。コカ・コーラのスリムボトル新潟デザインがあった。このデザインは京都、横浜など全国にある。

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 弥彦駅は夜になっていた。

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弥彦線と越後線を乗り継いで粟生津駅へ

 JR弥彦線に乗った。

 JR弥彦線/弥彦 17:21 → 吉田 17:30 

 燕市循環バス「スワロー号」から「やひこ号」への乗り換えに失敗した吉田駅にもどってきた。ここで弥彦線から越後線に乗り換える。乗り換え時間は34分。

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 JR越後線/吉田 18:04 → 栗生津 18:11/料金210円(弥彦線+越後線)


粟生津駅から真っ暗な国道を2.6㎞歩いた

 粟生津駅で下車した。乗車した弥彦駅をSuicaで入場していたが、粟生津駅には簡易Suica改札機がなかった。地方でJRに乗る場合、私はこのことを気にしていて、ときどきは入場時に駅員に尋ねるようにしている。燕三条駅で弥彦線に乗るときも、弥彦駅をSuicaで出場できるかどうかを尋ねたが、越後線の全駅に簡易Suica改札機があるだろうと勝手に思ってしまっていた。

 現時点で私のSuica はJR東日本にたいする清算が終わっていない状況である。どこかの有人駅で清算をしないと私のSuicaはJR東日本管内(あるいは全JR)で使えない。こういうことは初めてではない。

 粟生津駅構内には切符の自動販売機がなかった。代わりに乗車証明書発券機があった。明日の朝、この駅から越後線に乗る予定である。

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 1日4往復の燕市循環バス「スワロー号」は粟生津駅に停まる。この駅から「スワロー号」を利用すれば、予約している宿泊先から1.2㎞離れたバス停まで行けるが、最終バスはすでに行ってしまっている。粟生津駅から歩いた場合、目的地までの距離は2.6㎞である。

 国道116号を歩くしかない、ああ旅なんだ、と思う。

 通行量が多ければ渋滞気味になるので、車はスピードを出さない。しかし多くない通行量の国道116号でほとんどの車はスピードを出して走っていた。

 歩道の幅は1~2mあるが、橋などでは50㎝ほどになっていた。歩道と車道の段差はない。

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 街灯はない。周辺は田園地帯である(真っ暗で確認できないけれど)。ドライバーが、国道を歩いている私を認識できるのは車のヘッドライトとたまたまロードサイドにある倉庫や建物などにある照明だけである。ああ旅なんだ、とは思えない。

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 雪が積もっていなくてよかった。雨でなくてよかった。

 暗く寒く怖い国道116号を40分ほど歩いた。

 途中にあったのは、粟生津駅近くのセブンイレブン、倉庫、事務所、ラブホテルだけであるが、目的地のそばに2軒の飲食店があった。

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 目的地の手前にあった「ひゃくてん」に入った。中華丼定食を食べた。味は普通だったが、量は普通ではなかった。

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公楽園にチェックインした

 「ひゃくてん」の隣で、その建物は煌々と光を放っていた。水たまりがある土の広場に数台の車が止まっていた。

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 公楽園にチェックインした。いつかは行かなければならないと思っていた場所である。

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 公楽園は、地元のドライバーには休憩場所あるいはドライブインとして利用されている。地元のゲームセンターでもある。宿泊が可能で、「西の長沢ガーデン」(山口県)、「東の公楽園」と呼ばれるようになった。

 数年前から気になっていたところであるが、2015年7月31日、NHK『ドキュメント72時間』で「田んぼのなかのオアシスホテル」として放映され一気に全国区になった。所在地は「新潟県燕市熊森1186」である。

 2001年に制作された「創業25年特別企画」の看板があった。つまり昭和51年に開業したということである。

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 料金は1泊2,880円。部屋はすべて2階にある。

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 建物の老朽化は否定できないが、バス、トイレ付きの部屋は普通である。部屋に入ったとき、照明は点いておりエアコンが動いていた。部屋は予想したより広く、清掃はしっかりされていた。シャンプー、ボディソープ、タオル、歯ブラシ、浴衣は用意されていた。

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 シャワーから湯は出た。電話で予約したとき「新潟なのでお湯が出ないこともあります」と言われていた。予約方法は電話しかない。満室になることもあるらしい。

 部屋に荷物を置いたあとは1階の探索である。

 1階には自動販売機が並んでいた。レトロ自販機マニアのなかでは有名らしい。

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 名物はトーストサンド。西ドイツのヘス社の特許実施権を取得した太平洋工業設計による自動販売機らしい。トーストサンド自体は公楽園で作られている。

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 ハムサンドとチーズサンド(250円)が選べる。2分待たずにパンが焼け、熱々のハムサンドが出てきた。

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 自動販売機コーナーの奥にあるのがゲームコーナーである。1階の2/3ほどのスペースを占めている。年代物のゲーム機が並んでいた。古いゲーム機を集めてきたというより、昔から使っていたものが今でもそのまま使われている。そういう雰囲気である。7、8人が熱心にゲームをしていた。

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 ゲームコーナーの音が2階の客室に聞こえてくることはなかった。

1日目 2018年12月6日 横浜 京都 大阪 泉佐野 

0:00を過ぎたYCAT(横浜シティ・エア・ターミナル)

 横浜駅東口にある2つの高速バス乗り場は発着レーンを共有しているのに入場する建物が異なる。横浜駅東口バスターミナルはそごうの1階にあるが、今日私が乗るバスはスカイビルにあるYCATから出発する。

 横浜に住んでいる私でさえ、横浜駅から高速バスに乗るときは注意が必要である。今日のバスはどっちだっけ、という具合である。

 YCATの第1ロビーにシャッターが下りていた。24:00を過ぎているからだと思われる。

 さくら観光のバスチケットには集合場所として「横浜駅東口スカイビル2階ペデストリアンデッキ」と記入されていた。ペデストリアンデッキに出てみた。確かにそこは集合場所だったが、バス便と氏名を確認されたあと、階下の第2ロビーで待つように言われた。

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 第1ロビーは閉まっているのに第2ロビーは開いているわけだ。

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 チケットに発車時刻は記載されていなかった。記載されていた0:45は、市川から東京駅を経由してやってくるバスの集合時刻である。

 第2ロビーにスタッフが迎えにきた。スカイビルの外に出た。発着レーンからでない、道路上のバス停からの出発だった。ややこしい。

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 さくら観光TK31D/YCAT 0:45過ぎ → 京都駅南口 8:00頃

 久しぶりの3列シートである。


京都駅から京都市営地下鉄で四条へ 

 京都駅南口に着いた。

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 京都市営地下鉄に乗った。料金は2区間で210円。京都市営地下鉄に乗るときだけは大阪メトロの運賃を高いと思わない。

 京都市営地下鉄・烏丸線/京都 8:21 → 四条 8:25

 ラッシュの時間帯に重なったが、車内での人と人との隙間は首都園の満員電車とは違った。ほんの少しの隙間があった。


四条河原町、茶屋町、先斗町、鴨川、祇園三条、宮川町、花見小路

 四条駅で下車した。よく考えたら(よく考えなくても)2年半ぶりの京都である。

 四条烏丸交差点に出た。

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 錦市場通りにある錦市場商店街に入った。商店街全体が「準備中」だった。暗い錦市場商店街を東に歩いた。

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 錦天満宮。

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 周辺の通りをじぐざぐに歩いてみた。店のほとんどは閉まっていた。

 店が閉まっているのは新京極商店街も同じだった。四条通りをまっすぐ河原町、四条方面に歩けばよいのだが、暇つぶしをしたいのでそうしただけである。

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 そして四条通りに出た。

 四条河原町交差点にある阪急電鉄河原町駅が見えてきた。久しぶりに阪急電車に乗ってみたい気分になったが、そうするわけにはいかない。映画『阪急電車 片道15分の奇蹟』に戸田恵梨香が出演していた。もっとも阪急京都線は映画の舞台ではない。小説(有川浩)は阪急今津線を舞台としており、映画もそれに準じている。

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 高瀬川を見ながら木屋町通りを北に歩いた。

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 途中、右(東)に折れ少し歩いた。南北に延びている先斗町に入った。店はもちろん営業前である。

 小路に軒を連ねる店店は密着している。京都を歩いていつも思うのは、文化を技術面から支えているのは工務店なのだろうということである。おそらく京都でしか必要とされない技術の蓄積があるのだろう。

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 再び四条通りに出た。

 北京料理の東華菜館本店は登録有形文化財である。建物内には現存する日本最古のエレベーターがある(1924年製)。

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 鴨川に架かる四条大橋を渡った。京阪電鉄の祇園四条駅に着いた。

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 京都四條南座は変わらずにあった。ここ数年はこの周辺しか歩いていない。

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 それにしてもこの辺りの(歩行者にとっての)赤信号の点滅時間が長すぎる。車側の青信号の点滅時間を長くしないと、渋滞をさばけないからだろう。それほど京都の渋滞はひどい。

 鴨川に沿って南に歩き、宮川筋4丁目に入った。

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 東山女子技芸学校があった。中学校を卒業した女子が舞妓修行をする学校法人である。5年間で日本舞踊、長唄、常磐津、笛、茶道などを習う。宮川町は花見小路、先斗町と並び舞妓に会える街である。街中で舞妓を見たことはないが、早朝の宮川町を外国人がちらほら歩いていた。

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 宮川町は花街である。娼妓中心の遊郭として発展した歴史がある。そのうちゆっくり歩いてみたい。
 
 八坂通りを東に歩いた。

 建仁寺が見えてきた。境内を通り抜けている人たちがいた。歩いていた人に尋ねると「境内を抜けて四条通りに行けます」と返ってきた。境内を歩いている人は拝観料を払っていない。早朝の拝観料が無料だったり、住民の通り抜けのために境内をフリーパスにしている寺社は日本のところどころにある。

 三門と法堂の脇を歩いた。拝観料は本堂だけを対象にしたものなのかどうか、わからないまま境内を抜けてしまった。

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 建仁寺南東側にカフェがぽつんぽつんとあるが、いずれも閉まっていた。「% Arabica Kyoto(アラビカキョウト)」もこの周辺にあるはずだが、閉まっているだろうと思い、行かなかった。

 草間彌生展が開かれているフォーエバー現代美術館の前を通った。

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 花見小路を抜け、またまた四条通りに出てしまった。

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 四条通りの、内装が少々古ぼったいタリーズコーヒーにコンセントがないことを知っている。西に歩き再び四条大橋を渡り、東華菜館本店の隣にあるドトールコーヒーに入った。

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Cさんと

 ドトールコーヒーを出て、四条通りを東に歩いた。四条大橋を渡り、京都四條南座の前を通過した。辻利の前でCさんと会った。5ヶ月ぶりである。

 博多もつ鍋「やまや」に入った。博多に本社がある店らしく、明太子が食べ放題である。ヘルシーさを好む女子をターゲットにしながら、食べ過ぎに注意すべき(だと思われている)明太子を食べ放題にするのは企業としては頭がいい。人気店らしく、店を出るとき、女子の行列ができていた。

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 Auの1階にある「BLUE LEAF CAFÉ」に入った。広く明るく感じのいいカフェである。Cさんも初めてだという。

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 旅仲間のCさんと会うのは京都か横浜のどちらかである。この前行ったところはどうだったとか次はどこに行くのかといったような話がほとんどである。南米、中米の話をもっと突っ込んで聞きたかったが、私のほうに知識がなさすぎた。Cさんは明後日から働くらしい。ひと稼ぎしたあと、旅に出るということなのだろう。素晴らしい。


京阪電車で淀屋橋へ 

 京阪電鉄京阪本線/祇園四条 13:34 → 淀屋橋 14:23

 Cさんと別れ、祇園四条駅から下り電車に乗った。京阪電鉄では(京都)三条行きが「上り」で、(大阪)淀屋橋方面行きは「下り」である。京都を大阪より格上として扱っている。阪急京都線は京阪電鉄と同じように、河原町行きが「上り」、梅田行きは「下り」である。

 近鉄大阪線は上本町、難波行きが「上り」となる。そうであるのなら、名阪特急の名古屋行きは「下り」となるはずだが、そうではない。名阪特急に限り「上り」「下り」の区別をしていない。近鉄は、大阪と名古屋を同格に扱っている。伊勢中川駅では2つの方向への「上り」電車が発車する。近鉄名古屋行きは「上り」であり、名張(上本町、難波方面)行きも「上り」である。

 関西の私鉄は自己都合で「上り」「下り」を決めているというより、企業というものはあちこちに気を使いながら商売をやっていくものである。

 関西大手私鉄のなかで京阪電鉄は地味である。阪急、近鉄、南海はかってプロ野球の球団を所有しており、阪神には今でも阪神タイガースがある。昔、関西で野球の話をするときは、どことなく親会社である電鉄会社のイメージが想像できたものである。そういうなかで京阪電鉄だけが蚊帳の外だったことと関わりがあるかもしれない。

 ※阪神タイガースの親会社は阪神電鉄であるが、阪神電鉄は阪急阪神ホールディングスの傘下企業である。

 ダブルデッカーの2階の窓際に座ることができた。京阪電鉄には他に2列×1列の電車もある。有料や座席指定でない電車の場合、首都圏に住んでいる者は京浜急行の2列×2列の転換クロスシートが最高であると思っているが、京阪電車には遠く及ばない。関西の大手私鉄は伝統的にJR(と旧国鉄)との競争を繰り広げてきた分、サービスが充実している。とりわけ京阪電車は素晴らしい。どこよりも早く5扉車やテレビカーを登場させたサービスの革新性は現在の車両にも生かされている。

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 大阪北部の雨の景色を見ながら乗っていた。終点淀屋橋駅に着いた。


なんばまで

 御堂筋線でなんばに向かう。大阪メトロと南海電鉄は「なんば駅」、近鉄は「大阪難波駅」である。大阪メトロ(大阪市営地下鉄)はいつから「OsakaMetro」のロゴを使うようになったのだろう。

 大阪メトロ・御堂筋線/淀屋橋 14:40頃 → なんば 14:50頃

 京都でぱらついていた雨は大阪では本降りになっていた。
 
 アジアのLCCの荷物制限をクリアするため、合わせて7㎏の荷物を詰めた2つのリュック(やや大きなリュックと小さなリュック)に傘は入っていない。リュックのカバーも持ってきていない。

 御堂筋が雨なのだから戎橋も千日前も雨である。できる限り地上を歩きたくない。

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 サンマルクカフェのまずいアメリカンを飲みながら時間をつぶした。

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 サンマルクカフェを出た。濡れないことだけが取り得である「なんばウォーク」を歩いて南海電鉄なんば駅の1階に向かった.。地上はとてつもなくおもしろい大阪も地下はおもしろくない。「なんばウォーク」は地上を再現すべきだった。一度ぶっ壊してよい。

 下の1枚は途中にあったクジラパーク。なんば周辺の待ち合わせスポットの1つである。

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Nさんと

 南海電鉄なんば駅の1階でNさんと待ち合わせた。

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 2人で飲み屋を探しながら千日前を歩いた。味園ユニバースの前を通った。

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 下の1枚は昼間の味園ユニバース(2016年3月11日撮影)。2015年、映画『味園ユニバース』(渋谷すばる、二階堂ふみ)が公開されたが、観ていない。

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 「Maidoたよし」で飲んだ。普通の居酒屋だが、味はわりとしっかりしていた。

 Nさんとの話はほとんどが旅の話である。たまに文明論的なことが入ることもあるが、たいていはあそこにどうだったとか、どこに行ってみたいとかそういうことである。

 お互いの旅のスタイルは異なるはずで、異なることをそれぞれ意識しているが、第三者から見ると似ているかもしれない。

 いつもなら2軒目の飲み屋に行くところだが、この日の2軒目はスターバックスコーヒー。

 今日は私のほうに事情がある。明朝、関西国際空港から出国する。逃亡ではない。今日このあと泉佐野駅近くのゲストハウスに泊まる。追手はいないので潜伏ではない。

 なんば駅でNさんと別れた。


南海電車で泉佐野へ

 1番線にはラピートが停まっていた。私が乗ったのは区間急行である。

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 南海電鉄・南海本線/なんば 22:02 → 泉佐野 22:37
 
 泉佐野駅の近くにあるグリーンウッドホステルにチェックインした。夜遅くチェックインする場合、ホステルには泊まりたくないが、宿泊費が安かったので予約しておいた。

 お洒落なホステルであるが、全体として狭い。泊まったのは男女混合の8人ドミトリーである。レセプションの対応はよく、宿泊者はみんな静かに過ごしていた。ドミトリーが騒がしくなるかどうかはレセプションの力次第である。


 この旅日記の続き(2日目以降)は“アジアンカフェをよろしく[2日目 2018年12月7日 泉佐野 関西国際空港 バンコク]”に掲載しています。

3日目 2018年7月10日 静岡

「泊まれる純喫茶ヒトヤ堂」でモーニング

 「泊まれる純喫茶ヒトヤ堂」の出入口は喫茶店になっている。その奥にあるフリースペースで喫茶店のモーニングセットを注文した。出されたコーヒーはサイフォンで煎れたもの。サイフォンコーヒーが飲まれなくなったのは喫茶店が少なくなったからである。

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 喫茶店をリノベーションした際にコーヒーの淹れ方を引き継いだらしい。出されたコーヒーはやや深みに欠ける感じだったが、わりとすっきりしてたくさん飲めそうである。

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 9:40頃、チェックアウトした。


時間つぶしの静岡

 今日も暑くなりそうだ、ではない。静岡はすでに焦げている。

 静岡市街で見たいところは1ヶ所しかなくその場所にはおそらく何もない。その場所を見るために多くの時間が必要になるわけではない。バスの出発時刻である15:20まで時間は十分余っている。

 静岡駅と横浜駅の路線距離は100km以上あり、JRの普通切符は「途中下車前途有効」になる。その切符が1枚あれば、どこかの駅で途中下車した場合でも新たに切符を買うことなく横浜駅まで行ける。しかし静岡駅と横浜駅の間のほとんどの駅で下車したことがある。

 行ったことのない薩埵(さった)峠に行くことを考えたが、興津駅で下りて歩いた場合、ちょっとした登山になりそうである。

 炎天下の峠道を歩く勇気を持ち合わせていない。JRではなく静岡駅発の高速バスで帰ることを決めていた。2日前清水の宿泊先で予約した。

 そういうわけで残り時間を静岡市街でつぶさなければならない。

 青葉通りと呉服通りの交差する青葉イベント広場葵スクエアに警察官が集まっていた。「夏の交通安全県民運動3区合同出陣式」のセレモニーをやっていた。劇団四季「オペラ座の怪人」静岡公演に出演した女優が交通安全大使らしい。

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 後ろのほうで見ていたが、暑すぎた。立っているだけで汗が出てくる。

 「泊まれる純喫茶ヒトヤ堂」でモーニングセットのコーヒーを飲んだばかりだが、隣りにあったマクドナルドに入った。アイスコーヒー。

 窓から出陣式の様子が見えた。出陣していくパトカーや白バイをご当地キャラクターが送り出していた。3体いたご当地キャラクターのデザインはバラバラである。2日前に清水駅前銀座商店街のなかで見た「シズラ」の絵を覚えていた。

 その場で検索してみた。3体は静岡市3区のそれぞれのキャラクターだった。下の写真の左から右に「あおいくん」(葵区)、「トロベー」(駿河区)、「シズラ」(清水区)である。「あおいくん」は徳川家の葵の御紋、「トロベー」は登呂遺跡が関係している。

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 いつまでもマクドナルドにいたくない。

 呉服町通り、江川町通り、両替町通りなどを適当に歩いた。静岡の中心部は碁盤の目になっており、わかりやすい。全体としてきれいに整っており楽しく歩けるが、インパクトのある街ではない。

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静岡駅南口 → 駿河区中田

 すぐに静岡駅に着いてしまった。駅の南東側にある南口に出てみた。飲み屋が集まっている小さな一画があった。

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 南口の一番よい立地にスルガ銀行があった。スマートデイズのシェアハウス問題で行員が預金残高改ざんに関わった話題の銀行なので、どうしても写真を撮ってしまう。2日前は清水駅の近くで、昨日はインディアンレストラン&バー「チャイ」の近くで、別の支店を見た。本店は沼津市にある。

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 スルガ銀行の南にある静岡科学館が入居しているエスパティオと静岡スカイタワーの間を南西に走っているのが石田街道である。

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 石田街道を南東に歩いた。稲川交差点で静岡県道354号と交差した。

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 稲川交差点の南側の所在地は「静岡市駿河区中田」である。この「中田」という所在地に戦後の一時期、RAAがあった。


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RAAとは

 RAAとは「Recreation and Amusement  Association」の略で、「特殊慰安施設協会」を指す。

 第二次世界大戦の終戦直後、日本政府は進駐してくる米軍(連合国軍)兵士による性暴行や性犯罪を危惧した。そこで進駐軍向けの慰安所と慰安婦の提供を決めた。米軍が進駐していない時期にこういう決定をしていたことに驚く。


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RAAは日本政府が作った

 8月18日(ポツダム宣言受諾の3日後)、内務省は「外国軍駐屯地に於る慰安施設について」および「外国駐屯軍慰安設備に関する整備要綱」を各県に通達した。

 戦後すぐの内閣と戦前の内閣はしばしば用意周到である。以前御殿場線の歴史を調べたことがあった。第二次世界大戦のさなか、御殿場線は複線から単線になった。戦争が始まり鉄が足りなくなったので、政府は御殿場線などの線路を無理やり引っ剥がしていったのではない。金属類回収令は1941年8月30日つまり戦前に公布されている。政府は法令順守の下に鉄を回収していったのである。

 1945年8月22日の、内務省警保局「連合軍進駐経緯ニ関スル件」に「聯合軍進駐ニ伴ヒ宿舎輸送設備(自動車、トラック等)慰安所等斡旋ヲ要求シ居リ」と記されている。

 米軍の第一陣が厚木飛行場に降り立ったのは1945年8月28日で、マッカーサーはその2日後にやってきた。

 米軍の第一陣が到着する2日前の8月26日、政府の要望を受けた花柳界はRAAを発足させた。日本勧業銀行(現みずほ銀行)が、当時の額で5,500万円を融資した。戦後まもなくの日本の官民一体の行動は、1905年にロジェストヴェンスキーの艦隊を日本海に葬り去った連合艦隊のように迅速だった。

 日本の女性を性暴力、性犯罪から守るという大義名分は日本政府が考え出したものである。日本政府側に立つならば、進駐後の米軍による施政を少しでもゆるやかなものにするという狙いがあったのかもしれない。具体的には、欧州戦線で米軍によるドイツ人、フランス人への性的被害が多数あったこと、すでに陥落していた沖縄に上陸した米軍兵士が同様のふるまいを行っていたからである。しかし米軍の出方が何一つわからない状況下で、早すぎる“おもてなし”行為である。

 戦後の3ヶ月間でRAAは東京都内だけで25ヶ所になった。それだけではない、大阪府、神奈川県、愛知県、静岡県、兵庫県など日本各地に広まっている。RAAで働く女性の数は、東京都内だけで約1,600人、全国で4,000人だといわれている。そこには生きる手段として売春行為をせざるを得なかった女性の経済問題がある。

 RAAは1946年3月で廃止になっている。米本国から厳しい批判を受けたからである。このような米国の政治、人権スタンスを背景にしているマッカーサーは日本政府にRAAを要求していなかっただろう(私の推測を含んでいる)。

 RAAで働いていた女性が語ることはなかった。それは恥ずべき行為として隠された。RAAは戦後のどさくさのなかに消えていった、のではない。RAAこそが戦後のどさくさそのものであった。

 小説『ゼロの焦点』(松本清張)では、過去に米兵(GI)相手に売春行為(パンパン)を行った2人の女が登場する。それはおそらくRAAが廃止されたあとの、行き場を失った女たちである。社長夫人となった(1人の)女が自らの過去を隠し通そうとしたために次々と人を殺してしまう。


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静岡のRAA

 静岡県には米軍第6軍25師団35連隊の約3,600名が進駐した。それは予想を超える人数だったのかもしれない。慰安施設の他、キャバレー、ダンスホールが作られた。

 静岡市の田中屋4階と松坂屋地下の2ヶ所にビヤホールを設けられた。特殊慰安所である「富士園」は中田町2丁目に置かれた。「富士園」は接待婦50人~60人で開業している。1945年6月19日(と20日未明)に静岡大空襲で焼失した二丁町遊廓は、場所を移しかたちを変えて蘇ったわけである。その二丁町遊廓跡付近は昨日歩いた。

 (※静岡市は1944年から終戦まで26回の空襲を受けている。)

 1945年後半の静岡新聞の広告のなかに特殊慰安所関連のものがある。たとえば静岡藝妓置屋組合假事務所は開業広告を載せている。そのなかの1つに「特殊慰安婦求ム 十八才ヨリ三十才迄ノカタ・・・・」(原文)とあるのは熱海市糸川の「喜満々」の広告である。

 また1945年11月12日の静岡新聞には「三島では六反田新開地に慰安所が設けられた。磐田では中泉遊廓を「駿遠クラブ」と改称した。(磐田の)ビヤホールは中泉と見付の2ヶ所に設けられた。藤枝では焼津士官クラブ、静浜クラブができている」(筆者要約)といった記事が掲載されている。

 熱海の糸川、三島の六反田(現在の広小路)は今でも怪しげな雰囲気を残している。中泉遊郭のあった中泉字田町は磐田駅(JR東海道本線)の西北にある。歩いたことはないがおそらく完全な住宅地になっている。磐田駅から北に延びるジュピロード(静岡県道56号)沿いには古い店があり、駅から3.5kmほど離れた日本最古の木造擬洋風小学校校舎が残る旧見付学校は磐田市の傑作である。

 静岡新聞の1945年12月3日号には、前述の「富士園」が着物の買取広告を出している。女性に着せるキモノの購入のためである。内容は以下の通りである。

 「キモノ類(銘仙以上) 何デモ高價二カヒマス 純綿トノ交換モイタシマス ・・・ 静岡市・・特殊慰安所 富士園」(原文)

 静岡新聞の1945年12月29日号の富士園の広告はRAAの終わりを告げるものである。

 「本日午後一時ヨリ一般ノ御客様向キヲ始メマス」(原文)

 原文の「一般ノ御客」とは日本人を指す。マッカーサーは米国軍人の特殊慰安所への立ち入りを早々に禁止した。「富士園」は日本人を受け入れるしかなくなった。

 1946年2月20日、GHQは公娼制度を廃止した。「富士園」はRAAを終えることになった。

 上記の内容については「お散歩日記」(花町太郎氏)を参考にさせていただいた。


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(静岡市駿河区)中田を歩いた

 稲川交差点を渡ったところにギリシャ建築風の建物があった。アーセンティア迎賓館という結婚式場であった。

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 路地に入ってみた。周辺は単なる住宅地だった。

 RAA「富士園」はそのあと「晁東アパート」として使われていた。「晁東」は安倍川の東という意味である。「晁東アパート」は建て替えられ、現在は「3階建ての建物」になっている。

 その「3階建ての建物」の写真をコピーしてきたが、場所がわかっていない。探しているのは、建て替わったあとの建物である。その建物を見つけたあと、周囲に歩き、わずかでもRAAの残滓を見ることができれば成果があったということになるが、可能性は限りなくゼロに近い。

 例外がないわけではない。1947年(昭和22年)カスリン台風、1948年アイオン台風の2つの台風により、600人余りの犠牲者(=死者+行方不明者)とともに不夜城として賑わいを見せていた「花川戸」(岩手県一関市)が消滅した。多くの遊女が流された跡地周辺には数軒の旅館が営業していた。2017年2月のことである。そこは旅館の立地としては明らかに不自然な場所だった。しかし「花川戸」には歴史がある。

 一方RAAは、戦後付け焼刃的に発足し、半年で幕を下ろした歴史の仇花である。

 「3階建ての建物」は「中田」のどこにあるのかわからない。関連するいくつかの固有名詞をグーグルマップで検索しても何もヒットしなかった。

 「中田」の住宅地のなかにスーパーマーケットがあった。石田街道沿いにビクトリアホテルがあった。それらは怪しげではなかった。「中田」には、ただの、普通の、ありきたりの、何の変哲もない、どこをどうフォーカスしても怪しげのない住宅地だけがあった。

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 緻密なローラー作戦を展開したわけではない。炎天下でそんなことはできないが、炎天下でなくてもそうしない。だから本当は何かが残っており、私がそれを見つけられなかっただけということなのかもしれない。コピーしてきた「3階建ての建物」の写真を、帰宅後私は捨てるだろう。


JRバスで横浜へ

 静岡駅にもどる途中、路地の奥に2軒のホテルを見つけたが、所在地は(静岡市駿河区)「中田」ではなく、(静岡市駿河区)稲川である。

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 静岡駅を通り抜け呉服通りにあるタリーズコーヒー静岡紺屋町店に入った。

 2日前タリーズコーヒー清水駅前店に入り、昨日新静岡セノバのタリーズコーヒー静岡ペガサート店に入った。静岡駅の地下には2軒のタリーズコーヒーがあった。静岡市ではタリーズコーヒーが特に目立っていた。静岡のタリーズコーヒーこそは電源コンセントを保障してくれるカフェである。ティラミスカプチーノ。

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 2時間近くいたタリーズコーヒーを15:00に出た。

 静岡駅北口でJRバスに乗った。定員が40人ほどのバスに静岡駅で乗車したのは3人だった。

 JRバス/東名114号  静岡駅 15:20 → 東名大和 17:59(予定)

 座席にコンセントが付いていたが、前の座席の背もたれに注意書きがあった「コンセントのご使用は、携帯電話等の充電に限ります。パソコン、DVD機器、ゲーム機等のご使用はできません。・・・」。注意書きを見なかったことにしてパソコンのアダプターをつないだが、30分ほどで旅日記を書くことに飽きてしまった。

 昼ご飯を食べていない。車内飲食用に静岡駅ビルで買っておいた「こっこ」(静岡土産)を食べた。

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 暇なので風景を撮影していたが、それにも飽きてしまった。

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 バスは小さな愛鷹(あしたか)パーキングエリアで休憩した。大きな足柄サービスエリアにしてほしかった。

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 バスは快調に走っていた。定刻に東名大和バス停に着くと思われたが、相模川の手前で渋滞にはまった。

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 渋滞は解消することなく東名大和バス停に着いたときは40分ほど遅れていた。東名大和バス停を下車したところで事故現場が少しだけ見えた。

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 東名大和バス停から相模鉄道大和駅までは徒歩15分である。

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  (終)